第9話 互助関係
早川君が持ってきた平たい箱から、焼けたチーズの匂いが漂ってきた。
その瞬間。
きゅるるる。
「…………」
鳴った。
かなりはっきり鳴った。
早川君を見る。
目が合った。
聞こえている。
「……お腹、空いたね」
「うん」
優しい。
聞かなかったことにしてくれた。
私は何もなかった顔でソファから立ち上がった。
「何か手伝うよ」
「大丈夫。飲み物を用意するだけだから」
「でも、注文も早川君だし、受け取ったのも早川君だし」
「じゃあ、箱をテーブルに持っていってもらっていい?」
「任せて」
ようやく仕事を与えられた。
これ以上何もかもやってもらったら、私は人の家でアダルトビデオを見て、パソコンを借りる約束をして、昼ご飯までご馳走になるだけの女になってしまう。
いや、並べてみると、すでにかなりひどい。
箱を持ち上げる。
温かい。
そして、いい匂いがする。
これが本物の宅配ピザ。
さっきから「本物」と言っているけれど、偽物のピザがあるわけではない。
私がフライパンで作ったものだって、たぶんピザだった。
たぶん。
ダイニングには四人掛けのテーブルがあった。
私の部屋なら、これ一つ置いただけでかなり邪魔になるだろう。
箱を真ん中に置いて椅子へ座ると、対面式のキッチンで早川君がグラスにジュースを注いでいるのが見えた。
「…………」
男の子の部屋で、昼ご飯の準備をしてもらっている。
しかも二人きり。
なんだか――。
付き合っているみたい。
また同じことを考えてしまった。
今度は絶対に言わない。
私は口をきゅっと結んだ。
「お待たせ」
「うん」
早川君が向かいに座った。
さっきまで隣同士でテレビを見ていたから、向かい合うと少しだけ安心する。
「開けるよ」
「うん」
箱が開いた。
ふわっと湯気が上がり、さっきより濃いチーズの匂いが広がった。
「わあ……」
思わず身を乗り出す。
四つに分かれたピザには、それぞれ違う具が乗っていた。
肉っぽいもの。
海老っぽいもの。
野菜。
チーズがたくさん乗っているところ。
確かに豪華だ。
豪華なのだけれど。
「クワトロって、ずいぶんバラバラなんだね」
「え?」
「具。なんか統一感ないなって」
「そりゃ、四種類だからね」
「…………」
「四種類のピザを、一枚にしてるんだよ」
「…………」
私はてっきり「クワトロ味」という味があるのだと思っていた。
さっき聞いたと思うが、理解していなかった。
危ない。
いや、もう言ってしまったから手遅れだ。
早川君が私を見ている。
「もしかして――」
「食べよう」
「う、うん」
遮った。
お願いだから、それ以上は言わないでほしい。
早川君は少し笑ったように見えたけれど、何も追及せず、一切れ取って皿に乗せてくれた。
やっぱり優しい。
私はピザを両手で持ち、伸びたチーズを切ってから口へ運んだ。
「…………!」
美味しい。
生地はふわっとしているのに端は香ばしく、チーズも私がスーパーで買うものとは何かが違う。
何が違うのかは分からない。
とにかく美味しい。
「どう?」
「美味しい」
「よかった」
「すごく美味しい」
二回言った。
でも、本当に美味しいのだから仕方がない。
高校生のときに食べた宅配ピザも感動するくらい美味しかった。
けれど、今食べている方が美味しい気がする。
お店が違うからだろうか。
それとも、焼きたてだから?
「綾瀬さん、本当にピザ好きなんだね」
「うん」
よく食べると言ってしまったことを思い出した。
「……好きだよ」
これは嘘ではない。
食べる機会がないだけだ。
私はもう一口かじった。
やっぱり美味しい。
「そういえば」
早川君が二切れ目へ手を伸ばしながら言った。
「さっきの話なんだけど」
「さっき?」
「週末、ここで一緒に書くっていう話」
「ああ……」
付き合っているみたい。
思い出してしまった。
忘れていたのに。
「僕は本当に構わないよ。綾瀬さんが嫌じゃなければ」
「嫌じゃないよ」
答えてから、少し早すぎた気がした。
「パソコンも使わせてもらえるし、助かる。すごく」
これは本当だ。
自宅ではスマホで下書きをして、大学でパソコンを使って清書する。そんなやり方を続けている私にとって、落ち着いてパソコンを使える場所があるのはありがたい。
しかも、早川君も同じコンテストに応募する。
分からないところを聞くこともできるし、お互いの原稿を読めば、自分では気づかないところも見つかるかもしれない。
でも。
「わたしばっかり得してない?」
「そう?」
「だって、パソコンまで借りるんだよ。早川君は?」
「僕も綾瀬さんに読んでもらえる」
「それだけ?」
「それだけって、結構大きいと思うけど」
早川君はそう言って、ピザを一口食べた。
「自分で書いてると、変なところに気づかないんだよ。頭の中では分かってるから、書いてなくても分かった気になっちゃうし」
「あ、それは分かる」
「でしょ?」
確かに。
