第4話 放課後の図書館
「はあ……」
ため息をついて、私は机の上に突っ伏した。
目の前にはノートパソコン。
画面には、さっきからほとんど変わっていない文章。
書いては消し、書いては消しを繰り返しているうちに、カーソルだけが規則正しく点滅している。
なんだか急かされているようで腹が立つ。
「分かってるよ……」
小声で呟いてみた。
当然、カーソルは止まってくれない。
官能小説を書き始めてみたものの、早くも大きな壁にぶつかっていた。
問題は、官能シーンである。
出来事そのものなら書ける。
誰が何をして、相手がどう反応したのか。参考になる小説を読んで、それらしく文章にすることくらいはできる。
でも――。
そのとき紗栄子が何を感じているのかが、分からない。
恥ずかしいのか。
怖いのか。
それとも、好きな人に触れられたら嬉しいものなのか。
そこから先になると、途端に想像が止まってしまう。
「経験ないもんなあ……」
言ってから、誰かに聞かれていないか周囲を見回した。
ここは大学の図書館だ。
放課後ということもあって利用者はまばらだけれど、静かなぶん、小さな声でも妙によく響く。
幸い、誰もこちらを気にしていなかった。
私は胸を撫で下ろし、机の上に置かれた三冊の文庫本へ目を向けた。
全部、官能小説。
ネットの古本屋で、一冊一円だった。
三冊買って三円。
ものすごく得をした気分になった。
――注文するときまでは。
送料、七百五十円。
本体価格の二百五十倍である。
「三日分の食費……」
三千八百円で給料日まで生き延びようとしていた紗栄子のことを、私は笑えない。
もっとも、あの子の金欠は私が書いたものなのだけれど。
それだけの投資をしたのだから、何か得るものはあるはずだと思って三冊とも読んでみた。
勉強にはなった。
知らなかった表現もたくさんあったし、「こんなふうに書くんだ」と感心したところもある。
それを参考に、紗栄子の場面も書いてみた。
書けることは書けた。
でも、自分で読み返してみると、何かが違う。
読めば何をしているのかは分かる。
でも、そのとき紗栄子が何を感じているのかが分からない。
参考にした文章を、自分の登場人物に置き換えているだけ。
これでは描写というより、模写だ。
私は、紗栄子がいろいろな経験をすることで何を感じ、どう変わっていくのかを書きたい。
そこが書けなければ、たとえ官能小説でも、ただ出来事を並べただけになってしまう気がする。
「う~~~ん……」
もう一度、机に突っ伏した。
経験がないなら、せめて実際の映像でも見れば何か分かるかもしれない。
そう思ってはいる。
問題は、見る環境がないことだ。
私の部屋にはテレビがない。
もちろん、パソコンもない。
あるのはスマホだけ。
動画を長時間見れば通信量が気になるし、そもそも大学の図書館でそんなものを見る勇気はない。
一応、図書館のパソコンからアクセスできないか試したことはある。
きっちり遮断された。
当たり前だ。
大学の図書館で何をしようとしているんだ、私は。
「……手詰まりだ」
椅子の背もたれに身体を預け、そのまま天井を見上げる。
こうしていても、いい文章が降ってくるわけではない。
分かっている。
でも、たまには天井から何か降ってきてもいいと思う。
「綾瀬さん、どうしたの。もしかして、途方に暮れてる?」
代わりに、後ろから声が降ってきた。
「わっ」
振り返る。
早川文剛が立っていた。
同じ文学部の二年生で、文藝サークルの仲間。
もっとも、文藝サークルといっても、今ではまともな活動をほとんどしていない。部室へ行っても誰もいないことの方が多く、私と早川君も、顔を合わせれば話をする程度だ。
「びっくりした……」
「ごめん。何回か声かけたんだけど」
「え、そうなの?」
まったく気づかなかった。
「ずいぶん難しい顔してたよ」
「ああ……ちょっと小説を書いてて」
「へえ。また何かのコンテスト?」
「え、ええ……まあ……」
官能小説のコンテストです。
とは、さすがに言いにくい。
早川君も小説を書く。
私みたいに投稿サイトへ気軽に載せるというより、雑誌の新人賞などにきちんと応募しているタイプだ。
将来は編集の仕事に就きたいらしい。
だから小説を書いていること自体は、別に隠すようなことではない。
問題は、何を書いているかだ。
「どこのコンテスト?」
「えっと……」
「小説投稿サイト?」
そう言いながら、早川君が私の後ろから画面を覗き込もうとした。
背が高い。
百八十センチはあると思う。
