第8話 付き合ってるみたい
「でも、大丈夫なの?」
「何が?」
「早川君、別の小説も書いてるよね。新人賞に出すって言ってたやつ」
早川君は「ああ」と頷いた。
文藝サークルで以前、原稿を見せてもらったことがある。私が今まで書いたことのないような、ちゃんとした小説だった。
ちゃんとした、という言い方も変だけれど、少なくとも賞金五十万円につられて突然書き始めた官能小説とは違う。
「締め切りは九月だから、まだ時間あるよ」
「でも、こっちは七月末でしょ? 二つ同時に書くことになるよ」
それに前期の試験もある。
私はライティングの仕事があるからいつも時間に追われているけれど、早川君はアルバイトをしていない。それでも、小説を二本同時に書くとなれば簡単ではないはずだ。
ましてや、片方は今まで書いたこともない官能小説である。
「大丈夫。うまく頭を切り替えれば、なんとかなると思う」
「そうかなあ……」
早川君なら、本当になんとかしてしまいそうな気もする。
私が一つの場面で何日も止まっている横で、さっさと書き上げてしまったりして。
それは困る。
いや、別に困らない。
困らないけど、ちょっと悔しい。
「それに、お互いに読めば、自分じゃ気づかないところも分かると思うんだ。綾瀬さんも一人で悩まなくて済むでしょ?」
「うん……」
確かに、それは助かる。
私は今まで、自分の小説を誰かに読んでもらったことがほとんどない。
ましてや官能小説なんて、絶対に無理だと思っていた。
それを早川君はすでに知っている。
今さら隠すものもない。
――いや。
ある。
しまむらのブラは知られていない。
それは死守したい。
「どうしたの?」
「なんでもない」
危なかった。
「でも……」
私は少し迷ってから、聞いてみた。
「どうして、そこまでしてくれるの?」
「え?」
「だって、早川君には早川君の小説があるのに、わたしに付き合ってくれて、今日だっていろいろ見せてくれて。それで今度は自分も書くって……」
そこまで言ってから、妙に恥ずかしくなった。
これではまるで、私のために官能小説を書くのかと聞いているみたいだ。
そんなわけがない。
「いや、僕も前から違うジャンルを書いてみたいと思ってたんだ」
「あ、そうなんだ」
「うん。ちょうど綾瀬さんが書いてるのを知ったから、面白そうだなって。だから、別に綾瀬さんのためだけってわけじゃないよ」
「そ、そうだよね」
当たり前である。
何を期待していたのだ、私は。
別に期待していたわけではない。
ただ聞いただけだ。
それなのに、ほんの少しだけ残念な気がするのは、どういうことだろう。
「そうだ、もう昼だね」
早川君が時計を見た。
「お昼、食べる?」
「お昼?」
「うん。お腹空かない?」
空いている。
ものすごく空いている。
朝は緊張して、食パンを一枚食べただけだった。
けれど、私は今日、映像を見せてもらったら帰るつもりだったので、昼食のことまで考えていなかった。
問題は財布である。
二千円。
正確には二千円札が一枚――ではなく、千円札が二枚。
二千円札だったら、なんとなく使うのをためらってしまいそうだから、千円札二枚でよかった。
そういう問題ではない。
吉祥寺でランチ。
いくらするんだろう。
千円?
千五百円?
お洒落なお店だったら二千円?
