022−電源コード 3 <イヤな予感>
5月も末になり、研究活動や実験も前に進み出した。ニューカマーの新4年生が実験に慣れはじめたこの時期に大きなトラブルは起り易い。イヤダイヤダ、あーイヤだ。
そして、その日の朝から、安野は『イヤな予感』に苛まれていた。
『安野のよく当たるイヤな予感』、学生にも認識されている。しかし、この予感は心が落ち着かなくなり、心臓がモケモケするというような『虫の知らせ』であり、何時、何処で、何が起るという『予知』の要素に欠けている。そのため、事故防止の役に立たない。そのイヤな予感の表明は周囲の者をイヤな気分にさせるだけだ。それでも安野は「イヤな予感がする」と表明する。それにより周りが少しでも注意深くなり、事故が予防できれば『めっけもの』である。でも、事故が防止できればそのイヤな予感は外れたことになる。
それでもこの能力はアクシデント(事故)をインシデントやヒヤリハットに抑える役には立つ。この予知能力?を持つために、安野は大学全体の安全関係の実務に関わっている。備えがあれば憂いは無くならなくても小さくなる。いろいろな学会や会合で聞く限り、大学で安全の実務を担当する先生の中にはこのような予知?能力を隠し持つ方が少なからずいるようだ。そのような能力をもたれる先生の何人かは西日本におられる。
安野の生まれるずっと前に亡くなった母方の祖父もそのような能力者だったらしい。彼は終戦直前の6月に「イヤな予感がする」と家族を広島市街から西条へ疎開させた。当時の広島はまだ空襲にも襲われていなかった。多くの市民は「古都京都と同じように美しい水の都広島をアメさんは襲わないのだろう」、と楽観視していた。しかし、祖父は家族の反対を押し切り、西条へ引っ越した。その2ヶ月後、広島は原爆禍に襲われた。そのおかげで、安野の母は死なずに済んだ。しかし、当時、医者だった祖父は入市被曝で若くして亡くなった。自分の命を護れなかった程度に役立たずの能力だったようだ。それとも祖父は覚悟の上で職業的使命感から救助に向かったのだろうか? 今はもうわからない。
無意識の独り言を聞かれないように、中間試験の問題作成時に安野は准教授室の扉を閉めておく。しかし、その日は事故発生を感知しやすいように、そしてすぐに対応できるように、扉を開けたまま問題を作成していた。
ヤバい、心臓がモケモケとする。胸騒ぎだ。安野はパソコンのモニターから視線をあげて身構えた。
《来る》
《来る!》
《来る!!》
「来ない」
ニコにコ顔の大学院生が部屋の入り口の扉のところに立っている。
「先生、何が来るんですか?」
研究室で付き合いの長い院生が茶々を入れたらしい。私は心の声を口に出していたようだ。
緊張の糸の切れた私は苦笑しながら、
「いやね、何かイヤな予感がするんだよ。インシデントがやってくるような、そんな気がしてね。」
「先生、いつものイヤな予感ですか? 心配性ですね。」
彼は何枚かのプリントを手に持って苦笑している。
「先生、ところで、今、お時間ありますでしょうか?」
「なにかな?」
「この実験指示書のここが読めないんです。」
彼の手にしている実験指示書は昨日私が書きなぐったものだ。俗にいう『安野文字』と呼ばれる私の悪筆は、…読み難いのだろう。実物を見たことはないが、『安野文字解読辞典』なるものが学生間に出回っているそうだ。ちなみに彼の指差したところは、…書いた自分も読めない。
「どれどれ?」
彼は院生だから学部の中間試験は関係ない。それでも彼が私の室内の奥まで入ってこないように、私は苦笑しながら事務机から立ち上がり、扉に向かったとき、突然に実験室から大きな音がした。
「ガッシャ〜ン」あるいは「バッシャ〜ン」と聞こえた。何か液体の入った金属容器を床面に落とした音だ。同時に、
「ゥワッチョ〜!」
と、間抜けなブルースリーのような叫び声が聞こえた。
「「来ちゃった…」」
安野は院生君と向かい合い、眉をハの字にしてハモった。院生君も困った顔をしている。
「来ちゃいましたねェ。」
と彼は緊張感なく私の呟きに応えた。




