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第6話 触れた頬と頬

「さ、入って」


早川君に促され、私はおそるおそるエントランスへ足を踏み入れた。


外から見ても立派だったけれど、中へ入るとさらに場違いな気分になった。


床はつるつるに磨かれ、正面にはちょっとしたホテルみたいなロビーがある。置かれているソファも、たぶん私の部屋にある座椅子よりずっと高い。


比べるものが悲しい。


早川君はそんな私を気にする様子もなく、慣れた足取りでエレベーターへ向かった。


当たり前だ。


住んでいるのだから。


「すごいところに住んでるんだね」


「そう?」


「そうだよ。学生の一人暮らしって、もっとこう……」


「こう?」


自分の部屋を思い浮かべる。


古いアパート。


狭いキッチン。


テレビなし。


Wi-Fiなし。


家賃は安い。


「……なんでもない」


言うのをやめた。


早川君は不思議そうな顔をしながら、八階のボタンを押した。


「親が勝手に契約してくれたんだよ。僕はこんな広いところじゃなくてもいいって言ったんだけど」


「勝手に……」


一度でいいから言ってみたい。


親が勝手に高級マンションを契約して困っている、と。


エレベーターが静かに上昇していく。


音もほとんどしない。


私のアパートなんて、誰かが階段を上がってくるだけで分かるのに。


「…………」


何か話した方がいいのだろうか。


昨日まで大学で普通に話していた相手なのに、二人きりでエレベーターに乗っているだけで妙に緊張する。


早川君は正面を向いている。


私も正面を向く。


階数表示が一つずつ増えていくのを眺める。


六。


七。


八。


少しだけ、ほっとした。


「こっち」


エレベーターを降り、今度は早川君の後について廊下を歩く。


考えてみれば、吉祥寺へ着いてからずっと早川君の後ろをついて歩いている。


途中で一度、歩幅を合わせてもらったけれど。


「ここだよ」


早川君が一つのドアの前で立ち止まり、カードのようなものをかざす。


短い電子音のあと、重そうな鍵が開く音がした。


玄関まで立派だ。


私のアパートの薄いドアとは、閉まる音からして違う。


「どうぞ」


「お、おじゃまします」


靴を脱いで、きちんと揃える。


そこで一度、動きが止まった。


人の家へ来たら、次はどうすればいいんだろう。


勝手に上がっていいのかな。


「綾瀬さん?」


「あ、うん」


早川君が先に上がったので、私も後に続いた。


短い廊下の先にあるドアを抜けると、広いリビングが現れた。


「……広っ」


思わず声が出た。


たぶん、リビングだけで私の部屋より広い。


大きなテレビがあり、その前には二、三人なら余裕で座れそうなソファが置かれている。床には柔らかそうなラグまで敷かれていて、全体的に物は少ないけれど、きれいに片付いていた。