それで財布が空になる。
来週までどうする。
「本当はどこか食べに行ってもいいんだけど、この辺、昼は混むんだよね」
「そうなんだ」
私は平静を装いながら、頭の中で店を探した。
マック。
マックなら大丈夫。
セットでも千円はしない。
たぶん。
最近行っていないから自信はないけれど、二千円あれば二人分を払えと言われても――。
いや、なんで私が二人分払うのだ。
落ち着け。
「せっかく来てもらったのに悪いけど、宅配ピザでもいい?」
「ピザ?」
思わず聞き返した。
「うん。嫌い?」
「嫌いじゃない!」
声が大きくなった。
「むしろ好き」
「よかった」
ピザ。
宅配の、本物のピザ。
最後に食べたのは高校生のときだった。
学園祭の準備で帰りが遅くなった日、担任の先生が差し入れに注文してくれたのだ。
みんなで分けたから一人分はほんの少しだったけれど、焼けたチーズと具が乗った熱々の生地を食べて、世の中にはこんな美味しいものがあるのかと思った。
上京してから、自分で作ったことはある。
小麦粉をこねてフライパンで焼き、ケチャップを塗って、薄く切った玉ねぎとピーマンを乗せ、その上からチーズをばらまいた。
あれはあれで美味しかった。
ただし、今考えると、あれをピザと呼んでいいのかは少し怪しい。
「何にしようか」
早川君がタブレットを操作し始めた。
「あ、わたし、なんでもいいよ。ピザはよく食べるし」
言ってから、自分で自分に驚いた。
食べていない。
なぜ見栄を張った。
「じゃあ、好きなの選んで」
タブレットを渡される。
しまった。
画面には、知らない名前のピザがずらりと並んでいた。
マルゲリータくらいなら知っている。
あとは――。
照り焼き。
これは分かる。
肉だ。
たぶん。
「どれがいい?」
「早川君が好きなのでいいよ。わたし、本当になんでも食べるから」
逃げた。
「じゃあ、クワトロにしようか」
「うん。クワトロ好き」
知らない。
「四種類食べられるし」
「ああ、うん。そこがいいよね」
そういう意味なのか。
早川君は慣れた手つきでタブレットで注文を進めている。
「三十分くらいだって」
「早いね」
高校のときは、もっと待った記憶がある。
東京だから早いのか、あのときが学園祭の日で混んでいたのかは分からない。
ただ、三十分後には本物のピザがここへ来る。
楽しみだ。
「じゃあ、待ってる間に今後のこと決めようか」
「うん」
そうだった。
ピザを食べに来たわけではない。
早川君がローテーブルの上へタブレットを置き、私の方へ身体を向ける。
「綾瀬さんって、いつもどこで書いてるの?」
「家ではスマホが多いかな。下書きして、大学のパソコンで清書する感じ」
「パソコン持ってないんだ?」
「うん。欲しいけど高いから」
これについては恥ずかしいとは思わない。
ないものはない。
その代わり、スマホでも文章は書けるし、ライティングの仕事だってやっている。
ただ、長い文章を直したり誤字を探したりするのは、どうしてもパソコンの方が楽だった。
「じゃあさ」
早川君が少し考えてから言った。
「平日はライティングの仕事をして、土日にここで小説を書くっていうのはどう?」
「ここで?」
「うん。僕のパソコン使えばいいよ。僕はタブレットでも書けるから」
私は部屋の隅に置かれたパソコンを見る。
その隣には大きなテレビ。
足元にはふかふかのラグ。
私の部屋とは、ずいぶん違う。
「でも、毎週来たら迷惑じゃない?」
「別に。僕も書くんだから、一緒にやった方が効率いいと思う」
「一緒に……」
二人で小説を書く。
分からないところがあれば、その場で聞ける。
お互いの原稿を読んで、変なところを指摘し合うこともできる。
しかも私はパソコンを使わせてもらえる。
平日にライティングの仕事を進めて、土日に小説へ集中できるなら、今よりずっと効率がいい。
いいことばかりだ。
でも。
毎週、ここへ来る。
男の子の部屋に。
二人きりで。
「なんか……」
「ん?」
「付き合ってるみたいだね」
口から出た。
「…………」
「…………」
時間を戻したい。
できれば三秒。
いや、五秒あれば十分だ。
私は何も言わなかったことにして、早川君は何も聞かなかったことにする。
それで全部解決する。
しかし残念ながら、時間は戻らない。
「……そうだね」
早川君が言った。
「毎週会うっていうところだけ聞いたら、そう見えるかも」
「あ、いや、今のはそういう意味じゃなくて」
「分かってる」
「本当に?」
「うん」
早川君が笑っている。
絶対に少し面白がっている。
私は両手で顔を覆いたくなった。
なんで私は、余計なことばかり口にするのだろう。
今日はもう何度目か分からない。
下着を気にして。
私のために書くのかと聞いて。
ピザを食べ慣れているふりをして。
最後には、付き合っているみたい。
馬鹿だ。
本当に馬鹿だ、私。
「綾瀬さん?」
「……なに?」
「顔、赤いよ」
「誰のせいだと思ってるの」
「え、僕?」
違う。
私だ。
全部、私のせいだ。
それが余計に腹立たしい。
そのとき、部屋にインターホンの音が響いた。
「あ、もう来たのかな」
早川君が立ち上がる。
「三十分って言ってなかった?」
「早かったね」
早川君が玄関へ向かい、私は一人ソファに残された。
まだ顔が熱い。
玄関の方から早川君と配達員らしい人の声が聞こえ、少しして、焼けたチーズの匂いが部屋まで漂ってきた。
……いい匂い。
さっきまでの恥ずかしさが、少しだけどうでもよくなった。
現金な女だと思う。
でも、お腹が空いているのだから仕方がない。
それに。
本物のピザである。




