021−アクロレイン 3 <事故原因>
結局、池田の『アクロレイン噴霧事故』の被害者は安野だけであった。学生に被害が無かったのは幸いであった。
しばらくして鼻血が出て来た。鼻の奥が炎症を起こしているのだろうか。
息苦しさを感じる。普段から準備している喘息の吸入薬を準備する。安野は風邪を引くと、その後喘息症状、主に咳が続くため、喘息体質と診断されており、突然のぜんそく発作のために処方されてあった薬だ。今まで使ったことは無かった。
喘息の既往症と、今回被曝したアクロレインがアレルギー反応を誘発するハプテンであることを告げると、大学の保健センターの医師は安野を近くの総合病院へ回した。そこで、呼吸器関係と眼科を受診した。しかし、軽い喘息症状と目の周りの炎症を認めたけれど、お医者様は『アクロレイン』というものも、その対処法を知らなかったので、抗炎症薬を処方されただけであった。 …右の顔面が徐々に腫れてきたのだが、その腫れをお医者様には認識されなかった。これは、安野が元々、少し?太っているせいだろうか?
後遺症?はいろいろな形で現れた。数日後、安野は右目に飛蚊症を覚えた。黒い点が視野を飛び回る。これは眼底の毛細血管から出血したせいであろう。1ヶ月ほどこの症状は続いた。近所の眼科医は
「これはどうしようもないねえ。今は若いから良いけど、年を取ったら来るかもよ。」
と脅してきた。
事故から1ヶ月ほどは、疲れやすかった。無理をすると脱力し、頭痛がした。一方で、この事故をサボる理由にしていたことを否まない。
それよりも辛かったのは酒が飲めなくなった。酒を飲んで血行が良くなると、右の顔面が腫れる様に感じた。怖くて飲めない。元々、酒はそれほど好きではない。酒が飲めなくなったのはこれ幸いと、その後の飲み会をバックれる良い言い訳にした。また、学会の懇親会の良いネタになった。
「お気をつけ下さい。アクロレインに暴露すると酒が飲めなくなりますよ。」
皆にアクロレイン暴露の恐ろしさを布教した。
そして、何種類かの魚アレルギーが発症した。発災直後に食べた魚を食べられなくなった。食べると頭痛がする。倦怠感を覚える。蕁麻疹などは怒らないので、周りにはこの辛さが伝わらないのが悔しい。サバ、サヨリ、サゴシなど、なぜか『サ』の付く魚ばかりダメになった。サケに感作しなかったのは幸いであった。あれは『サケ』ではなく『シャケ』なのだろう。大好きだったサバの味噌煮を二度と食べれなくなったのは、ひたすら悲しい。
♫ ♫ ♫ ♫ ♫
事故の後、池田を『いじめた』ではない、『事情聴取』した。原因を明確にし、今後に活かすためである。うん。 厳しく問いつめたのは決して私怨からではない…と思う。
「あの日の実験ノートを見せてみろ。」
「…どれが予習項目なんだ?」
「予習もせずに実験したのか? アクロレインの沸点はどこに記載している?」
「調べてない? それで良いと思ったのか?」
「アクロレインの有害性も調べていないのか?」
「よくそんな準備で、よくもまあ実験をしていたな。 コラ!」
これはアカハラやパワハラではない…と思う。あくまで事故再発防止のための聞き取りだ。
池田はもはや涙目になっている。でも、そんな予習不足の犠牲になった安野も涙目だ。
結局、事故原因は池田の『実験の準備・予習不足』であった。ルーチンで『作業』をこなそうとしたため、実験の前に十分予習をしておらず、その実験の危険性や試薬の有害性を理解していなかったのが原因であった。
『知識は身を護る』 それは、自分だけでなく、周りの人を護ることにもなる。これが、この事故から得た教訓であった。
安野は彼の担当する『有機化学実験』講義の第1回のガイダンス時に、このアクシデントを、予習の重要性を教えるための実例として示している。転んでも只では起きない。
そして、実験時には十分な予習が行われていることをを個別にチェックしてから実験実施の許可を出すようになった。予習ができていない学生に実験は絶対にさせない。