「適当に座って。飲み物持ってくるから」


「う、うん」


適当に、と言われるのが一番困る。


ソファに座ればいいのだろうけれど、なんとなく遠慮してしまい、私はローテーブルの脇に腰を下ろした。


ラグがふかふかだ。


座った瞬間、少し沈んだ。


うちにも欲しい。


値段を知ったら欲しくなくなるかもしれないけど。


早川君は対面式のキッチンへ入り、冷蔵庫を開けている。


その様子を眺めながら、私は改めて部屋を見回した。


大学にいるときの早川君からは、こんな生活をしているなんて想像もしなかった。


伸びっぱなしの髪に、眼鏡。


無精ひげ。


服だって、特にお洒落というわけではない。


お金持ちの息子というより――。


「……やっぱり人って、見た目じゃ分からないな」


「何か言った?」


「ううん、何でもない」


危ない。


聞かれるところだった。


「早川君って、お金持ちだったんだね」


代わりにそう言うと、冷蔵庫の中を覗いていた早川君が顔だけこちらへ向けた。


「僕がお金持ちなわけじゃないよ。親が医者だから、お金はあるのかもしれないけど」


「お医者さんなんだ」


それなら、この部屋にも少し納得できる。


同時に、別の疑問が浮かんだ。


「じゃあ、早川君も医学部に行けって言われなかったの?」


言った直後に後悔した。



しまった。



人の家庭の事情に、ずかずか踏み込んでしまった。


「ご、ごめん。余計なこと聞いた」


「別にいいよ」


早川君は気にした様子もなく、冷蔵庫からジュースを取り出した。


「僕は最初から医者になる気なかったし。妹が医大を目指してるから、親もそっちに期待してるみたい」


「妹さん、いるんだ」


「うん。高校生。東京の医大を受けるつもりらしいよ」


「へえ……」


早川君に妹がいる。


今まで考えたこともなかった。


どんな子なんだろう。


早川君に似ているのかな。


「まあ、まだ先の話だけどね」


そう言って、早川君は話を終わらせた。


私もそれ以上は聞かなかった。


ただ、早川君に高校生の妹がいるということだけは、なんとなく頭に残った。


「オレンジジュースしかないんだけど、いい? コーヒーなら淹れられるけど」


「オレンジジュースで大丈夫。ありがとう」


早川君が二つのグラスをテーブルへ運んでくる。


「どうぞ」


「ありがとう」


グラスを受け取ったところで、リュックの存在を思い出した。


正確には、その中身を。


クッキー。


ここへ来るまでは、渡すつもりだった。


早川君の部屋へお邪魔するのだから、手ぶらでは悪いと思って、朝から作った。


材料費を抑えて。


フライパンで焼いて。


百均の袋に入れた。


「…………」


この部屋で見ると、想像以上に貧相だ。


さっきまでは、それなりに可愛くできたと思っていたのに。


こんな生活をしている早川君なら、もっとちゃんとしたお菓子を食べているんじゃないだろうか。


わざわざ手作りの、それも私が作った安っぽいクッキーなんて渡されても困るだけかもしれない。


リュックのジッパーに手をかける。


少し開ける。


止める。


閉める。


何をやっているんだ、私は。


「綾瀬さん?」


「え?」


「荷物、出していいよ。昨日持ってた本?」


「あ……うん」


反射的に答えてしまった。


違う。


いや、本も入っているけど。


「どうしたの?」


早川君が少し屈んで、私の顔を覗き込んだ。


眼鏡の奥の目は、いつもと変わらない。


心配そうに私を見ている。


私は、また余計なことを考えている。


安いとか。


迷惑かもしれないとか。


こんな立派な部屋に住んでいる人だからとか。


勝手に早川君との間に線を引いて、勝手に落ち込んでいる。


そういうところが、自分でも嫌になる。


それに――。


さっき余計なことを聞いてしまったときから、私はずっと早川君の顔色を気にしている。


嫌われていないだろうか。


そんなことばかり考えている。


いつからだろう。


早川君に、嫌われたくないと思うようになったのは。


「……あのね」


覚悟を決めて、リュックを開けた。


中から小さな袋を取り出す。


やっぱり百均は百均だ。


急に高級品に見えたりはしない。


「これ」


早川君へ差し出した。


「クッキー焼いてきたの。今日、部屋にお邪魔するから……その、お口に合うか分からないけど」


早川君が袋を見る。


私を見る。


もう一度、袋を見る。


「…………」



なぜ黙る。



やっぱり迷惑だった?


「あ、あの、別に無理して食べなくても――」


「これ、綾瀬さんが作ったの?」


「う、うん」


「手作り?」


「そうだけど……」


次の瞬間、早川君の顔がぱっと明るくなった。


「すごい。ありがとう!」


「え?」


「僕、女の子から手作りのお菓子もらうの初めてなんだ」


袋を持ち上げ、嬉しそうに中を覗いている。


「本当に? でも、そんな大したものじゃないよ。フライパンで焼いただけだし」


「それでも作ったんでしょ?」


「まあ……」


「じゃあ、すごいよ。ありがとう」


また言った。


ありがとう。


そんなに何度も言われるようなものではないと思う。


今朝、台所でフライパンと格闘していたときだって、ここまで喜んでもらえるなんて考えていなかった。



でも。



早川君が嬉しそうにしている。


それを見ていると、私まで嬉しくなってくる。


胸の奥が、少しだけ温かい。


紗栄子の気持ちが分からないと悩んでから、自分の感情を意識することが増えた。


待ち合わせで落ち着かなかったこと。


早川君を見つけたとき、ほっとしたこと。


服を褒められて嬉しかったこと。


歩く速さを合わせてもらったこと。



そして今。



自分の作ったものを喜んでもらえて、私まで嬉しい。


こういう気持ちも、小説に書けるのだろうか。


「…………」


早川君が、こちらを見た。


目が合った。


どうやら私は、ずっと早川君の顔を見ていたらしい。


「……なに?」


「ううん」


慌てて視線を逸らす。


「なんでもない」


「そう?」


早川君は不思議そうにしながら、クッキーをテーブルの上へ大事そうに置いた。


それから少し照れたように咳払いをする。


「じゃあ……そろそろ始めようか」


「う、うん」


始める。


そうだった。


今日はクッキーを渡しに来たわけではない。


官能小説を書くための勉強をしに来たのだ。


早川君がテーブルの上に置いてあったタブレットを手に取る。


「どんなのが参考になるかな……」


画面を操作しながら呟くので、私も横から覗き込んだ。


文字が小さい。


もう少し近づかないと見えない。


私は身体を寄せる。


早川君も、こちらへ画面を向けようと少し動いた。



近い。



そう思ったときだった。


頬に、何かが触れた。



「――っ」



早川君の頬だった。





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