024 夏の研究室 1 <真夏の昼の実験室>
夏休み前の化学の実験室は….暑い。真面目に暑い。ひたすら暑い。外気温より5℃以上は暑い。もしかしたら10℃近く暑い。これでエアコンの冷房を最大風力でガンガンにかけているのだけど、…室温は下がらない。
この暑い中でも、4年生は夏休みまでに実験結果を出さないと、お盆休み直後の中間発表会に話すことがなくなる。院生は秋の学会シーズンの講演要旨集の原稿の締め切りが8月末に迫っている。そのため、学生さんたちは汗をだらだらと流しながら、今日も暑い中で実験を行う。正直にいえば、まだ涼しかった4月5月に実験して、研究を進めておけば良いのに。なぜか締め切りが近づかないとやる気を出せなくてグータラさぼり、実験しないし、研究を進めない。つまり、計画性がない。あるいは、いろいろと締め切り間際になってから『本気』なるものを出せば何とでも出来ると自分の能力を過信しているのだろうか? アホや! どんなにがんばっても1日は24時間しかない。
夏の実験室はとにかく暑い。その理由は明白だ。3台の冷蔵庫、4台の投げ込み式冷却クーラー、3台の器具乾燥器、3台のガスクロマトグラフィー、何台もの加熱用オイルバス、その他多数の加熱機器…これらの熱源からの排熱は全て実験室内に放出されている。それに加え、常時10人以上の学生がうろうろしている。ひとりの人間の発熱量はおおよそ200Wダから、10人いれば2kWだ。電気ストーブ2〜3台の熱を出している。そんな大量の熱源が存在している実験室に、4台のクーラーでは力不足だ。冷房を最大限にかけても、文字どおり『焼け石に水』である。冷房の吐き出す冷気が虚しい。
特にこの実験室は3階建ての3階だ。アチアチに焼けた天井のコンクリートからの輻射熱が酷い。屋上に張られた雨漏り防止用の黒ゴム塗装が日差しをそのままほぼ全て熱に変えている。日中、下手に屋上に上がると…溶けたゴムに足を取られる。
それならば、『冬は暖かく快適だろう』と考える人も居るかもしれない。しかし、冬の実験室はメチャ寒い。換気のために実験室では換気扇をガンガン回しているし、ドラフト(局所排気設備)も動かすので、実験室は陰圧になり、すきま風が窓から吹き込む。溶媒の匂いを感知したら、さらに窓を全開にしなければならない。
夏暑く冬寒い。最低やなぁ。これが平成の大学化学実験室の現実である。…エアコンのなかった昭和の化学実験室はどんな地獄だったんだろうか?
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そんなひたすら暑い実験室で院生が二人、実験作業をしながら駄弁っている。コラッ! 実験に集中しろ。 ただでさえ集中力散漫になっているのに、事故るぞ。
「今日も『真夏日』になるって朝の天気予報で言ってたぜ。」
「真夏日、ですか?」
「最高気温が34℃をこえるって天気予報で言ってた。」
「うわ〜っ! 34℃? 勘弁してよ。 ところで、気温が35℃とか40℃を超えると『何日』になるんだろうねえ?」
「ないない。日本で気温が40℃を越えることは絶対にないよ。赤道直下や熱帯じゃあるまいし。」
「わかんないぞぉ〜。そんなに強く否定していると、フラグが立ったりして…」
「やめてょぉ〜。縁起でもない。」
「アメリカやイギリスの論文の『room temperature(室温)』は20℃だそうな。でも日本は25℃だってさ(笑)。それ絶対に嘘だね、夏場は35℃だよ。 きっと冬場は10℃だよ。 ところで、今の室温は?」
「…38℃だ。体温より高いぞ。そりゃ暑いわけだ。 エアコンはついているんだよな。」
「ついているよ。…みんなエアコンの吹き出し口にたかってるよ。」
エアコンの吹き出し口の舌に4年生が5人ほどかたまって、みな口を開けてボーッと涼んでいる。
「今日はエーテル(ジエチルエーテル:沸点38℃)や塩化メチレン(別名ジクロロメタン:沸点40℃)を使う抽出は、危ないなぁ。」
「うん。気化しやすいもんなぁ。」
「エーテル三段活用って知ってるかぃ?」
「なにそれ?」
「こういう暑い日のエーテルは…『エーテルが漏れェーテル、エーテルが煮エーテル、終いにはエーテルが燃エーテル』だそうな。」
「おもんない。(おもしろくない)」
「でもな…」
と言いつつ彼はエーテルの小瓶のネジ蓋を開ける。瓶の内圧が下がり、プシューとガス状のエーテルが吹き出す。瓶の中のエーテルは気化熱で冷やされるため、沸騰することはないけど、部屋の中にエーテルの臭いが撒き散らされる。
「気化熱で冷えるから、すぐに揮発してなくなることはないけど、ガス化したエーテルは怖いな。それにエーテルは引火しやすいし。」
「…塩化メチレンも気化しやすいよな!」
「でも、塩化メチレンは燃えないよ。 毒性は高いけど。」
エーテルは燃えてもその炎が薄い青色で赤くないから、気がつかないのが怖い。昭和の化学実験における加熱には、ブンゼンバーナーをまだ使っていたから、バーナーから引火しやすかった。学生実験でエーテルを留去するための蒸留で、受けの三角フラスコにエーテルが溜まらないなあ、と思っていたら、蒸留されたエーテルが出口で全部燃えていた、というウソみたいな本当の話しもある。タマランなあ。
「暑い! 窓を開けよう。きっと外の方が涼しい。 お〜い!窓を開けろ!」
院生君のひとりが部屋の中の学生たちに呼びかける。
「え〜、でもエアコンが効かなくなりますよ。」
と吹き出し口の下にたむろっていた4年生が文句を言う。
「騙されたと思って、窓を開けてぇ!」
ぶつくさ言いながら4年生が窓を開ける。
「あ! 外の風が涼しい?」
「だろう? 窓は開けておこう。換気にもなるし。少し休憩して水分を取ろう。このままじゃ、みんな熱射病になっちまう。 麦茶は冷えているかな?」
院生君と実験室の4年生たちは、パーティションの向こうの学生居室へと移動した。




