第7話 しまむらのブラ
「――っ!」
頬が触れた瞬間、私と早川君は同時に身体を引いた。
まるで磁石の同じ極を近づけたみたいに、勢いよく離れる。
「ご、ごめん!」
「いや、僕の方こそ」
顔を見合わせ、また同時に目を逸らした。
頬が触れただけだ。
ほんの一瞬。
痛くもないし、どうということもないはずなのに、触れたところだけが妙に熱い。
手で押さえるのも変な気がして、そのままにしておく。
「えっと……」
早川君が眼鏡を直した。
「このタブレットで見るわけじゃないんだ。テレビに映せるから」
「テレビに?」
「うん。キャストっていって、無線で――」
そこから先は、よく分からなかった。
早川君はタブレットの映像を無線で飛ばして、テレビにつないである機械がそれを受け取って……と説明してくれたけれど、機械に疎い私には途中から呪文にしか聞こえない。
「つまり、これがテレビに映るってこと?」
「まあ、そういうこと」
「なるほど」
たぶん、最初からそう言ってもらえれば分かった。
早川君がタブレットを操作すると、目の前の大きなテレビに同じ画面が現れた。
「おお……」
思わず声が出る。
すごい。
どういう仕組みなのかは、やっぱり分からない。
「じゃあ、ソファに座ろうか」
「うん」
早川君が先に腰を下ろしたので、私もその隣に座る。
さっき頬が触れたことを思い出し、少しだけ間を空けた。
少しだけのつもりだったけれど、二人の間にはもう一人座れそうだった。
「…………」
さすがに離れすぎたかな。
だからといって、わざわざ近づくのもおかしい。
そのままにした。
早川君は気にしていないのか、タブレットを操作している。
テレビに検索画面が表示され、見慣れないサイトが開いた。
「こういう動画を扱ってるサイトはいくつかあるんだけど……」
次々と画面を切り替えていく。
私はテレビより、早川君の指の方を見ていた。
迷いがない。
「……詳しいね」
「え?」
「こういうの」
早川君の指が止まった。
「いや、検索しただけだけど」
「そう?」
「そうだよ」
「ふうん」
また操作を始める。
私はテレビへ視線を戻した。
別にいいけど。
男の子だし、こういうものを見ることだってあるのだろう。
……たぶん。
そもそも私だって、官能小説を書いている。
人のことを言えた立場ではない。
「綾瀬さんが書いてる小説って、主人公は大学生だったよね?」
「うん。わたしと同じくらいの年齢なら書きやすいかなと思って」
「だったら、年齢の近い人が出てる方が参考になるのかな」
「そうかも」
しばらく探して、一本の映像が始まった。
最初に画面へ現れた女の子を見て、少し驚いた。
「……可愛い」
もっと派手な女の人が出てくるものだと勝手に思っていた。
けれど、画面の中で質問に答えている女の子は、どちらかといえば清楚に見える。髪も化粧も派手ではなく、普通に大学の教室に座っていても違和感がなさそうだった。
「こういう子も出るんだ……」
「そうみたいだね」
紗栄子は、もう少し遊んでいる感じの女の子として書いていた。
男の人にも慣れていて、私とはまるで違う女の子。
その方が官能小説の主人公らしいと思ったからだ。
でも、こんなふうに一見普通の女の子でもいいのかもしれない。
その方が、私にも書きやすそうだ。
覚えておこう。
画面では簡単なインタビューが続いていた。
年齢や恋人のことを聞かれ、女の子が平然と答えていく。
その中で、これまで付き合った男性の話になった。
「…………」
私は思わず画面を見直した。
同じくらいの年齢なのに、ずいぶん違う。
私は一人もいない。
向こうは何人もいる。
同じ人間とは思えない。
東京へ来て一年以上になるけれど、私が知らない東京は、まだたくさんあるらしい。
「この辺はあまり参考にならないかな。飛ばす?」
「え?」
早川君を見る。
彼は普通の顔をしていた。
「……うん」
なんでそんなに平気なんだろう。
早川君が画面を先へ進める。
しばらくすると、私は急に落ち着かなくなってきた。
さっきまではインタビューだったから、普通に見ていられた。
けれど、ここから先は違うらしい。
何が始まるのかくらい、私にだって分かる。
そのために来たのだから。
「この辺でいいかな」
「う、うん」
いいのかな。
分からないけれど、頷く。
画面の中で男女の距離が近づいていく。
私はテレビを見た。
隣にいる早川君のことを思い出した。
またテレビを見る。
どうしてだろう。
一人で見るより恥ずかしい。
当たり前か。
男の子と二人でこんなものを見ているのだから。
早川君はどんな顔をしているのだろう。
気になって横を見る。
目が合った。
「…………」
「…………」
二人とも、すぐテレビへ顔を戻した。
今度から横を見るのはやめよう。
画面の中では、女の子の服装が少しずつ変わっていく。
やがて見えた下着は、淡い色のレースがついた、いかにも女の子らしいものだった。
可愛い。
私は何気なく、自分の胸元へ視線を落とした。
ブラウスの隙間から、少しだけ白い布地が見える。
しまむら。
二枚組。
安かった。
「…………」
比べるんじゃなかった。
同じ下着なのに、どうしてこんなに違うんだろう。
別にいい。
誰かに見せるものでもないし、着け心地は悪くない。
それに二枚組だから洗い替えにも便利だ。
下着に実用性を求めて何が悪い。
……でも。
今日くらい、もう少し可愛いのを着けてくればよかったかな。
そこまで考えて、私は首を傾げた。
今日?
なんで?
