第5話 こんな気持ち
「うう~、緊張する……」
土曜日の朝。
私は吉祥寺へ向かう電車に揺られていた。
これから、早川君の部屋へ行く。
男の子の部屋へ遊びに行ったことなら、小学生の頃にある。何人かで集まってゲームをしただけだから、あれを数えていいのかは分からないけれど、とにかくそれ以来だ。
しかも今回は、一人暮らしをしている男の子の部屋へ、私一人で行く。
つまり、二人きり。
改めて考えると、なかなか大胆なことをしようとしている気がする。
「…………」
大丈夫だよね。
早川君だし。
別に危ないとは思っていない。
この前だって、私が「行っていいの?」と聞いたら、誘った本人の方が驚いていたくらいだ。
それでも、男の子の部屋へ遊びに行くとき、どう振る舞えばいいのかは分からない。
膝の上に置いたリュックへ、そっと手を添える。
中には、今朝作ったクッキーが入っていた。
早川君の部屋へお邪魔するのだから、何か持っていった方がいいと思ったのだ。
とはいえ、お店で買うとなると、それなりにお金がかかる。
だったら自分で作ればいい。
材料はなるべく安いものを選び、オーブンなんて洒落たものは持っていないので、フライパンで焼いた。
包装は百均。
我ながら、徹底している。
味見はした。
たぶん、大丈夫。
少なくとも、人に食べさせてはいけないものにはなっていない。
「早川君、甘いもの好きかな……」
作ってから気づいた。
聞いておけばよかった。
もし嫌いだったらどうしよう。
いや、嫌いなら私が食べればいい。
でも、それはそれで少し寂しい。
どうして寂しいのだろう。
「…………」
考えるのはやめた。
電車が吉祥寺へ近づくにつれて、胸の奥の落ち着かなさが少しずつ大きくなっていく。
駅へ滑り込むアナウンスが流れたので席を立ち、ドアの前へ移動した。
何気なく窓を見る。
そこに自分の姿が映っていた。
髪は、いつもより少しだけ丁寧に整えてある。服も普段なら大学へ行くときにはほとんど着ないブラウスに、久しぶりのスカートを選んだ。
別に、お洒落をしたつもりはない。
……いや。
これは、お洒落をしたことになるのだろうか。
「わたし、なんでこんなに気合い入れてるんだろう」
窓の向こうの私も、当然答えてくれない。
「ばーか」
小さく口を動かしたところで電車がホームへ入り、窓に映っていた私は、ホームを行き交う人の姿に紛れて消えた。
明大前で井の頭線へ乗り換え、吉祥寺に着いたのは待ち合わせの十分前だった。
南口改札を抜け、人通りの邪魔にならないところで早川君を待つ。
休日の吉祥寺は朝から人が多く、待ち合わせをしている人も何組かいる。少し離れたところでは、同じくらいの年齢の男女が楽しそうに話していた。
あれは、たぶん恋人同士だ。
そこで、ふと思う。
男の子と女の子が、休日に二人で待ち合わせをしている。
これって――。
デート?
いやいや。
ないない。
これから二人でアダルトビデオを見るのである。
そんなデートがあってたまるか。
「……でも」
少しだけ胸が落ち着かない。
待ち合わせの時間が近づくたびに、改札の方を見てしまう。
もしかしたら、デートで相手を待っている女の子も、こんな気持ちなのだろうか。
そう考えたところで、ふと気づいた。
「これ、使えるかも」
紗栄子だ。
今まで分からなかった女の子の気持ちを、私は今、少しだけ経験している。
もちろん、これはデートではない。
断じて違う。
でも、この落ち着かなさは覚えておこう。紗栄子を書くときに使えるかもしれない。
そうやって何でも小説の材料にしようとするあたり、私も少しは作家らしくなってきたのかもしれない。
たぶん。
しばらくして、公園の方から歩いてくる人たちの中に、頭一つ抜けた人影を見つけた。
早川君だ。
こういうとき、背が高い人は便利だ。
向こうは、まだ私に気づいていない。
人の間を縫うように歩きながら、こちらへ近づいてくる。
私は少し迷ってから、小さく手を振った。
気づくかな。
早川君の顔がこちらを向く。
一瞬だけ目を細め、それから私だと分かったのか、大きく手を上げた。
その瞬間、さっきまで胸の中にあった落ち着かなさが、ふっと軽くなった。
たった、それだけなのに。
「……なんだろう」
自分でもよく分からない。
でも、嫌な感じではなかった。
むしろ――。
「ごめん、待たせちゃった?」
早川君の声で、考えが途切れた。
「ううん。わたしが少し早く来ただけ。早川君は時間通りだよ」
「そっか、よかった」
そう言ってから、早川君が私を見る。
顔を見て、髪へ視線を移し、それから服へ。
視線が一度下がって、また戻ってきた。
「……なに?」
「あ、いや」
早川君が眼鏡の位置を直す。
「なんか、今日は感じが違うね」
「変……かな?」
急に不安になって、スカートの裾を少しつまむ。
やっぱり普段通りの服で来ればよかっただろうか。
「いや、そうじゃなくて」
早川君が慌てた。
「すごく良いと思います」
「…………」
なぜ敬語。
「ありがとう……」
自分でも分かるくらい、声が小さくなった。
褒められた。
ただそれだけなのに、なんだか顔が熱い。
「早川君の家、この近くなの?」
これ以上この話を続けるのが恥ずかしくなって、私は強引に話題を変えた。
「うん。歩いて十分くらいかな。こっち」
早川君が歩き出す。
私もその隣へ並んだ。
……つもりだった。
数歩で遅れた。
早川君は百八十センチ以上ある。
対する私は小さい。
当然、歩幅も違う。
本人はゆっくり歩いているつもりなのだろうけれど、私は少し早足にならないと追いつけない。
「早川君、ちょっと速い」
「あ、ごめん」
すぐに歩調を緩めてくれた。
「これくらい?」
「うん」
今度は並んで歩ける。
ほんの少し歩く速さが変わっただけなのに、それが妙に嬉しかった。
今日は、さっきから変だ。
待っている間もそうだった。
見つけてもらったときも。
服を褒められたときも。
そして今も。
今までなら、こんなことはいちいち気にしなかったと思う。
これも、小説を書くために意識しているからなのだろうか。
だったら覚えておこう。
紗栄子を書くときに、きっと役に立つ。
そういうことにしておく。
十分ほど歩いたところで、早川君が足を止めた。
「ここだよ」
「……ここ?」
「うん」
目の前の建物を見上げる。
もう一度見る。
十階どころではなさそうなマンションだった。
入口には植え込みがきれいに整えられ、ガラス張りのエントランスの向こうには、ホテルみたいなロビーが見える。
少なくとも、私の住んでいるアパートとは同じ「集合住宅」という括りに入れてはいけない気がする。
「早川君、ここに住んでるの?」
「うん」
「一人で?」
「そうだけど」
そうだけど、ではない。
学生の一人暮らしと聞いて、勝手に自分と似たような部屋を想像していた。
「……家賃、いくら?」
「え?」
「いや、なんでもない」
聞くのが怖くなった。
早川君が入口へ近づくと、エントランスの自動ドアが静かに開いた。
「ついてきて」
「う、うん」
私はリュックの中のクッキーを思い出した。
材料費を抑えて、フライパンで焼いて、百均の袋に詰めたクッキー。
今朝までは、それなりによくできたと思っていたのに。
急に、ものすごく安っぽく思えてきた。




