閑話-11 ヨウ化メチル
「先生! ダメです。 やはり白く濁ります。」
「水か酸素が紛れ込んだんだろう。上手くできるまでやり直せ。」
1982年、若かった私の卒研の課題は『グリニャール反応の機構解明』だった。グリニャール試薬(RMgX)は20世紀はじめにビクトール=グリニャール氏が発明した、金属マグネシウムとハロゲン化アルキルをエーテル系溶媒中で反応させることにより簡便に調製できる有機金属試薬である。種々のグリニャール試薬(RMgX)とケトン(R’-CO-R”)との反応では、求核付加反応により炭素—炭素結合が形成され、アルコールのマグネシウム塩(RR’R”C-OMgX)ができる。このマグネシウム塩を塩化アンモニウム(NH4Cl)水溶液で加水分解すると、3級アルコール(RR’R”C-OH)を合成できる。1年生の学生実験の課題にもされる、基本的な有機化学反応のじとつだ。
若かった私も、臭化エチルとマグネシウムからエチルマグネシウムブロミド(EtMgBr)をTHF溶媒中で調製する実験は問題なく出来た。小過剰量のマグネシウムを使うため、未反応のマグネシウム細粉が残り、わずかに灰色の溶液になる。この溶液をシュレンク容器、つまり三方コックの付いたフラスコ内で無水、無酸素条件化で1週間ほど静置すれば、マグネシウムの微粉末が沈殿し、上澄みは無色透明の『EtMgBrのTHF溶液』となる。この溶液をギルマン法で逆中和滴定すると、その試薬の濃度を正確かつ精密に知ることが出来る。正しく言えば試薬の有効な濃度ではなく、試薬調製に使われたマグネシウムの量を見積もれる。活きているグリニャール試薬量はホワイトサイドのフェナントロリンを指示薬にする有機金属試薬の力価滴定で、これも正確かつ精密に見積もれる。ギルマン法とホワイトサイド法の差が、調製時に水や酸素でつぶれてしまったグリニャール試薬の量になる。最初に作ったときは容器の乾燥が足りなかったのか?それとも酸素が混入したのか?無色透明にならずに、
[ギルマン法の結果]>[ホワイトサイド法の結果]
になり、2つの測定の結果差も20%くらいあった。
しかし、同じ実験を10回20回と繰り返すと、この2つの測定法の結果の差は小さくなり、1%未満になった。若かった私は自分の腕に自信を持った。誤差の原因はシュレンク管からグリニャール試薬を取り出す時に使う注射器と長い針の乾燥度とデッドボリユーム内の酸素の影響であり、最終的に誤差は0.2%程度にできた。これは職人業である。ここまで半年以上、同じ実験を繰り返した。
ハロゲン化アルキルを臭化エチルから臭化フェニルに代えても、同じように奇麗にグリニャール試薬(PhMgBr)を合成できた。
しかし、ハロゲン化物をヨウ化メチルにしたとたんに、試薬溶液は白濁した。10回以上繰り返したが、改善しなかった。反応直後はいつも通り灰色の様式になるのだが、しばらくすると白色の沈殿が生じてくる。
「先生! ダメです。 何度やってもやはり白く濁ります。」
指導教授も私の技術の高さを認めている。
「使っているヨウ化メチルがイカンのだろう。蒸留してから使え。」
ヨウ化メチルの沸点は41 ℃だ。水道水で冷却したリービッヒ常圧蒸留そうちでは、どうしてもガス化したヨウ化メチルが漏れ出す。保護具としてラテックスのゴム手袋を付けた。苦労して蒸留したヨウ化メチルでグリニャール試薬を調製したが…やはり濁った。
若かった私は途方に暮れた。(プロジェクトX風に)
「先生! ダメです。 蒸留したヨウ化メチルを使って、てもやはり白く濁ります。」
指導教授も意地になっている。
「市販のヨウ化メチルの不純物のせいだろう。ヨウ化メチルを合成したまえ。」
ヨウ化メチルはヨウ化カリウムとジメチル硫酸を混ぜると生成する。反応式は
2KI + (CH3O)2SO2 → 2 CH3I + K2SO4
である。このうち、ジメチル硫酸((CH3O)2SO2)は高い有害性を持つ。皮膚につくとDNAを痛めてガン化させる。ガンにならなくても、炎症を起こす。
私はビクビクしながら、合成実験を行った。保護具としゴム手袋を付けた。苦労して合成し、手に入れたヨウ化メチルでグリニャール試薬を調製したが…やっぱりどうしても濁った。
当時の私と指導教授は頭を抱えた。(プロジェクトX風に)
「やむを得ん、ヨウ化メチルではなく臭化メチルを使え。」
反応式は
CH3Br + Mg(0) → CH3MgBr
である。ところが、臭化メチルの沸点は4 ℃、常温ではガスであった。この物質は昭和の当時は倉庫の小麦の燻蒸、殺鼠剤として使われている物質だった。もちろん、有害だ。大量に吸い込めば人も死んでしまう。しかも容器は缶であった。殺鼠剤として使うときは、「倉庫の中でこの缶に千枚通しで穴をあけ、作業者は直ぐに逃げる」だそうだ。ほんとかよ。
若かった私はドラフト(局所排気設備)内で、氷水で缶を冷却し、缶に穴をあけ、そこにガスのレギュレーターをねじ込んだ。レギュレータのバルブを開くと、ガス状の臭化メチルが少しづつ出てくる。これを反応液に吹き込み、無事にメチルマグネシウムブロミド(CH3MgBr)を合成した。今度は濁らなかった。滴定によりその試薬の力価を計った。2つの方法で評価した試薬の濃度ははほぼ一致した。
「先生! 上手くできました。 奇麗なグリニャール試薬ができました。」
「そうだろう! やれば出来るだろう。 ワッハッハ」
昭和の教授はお気楽であった。
約1ヶ月後、自信を取り戻した私は、再度、ヨウ化メチルを使った合成を試みた。やはり上手く行かなかった。その上、実験を行っていた若かった私の左手の甲に発疹が出て来た。
「なんだこれ?」
この発疹はヨウ化物を実験で使用する度に出てくるようになった。
皮膚科を受診した。検査の結果、有機ヨウ素化合物のアレルギー(当時は化学物質過敏症という言葉がなかった)と診断された。
それから20年以上、ごく少量でも有機ヨウ素化合物を使うと、左の手の甲に発疹が出てくるようになった。
注) この失敗の原因の一つは保護具にラテックスのゴム手袋を使ったことだと、今は思っています。ゴムは炭化水素で出来ており、効率よく周囲の有害物質を吸着し、透過し、それが経皮吸収で取り込まれたものと推察します。
001-金曜日の塩化メチレン 5https://ncode.syosetu.com/n0990kd/7/ 参照
有機化学実験で、揮発性の有害物質を扱うときにゴム手袋を使うのは危険です。しかし、代用品がないのも事実です。著者の個人的な意見としては、ゴムではなく、ガス・バリア性能の比較的高い『ビニル手袋』(商品名サニメント)を使う方がまだましかと存じます。
これに関してはリシンの書いた論文をご参照ください。
https://jglobal.jst.go.jp/detail?JGLOBAL_ID=202102287833132163
また、ゴム手袋に関する大学のブログもご参照ください。
http://blog.ac.eng.teu.ac.jp/blog/2016/03/-1-5172.html




