021−アクロレイン 1 <噴霧>
安野の助教授席は、実験室の片隅、入り口から一番奥のストーンテーブルの横のスチールデスクであった。そこの肘掛け付きの事務椅子に腰掛け、安野は1週間後の量子化学の試験問題を作成していた。
もう15時を過ぎている。でも、試験問題は全然出来ていない。安野は頭を抱えていた。
「先生。それ、再来週の量子化学の試験問題ですか? 印刷するときは声を掛けてください。お手伝いします。」
量子化学を落として再履修中の米田が親切そうに、でも、下心丸出しで声をかけてくる。
「よねだ君? 君は量子化学を再履修しているよね。この試験を受けるんだろう? さあ、あっちへ行った、行った!」
「ちっ! ばれたか。」
米田君は舌打ちをして、案の席の傍を離れた。その後ろ姿を見て、安野は苦笑した。
安野はポリシーとして、ネットや教科書を探せばどこかに解答の落ちているような、そんな安直な問題は作りたくなかった。そのような問題は、カンニングの餌食になりやすい。その学問領域の本質を理解していなければ、解答できない問題を毎年作ってきた。その代わり、安野の試験は『ノート持ち込み可』だ。ノートには好きなだけヒントを書き込める、でも参考にしかならない。
安野はノートにペンを走らせ、小汚い乱雑な字でメモをする。
「よし。この線上かな?」
安野はひとり呟いた。今年はヨウ素(I2)のソルバトクロミズムの機構に関する問題を出すことにしよう。
ヨウ素(I2)の希薄溶液ははヘキサン溶媒中で紫色になる。これはヨウ素(I2)本来の色、その気体の色に近い。そして、ベンゼン中では赤色、エーテル中では黄色になる。この色の違いを説明させる問題はどうだろうか?
《我ながら良問だな。でも解答にはカラーサークルによる吸収光の補色関係、ヨウ素(I2)分子のHOMO(Highest Occupied Molecular Orbital)とLUMO(Lowest Unoccupied Molecular Orbital)がそれぞれπ*とσ*であること、電荷移動錯体(Mullekin 錯体)の形成、そして電荷移動錯体の形成時のヨウ素分子の2つの原子の結合距離の変化とそれに伴うπ*とσ*軌道の変化を理解していないと解けないな。…受講者のうち何人が解けるかな?》
などと考えていた。この試験問題を出すのなら、その直前の回の講義で上記の事項をしっかりと説明し理解させておかなければ、全員不可になってしまうだろう。
そんなことを考えていたら、安野の左側からダイヤフラム・ポンプの「ココココ」という軽快な起動音が聞こえ、同時に安野の顔に何かが『イヤなもの』が吹きかけられた。
安野席の右側のストーンテーブルでクーゲルロール蒸留装置を使っていた学生が
「あれっ? ものがなくなっちゃった」
と間抜けな声を出している。
よく見ると、蒸留装置はいかげんな組み立てであった。本来、クーゲルロール蒸留装置とポンプの間に付けておくべき、冷却トラップがついていない。そのため、ポンプの起動で気化した物質が、直にポンプを通して、その排気口から安野の顔に吹き付けられたようだ。
安野はプハッと顔を背けたが、そのガス化した気体を少し吸ってしまった。
「こら! なんだ その蒸留装置は! 基本通りに組み立てろ! トラップを挟まなきゃ、モノがみんな出てきちゃうだろ!」
「すんません。実験後にトラップを洗うのが面倒なので…。それに、トラップに使う液体窒素を、汲みにいくのが面倒くさかったんです。」
「バカな言い訳をするな! 実験で装置の組み立てや操作を面倒くさがっていたら、事故を起こすぞ。…池田はボス直(研究の指導教員が教授先生の学生)だったな。ちゃんと指導を受けたのか?」
「すんません。『試薬は蒸留してから使え』としか指導されていません。」
「あのなあ。はじめての操作なら、せめて先輩にやり方を聞け!」
「いえ、はじめてではありません。昨日もクーゲル蒸留をしました。昨日はこれで上手くいったんだけどなあ。」
「昨日は何を蒸留したんだ?」
「昨日はアクリルアミドです。ダイヤフラム・ポンプで一杯一杯に引いて、100℃で出てきました。でも、黒く固まった釜残が沢山出たので、底玉を洗うのが大変でした。」
「そりゃ、重合したんだろう。」
「ですよね〜。」
「それで、今日は何を蒸留しようとしたんだ?」
「アクロレインです。構造式が似ているから、同じ方法でいけるかな〜っと…」
安野の顔色が変わった。