私が座っていると、余計に大きく見える。
ただし、格好いいかと言われると――。
伸ばしっぱなしの髪。
眼鏡。
少し伸びた無精ひげ。
細身というより、ひょろっとしている。
素材は悪くないと思う。
たぶん。
でも、本人にそれをどうにかしようという気がまったくない。
……人のことは言えないけど。
「あっ」
早川君の視線が、机の上で止まった。
しまった。
三冊の官能小説。
慌てて隠そうとしたけれど、遅かった。
「これ……」
長い腕が伸びて、一冊持ち上げられる。
「ちょ、早川君!」
「え?」
表紙を見る。
私を見る。
もう一度、表紙を見る。
眼鏡の奥で目をぱちぱちさせた。
「綾瀬さん、こういうの読むんだ」
「違う!」
思わず大きな声が出た。
何人かがこちらを見る。
「……違うから」
今度は小声で言い直した。
早川君が本を机へ戻す。
「ごめん」
「いや、別に謝らなくてもいいんだけど……」
さて。
どう説明しよう。
読書が趣味です、と押し切るか。
無理だ。
三冊並べてパソコンを開き、メモまで取っている。
どう見ても研究中である。
「もしかして……」
早川君が声を落とした。
「官能小説、書いてるの?」
「…………」
ばれた。
私は観念して、コンテストのことを話した。
賞金が五十万円であること。
それにつられて応募を決めたこと。
そして、実際に書き始めてみたら思っていたよりずっと難しかったこと。
「そうなんだ」
笑われるかと思った。
けれど早川君は、意外なくらい普通に頷いた。
「綾瀬さん、前にも投稿サイトで賞を取ったことあるよね。今回もいけるんじゃない?」
「いや、今回は無理かも……」
「どうして?」
言いにくい。
ものすごく言いにくい。
私は机の上の三冊を見る。
早川君も見る。
もう、ここまで知られたのだ。
「……書けないの」
「何が?」
「だから……官能シーン」
言ってしまった。
早川君は笑わなかった。
「どこが難しいの?」
「どこって……」
少し考える。
どう説明すればいいのだろう。
「何をしているかは、本を読めば分かるの。だから、それっぽく書くこともできる。でも、そのとき紗栄子がどう感じてるのかが分からない」
「紗栄子?」
「あ、わたしの小説の主人公」
「なるほど」
早川君は少し考えてから、私の向かいの椅子を引いた。
「つまり、行動は書けるけど、気持ちが書けない?」
「うん。わたし……そういう経験がないから」
言ってから気づいた。
今、私は何を告白した?
「あ……」
顔が熱くなる。
これでは自分から「恋愛経験も、その先もありません」と宣言したようなものだ。
「いや、今のは――」
「あはは。僕もないよ」
「え?」
「そういう経験」
あっさり言った。
恥ずかしそうにするでもなく、本当にただ事実を伝えただけという顔をしている。
「……早川君って、そういうところすごいね」
「何が?」
「いや、何でもない」
少し悩んだ末、早川君が机の上の本を指で軽く叩いた。
「小説だけじゃなくて、映像も見てみたら?」
「それも考えたんだけど……」
「苦手?」
「そうじゃなくて、見る環境がないの。家にテレビもパソコンもないし、スマホだと通信量が気になるし」
「図書館は?」
「アクセスできなかった」
言ってから、しまったと思った。
早川君がこちらを見る。
「試したんだ」
「……試した」
「図書館で?」
「もう言わないで」
恥ずかしい。
「そっか……」
早川君は少し考え込んだ。
何となく嫌な予感がした。
この人は、たまに妙なところで行動力がある。
「だったらさ」
ほら来た。
「僕の部屋で見ればいいんじゃない?」
「…………」
今度は私が、早川君の顔を見た。
「早川君の部屋?」
「うん。ネットあるし、パソコンもあるから」
何を言っているのだろう、この人は。
男の子の部屋で。
二人きりで。
一緒にアダルトビデオを見る。
言葉にしてみると、かなりおかしい。
「……行っていいの?」
「え?」
早川君の方が驚いた。
「いや、綾瀬さんが嫌じゃなければ……」
そういう意味ではない。
普通、女の子を自分の部屋へ誘って、そんなものを一緒に見ようと言ったら、もう少し何かあるのではないだろうか。
警戒するとか。
断るとか。
たぶん、そういうやつ。
私は改めて早川君を見る。
伸びっぱなしの髪。
眼鏡。
無精ひげ。
そして、私以上に困った顔。
「…………」
でも、早川君だし。
「じゃあ、お願いしようかな」
「えっ、本当に?」
なぜ誘った本人が驚くのだろう。
私にも分からない。