「綾瀬さん?」
「えっ!」
「どうしたの?」
「な、なんでもない!」
危ない。
何が危ないのか分からないけれど、とにかく危ない。
私は慌ててテレビへ視線を戻した。
今は下着のことを考えている場合ではない。
小説の参考にするために来たのだ。
ちゃんと見なければ。
そう思っていた。
最初のうちは。
映像が進むにつれて、私はだんだんテレビを直視できなくなってきた。
本なら読んだ。
自分でも、それらしい場面を書こうとした。
文字で読んでいるときは、自分の頭の中で想像するだけだったから、分からないところはなんとなく分かったつもりにもなれた。
映像は違う。
想像する必要がない。
全部、目の前に出てくる。
「…………」
見なきゃ。
でも、見たくない。
いや、見たくないわけじゃない。
見ないと参考にならない。
私は何度もテレビから目を逸らし、そのたびにまた画面へ戻した。
隣に早川君がいることも忘れそうになった。
やがて映像が終わった。
テレビの画面が暗くなる。
「…………」
私はしばらく動けなかった。
長かったような気もするし、あっという間だったような気もする。
「綾瀬さん?」
返事をしようとしたけれど、声が出なかった。
「大丈夫?」
「……うん」
やっとそれだけ答える。
早川君が心配そうにこちらを見ている。
「ごめん。やっぱり刺激が強かった?」
「ううん。早川君が謝ることじゃないよ。わたしが見たいって言ったんだから」
頬に冷たいものを感じて指で触れる。
少し濡れていた。
「あれ?」
泣いてる。
自分でも気づかなかった。
慌てて指で目元を拭った。
「ご、ごめん。本当に大丈夫だから。ちょっとびっくりしただけ」
「初めてだったんだよね」
「うん。もっと……なんていうんだろう」
言葉を探す。
「作り物っぽいと思ってた」
「ああ」
「でも、最後の方……二人とも、本当の恋人みたいに見えた」
それが妙に引っかかっていた。
途中で何があったかより、最後に二人が寄り添っていた姿の方が頭に残っている。
「あれも演技なのかな?」
「どうなんだろう」
早川君も少し考えてから、首を傾げた。
「仕事なんだから演技なんだろうけど、僕にもそこまでは分からないな」
「そっか……」
「綾瀬さんは、どう見えた?」
「幸せそうだった」
それだけは分かる。
少なくとも、私にはそう見えた。
「でも、本当に幸せだったのか、幸せそうに見せてただけなのかは分からない」
考えれば考えるほど、分からなくなる。
私はもっと単純に考えていた。
実際に見れば、紗栄子を書く参考になる。
本で読むより分かりやすい。
だから見てみよう。
でも、見終わった今も、紗栄子が同じ場面でどんな顔をして、何を考えるのかは思い浮かばなかった。
「……難しいな」
「何が?」
「小説」
思わずため息が出た。
「見たら、もう少し書けるようになると思ったんだけど」
「参考にならなかった?」
「ううん。参考にはなったと思う。でも……」
その先がうまく言葉にならない。
自分でも、何が引っかかっているのか分からなかった。
「やっぱり、経験したことがないからかな」
「綾瀬さん、考えすぎじゃない?」
早川君が苦笑する。
「でも、分からないものは書けないよ」
「書いてから考えればいいじゃない」
「え?」
「ストーリーはもうあるんでしょ?」
「一応」
「だったら、とりあえず最後まで書いてみたら? 変だと思ったところは、あとで直せばいいんだし」
「…………」
簡単に言うなあ。
でも、早川君は私と違って、実際に小説を書いて投稿している。
落選したこともあると言っていたけれど、それでもまた書いている。
それに比べて私は、まだ一本も完成させていない。
書けない。
分からない。
経験がない。
そんなことばかり考えて、同じところで止まっている。
「……そうだね」
書いてみなければ、何が書けないのかすら分からない。
とりあえず先へ進む。
それくらいなら、私にもできるかもしれない。
「もう少し書いてみる」
「うん。その方がいいと思う」
「ありがとう。早川君」
「いや、僕は何もしてないけど」
「そんなことないよ。今日だって付き合ってくれたし」
ここまでしてもらって何もしていないと言われたら、私の方が困る。
クッキー一袋では、全然足りなかったかもしれない。
早川君は少し照れたように笑ったあと、テーブルの上のタブレットへ視線を落とした。
それから、何か思いついたらしい。
「あ」
「なに?」
「僕も書いてみようかな」
「何を?」
「官能小説」
「…………」
聞き間違えた?
「早川君が?」
「うん」
「官能小説を?」
「そう」
聞き間違いではなかった。
「それで、綾瀬さんと同じコンテストに出してみる」
「ええっ!?」
思わず大きな声が出た。
「なんで!?」
「なんでって……僕も小説書いてるし、面白そうだから」
面白そう。
私がこんなに苦労しているものを、面白そうの一言で始めるらしい。
「賞金、五十万円だよ」
「知ってる」
「わたし、それ狙ってるんだけど」
「うん」
早川君が笑った。
「じゃあ、負けないように頑張らないとね」
「…………」
なんだか腹が立つ。
さっきまで私の相談に乗ってくれていた人なのに、急に敵に見えてきた。
「負けないから」
「僕も」
こうして私は、官能小説を書くための参考資料を見せてもらいに来ただけのはずが、なぜかその日のうちにライバルまで作って帰ることになった。
しかも、そのライバルは――。
テーブルの上に置いたクッキーの袋を、嬉しそうに眺めている。
「……食べないの?」
「あとでゆっくり食べる」
「そう」
また少しだけ、嬉しくなった。
ライバルなのに。
変なの。




