閑話-13 学生実験[有機化学]の予習
大学で私の担当する学生実験[有機化学]の進め方は少し特徴的だ。徹底的な予習を求める。実験開始前に個々の学生に対して予習のプルーフとして実験ノートのチェックを行う。予習チェックを通過しない学生には実験をさせない。
もちろん、実験前の予習項目についてはプリントに詳細に記載して、事前に学生に配布してある。その全てに必用かつ十分な予習を行っていることを確認する。実験ノートに記載していない内容は『予習していない』と判定される。必用なら口頭試問も行う。予習不足と判定されれば、実験に取りかかれない。時間が足りなくなっても、実験を開始できない。タイパやコスパにこだわり、最低限の予習で済まそうとすると、いつまでたっても実験を行えない。
実験内容は 1 g スケールでの『アセチルサリチル酸』の合成である。操作はサリチル酸を無水酢酸中にけん濁し、そこへ触媒量の濃硫酸を入れる。すると、白濁している液体中で反応がすすみ、発熱し、無色透明な溶液に変化する。これは最初は極性の比較的低い無水酢酸中に極性の高いサリチル酸は解け難く、固体が解け残り白濁する。しかし、反応に伴い極性の高い酢酸が生成し、サリチル酸が溶けていくことによる。そして溶液中で反応が進行すると、生成した結晶性の高いアセチルサリチル酸が白色固体として沈殿してくる。このとき、アセチルサリチル酸の極性はサリチル酸より低く、極性の高い酢酸には解け難く、沈殿してくる。しかし、大過剰量の無水酢酸を用いて反応させると、溶媒の極性は低いままで、アセチルサリチル酸はなかなか析出してこない。あるいは、液層にとけ込んだままになるため、収率が低くなる。『適切』な小過剰量の無水酢酸を使わなければならない。
予習のチェックポイントは、まずMSDSをよく読んで、『理解』しているかどうかだ。MSDSはグーグル検索すれば、試薬会社のウェッブページで、そのpdfを見つけることが出来る。しかし、MSDSはこの実験のような1 g程度の少量薬品の取り扱いではなく、数百グラム、数キログラム、場合によってはトン単位での工業的な量での使用も意識している。そのため、そこに記載されている内容全てをノートに転写しても、ノートチェックを通過できない。トン単位で使用する際の消火設備の記載は、この学生実験の1 g量のサリチル酸を扱う実験の予習としては不要であるばかりか大事な情報をまぎれさせるノイズになる。今回の実験スケールで実験を行う場合に必用な記載事項や情報を、頭を使って常識に基づき取捨選択し、必用かつ十分に記載してあることを実験の予習として求める。これは実験そのものに加え、その薬品の危険性や有害性を定性的にだけではなく、定量的に『理解』していなければ書けない。
次のチェックポイントは使用予定試薬量の記載だ。表形式で書かせる。ここで、粉体をmL(体積)で記載している者は論外である。同様に液体を g (重量)で記載している場合は、その液体の比重の記載の有無もチェックする。
硫酸の扱いも大事なポイントだ。どのような方法でどの程度正確に精密に計りとり反応容器に入れるかを問う。この反応スケールで使う濃硫酸の量はおおよそ0.1 mLだ。この少量をどのように計り取るのかを問う。シリンジなどを使えば金属部分が溶ける。複雑な器具を使えば、壁面付着した濃硫酸が周囲を汚染し、危険だ。安全ピペッターでメスピペットで計ろうとしても、水よりも粘度の高い濃硫酸は内面付着分で正確に計れない。これは、答えがない。やむを得ずパスツールピペットで『2滴』入れさせる。液滴の体積はおおよそ0.05 mL/滴だ。2滴で約0.1 mLになる。有効数字1桁もない。
有効数字は重要だ。アセチルサリチル酸の秤量値を 1 gと記載している学生は、すぐに書き直しを命じられる。最終の収率は『%(パーセント)』で示す。しかし、有効数字1桁だと、『割』で表現することになる。
「ホウホウ。お前さんは実験結果を「8割」と書くつもりかな?」
と私はああえてイヤミを言う。同様に、実験結果の収率が『93.435%』
などと書いてあると、
「アレレ?オッカシイナア。ウチの秤は mgまでしか正確に計れないはずだけど? この結果はサブミリグラムまで計ったのかな?」
と、イヤミを言う。
実際にサリチル酸を1.0000 g秤量しようとすると、ひとりで秤を何分も何十分も占拠することとなり、他の学生の迷惑になる。しかも、湿気を吸ってしまい、秤量値はそこまで『正確』に計れない。大事なことは、手早く実際に秤量した量を『精密』に記録することだ。それを口頭試問する。
試薬も純粋とは限らない。使っている無水酢酸は新品でも保証純度98%だ。これは純度98%と言うことではない。品質保証純度が98~100%と言うことである…これを加味して実験を計画しなければならない。
しかも、学生実験で使っていると、中には試薬瓶の蓋をしっかり締めない奴も出てくる。湿気で無水酢酸がドンドン加水分解される。さあ?どうする?
その点もふまえて無水酢酸の使用量を考えなければならない。
「さあ! ノートチェックを始めるぞ!」
と私が宣言しても誰もノートを見せに来ない。先輩から私のノートチェックの厳しさが伝わっているようだ。
「さあ、実験の区切りもあるから、15:45までに許可を受けないと、今日は実験できないぞ。」
やがて、二人の学生が実験ノートをもってやってくる。ファースト・ペンギンは評価に値する。二人一組の実験だから、ノートチェックは二人まとめて行う。その片方の学生がノートをおずおずと出してくる。私はもうひとりの学生の方に、
「君のノートをチェックする。」
と宣言する。指名された学生が《アチャー》という顔をする。
「僕のノートは、まだ未完成です。」
「はい出直しといで。」
このバディ(2人組)を追い返す。
「次。」
1日3コマ(休憩時間も入れて5時間)、3日、計15時間の実験時間で、何回同じ実験を繰り返すかも、大事な評価ポイントだ。しかし、初日にノートチェックをパスして実験に取りかかれる学生は多くない。
「え〜と。君たちは何回目だったかな?」
「5回目です。」
「どこまでチェックが明日済んだかな?」
「実験操作までです。先ほどは生成物の純度評価で引っかかりました。」
「そうか。」
口頭試問をすすめる。
「まあ、何とか実際に実験しても問題なきそうだな。合格!」
と宣言し、ノートに『合格』のはんこを押す。2人が狂喜乱舞する。
「さあ、すぐに実験に取りかかれ。もうあと15分しかないぞ。」
予定通り、14:45に試薬を片付け、実験開始許可締め切り時間が来たことを宣言する。今回は48組中3組に実験許可を出した。最近はコスパやタイパにこだわりすぎて予習が不十分になり、初日の『合格』率が下がって来ている。
午後16時ごろになると、ノートチェック希望者の列はさらに長くなる。今日中に『合格』のはんこを受けられないと、次回の実験開始時間から実験できない。最低、2回実験を行い、実験条件の改良を行わなければ、レポートを掛けない。
まだ『合格』をもらえていない学生は必死になる。学生さんはたいへんだなぁ。
でもね。まだこれから17:45までの2時間半の間、ノートをチェックし続ける私も大変なんだからネ。