ライティングの仕事でも、自分では完璧だと思って提出した文章が、戻ってくると真っ赤になっていることがある。
「だから、お互いに読んで、気づいたことを言う。それなら僕にもメリットあるよ」
「でも、わたし、ちゃんと意見言えるかな」
「面白いとか、分からないとかでもいいんじゃない?」
「そんなのでいいの?」
「むしろ、その方が知りたいかも。説明したつもりなのに分からないって言われたら、書き直さないといけないし」
なるほど。
小説を書いた経験では、早川君の方がずっと上だ。
だから私が教えられることなんてないと思っていた。
でも、読むことならできる。
それに、私には分からなかったということ自体が、役に立つこともあるらしい。
「じゃあ、本当にお互い様なのかな」
「そうだよ」
「そっか」
それなら少し気が楽になる。
一方的に助けてもらうのは落ち着かないけれど、私にもできることがあるのなら話は違う。
「なんていうんだろう、こういうの」
「こういうの?」
「お互いに助け合う関係」
「協力関係?」
「なんか仕事みたい」
「じゃあ……互助関係とか」
「互助関係?」
聞き慣れない言葉だった。
「お互いに助けるって意味」
「へえ」
早川君が、少しだけ得意そうな顔をしている。
「なんか固くない?」
「そう?」
「大学生の男女が毎週部屋に集まって、官能小説を見せ合う関係でしょ?」
「……言い方」
「間違ってないよね?」
「間違ってはいないけど」
二人で笑った。
でも、互助関係。
悪くない気がする。
恋人でもない。
ただのサークル仲間とも、少し違う。
同じコンテストに応募して、お互いの小説を読んで、助け合う。
終わりも分かりやすい。
「コンテストが終わるまで?」
「そうだね。とりあえず七月末まで」
「じゃあ、それまで互助関係」
「うん」
なんとなく契約みたいになってきた。
「よろしくお願いします」
私は座ったまま、ぺこりと頭を下げた。
「こちらこそ」
早川君まで頭を下げる。
おかしくなって、また二人で笑った。
「でも、一つだけ気になる」
「なに?」
「早川君、好きな人いるんだよね」
早川君の動きが止まった。
さっきまで普通に食べていたピザを、皿へ戻す。
「……いるよ」
やっぱり。
分かっていたことなのに、実際に聞くと少し変な感じがした。
胸の奥に、小さなものが引っかかる。
痛いというほどではない。
ただ、気になる。
「だったら、わたしが毎週ここに来て大丈夫なの?」
「どういうこと?」
「その人に知られたら、誤解されないかなって」
「…………」
早川君が黙った。
やっぱり問題があるのだろうか。
「片思いだから」
「え?」
「まだ付き合ってるわけじゃないし。だから大丈夫」
「そっか」
片思い。
早川君が、誰かを好きでいる。
どんな人なんだろう。
同じ大学?
文藝サークル?
それとも、全然知らない人?
聞いてみたい気もしたけれど、さすがにそこまで踏み込むのはやめた。
代わりに私は、残っていたピザを一口食べた。
さっきと同じ味のはずなのに、少しだけ味が分からなくなった。
「綾瀬さん?」
「ん?」
「どうしたの?」
「ううん」
私は首を振った。
「そのうち、わたしにも手伝えることがあったら言ってね」
「え?」
「ほら、互助関係なんでしょ? 小説ばっかり助けてもらったら、わたしが得するだけだし」
「いや、そこまでしなくても」
「ダメ。お互いに助けるんだから」
言ってから、なぜか胸の奥がまた引っかかった。
自分で言ったのに。
早川君が好きな人とうまくいくように手伝う。
何もおかしくない。
むしろ、それくらいしないと釣り合わない。
「分かった。そのときはお願いするよ」
「うん」
話がまとまったところで、私は残っていた最後の一切れに手を伸ばした。
「あ」
早川君の手と重なりそうになり、二人とも止まる。
「食べていいよ」
「いや、綾瀬さん食べなよ」
「でも、早川君が頼んだんだから」
「僕はいつでも食べられるし」
いつでも。
その言葉に、私はあっさり負けた。
「……じゃあ、いただきます」
「どうぞ」
最後の一切れを皿に乗せる。
遠慮した方がよかったかもしれない。
でも、美味しいものは美味しい。
私は一口食べてから、向かいにいる早川君を見た。
さっきまで、男の子の部屋で二人きりというだけで妙に緊張していたのに、こうして食卓を挟んでいると、不思議なくらい普通に話せる。
ピザのこと。
小説のこと。
これから毎週ここへ来ること。
それから、早川君に好きな人がいること。
今日だけで、昨日まで知らなかったことをずいぶん知った。
「どうかした?」
「ううん」
「また何か考えてた?」
「ちょっとだけ」
私は残っていたピザを食べる。
やっぱり美味しい。
高校生のときに食べたものより、本当に美味しい気がする。
理由はよく分からない。
でも、一つだけ分かったことがある。
「ランチを二人で食べるって、いいね」




