第10話 楽しい
目覚ましが鳴るより少し前に、目が覚めた。
枕元のスマホを手に取る。
六時四十八分。
まだ十二分もある。
もう一度寝ようかと思って目を閉じたけれど、眠れそうにない。
昨日のことを思い出した。
早川君の部屋へ行って、二人で変な映像を見て、ピザを食べて、小説の話をした。
付き合っているみたい、なんて口を滑らせた。
思い出した途端、布団の中で足をばたつかせたくなる。
恥ずかしい。
できれば忘れたい。
でも――。
楽しかった。
それだけは、何度思い返しても変わらない。
私は布団を跳ねのけた。
今日は日曜日。
そして、今日も早川君の部屋へ行く。
二日続けて男の子の部屋へ遊びに行く。
……遊びではない。
小説を書くために行くのだ。
昨日、正式に互助関係を結んだのだから。
「よし」
誰に言うでもなく声に出し、ベッドから降りた。
昨日はクッキーを持っていった。
今日はお弁当を作る。
ピザ代の半分を払うと言ったのに、早川君は受け取ってくれなかった。注文したときにカードで払ってしまったからいい、と言われ、それでも食い下がる私に「こういうときは男が払うものだよ」と笑った。
あれには困った。
私には、男の子に昼食をご馳走してもらうという習慣がない。
そもそも、男の子と二人で昼食を食べる習慣もない。
だから今日は私が用意する。
それなら貸し借りなしだ。
冷蔵庫を開ける。
中身は多くない。
卵。
昨日買っておいた鶏肉。
使いかけの人参。
あとは――。
「これでいいかな」
豪華なお弁当は作れないけれど、料理そのものは嫌いではない。
鶏肉を切って下味をつけ、その間に卵を溶く。フライパンを温めると、狭い部屋に香ばしい匂いが広がった。
卵焼きを巻いて、端を少し切る。
形を確認する。
「……よし」
切った端は私が食べた。
美味しい。
次は鶏肉。
焼きながら、ふと考える。
早川君、何が好きなんだろう。
昨日はピザを普通に食べていた。
クッキーも喜んでくれた。
嫌いなもの、聞いておけばよかった。
「まあ、いいか」
嫌いだったら、次から入れなければいい。
次から。
私は菜箸を持ったまま止まった。
次からって。
毎週行くんだから、別におかしくない。
そうだ。
互助関係なのだから。
焼き上がったものを冷ましてから、弁当箱に詰めていく。
自分の分と、早川君の分。
二つ並べると、ちょっとだけ嬉しくなった。
昨日のクッキーとは違う。
一緒に食べるものだ。
鼻歌を歌いながら蓋を閉め――。
「…………」
歌っていた。
しかも、自分でも気づかないうちに。
「浮かれすぎでしょ」
誰もいない部屋で、自分に言った。
でも、口元が緩んでいる。
仕方がない。
楽しいのだから。
お弁当を冷ましている間にシャワーを浴びた。
髪を乾かし、服を選ぶ。
昨日はスカートだった。
今日はどうしよう。
クローゼットと呼ぶには少々寂しい収納を眺め、何枚か取り出してベッドの上へ置く。
これ。
違う。
こっち。
ちょっと暑そう。
白いパンツなら――。
「…………」
私は手を止めた。
小説を書きに行くだけなのに、なぜこんなに悩んでいるのだろう。
大学へ行くときなんて、もっと早い。
着られる。
汚れてない。
季節がおかしくない。
だいたい、この三つを満たせば合格である。
なのに今日は、鏡の前に立っては着替え、また鏡を見る。
結局、身体に少し沿う薄手のニットと、白いパンツにした。
鏡の前で横を向く。
後ろも見る。
変じゃない。
たぶん。
昨日の反省もあるので、下着が透けていないことも確認した。
これは必要な確認である。
早川君とは関係ない。
「よし」
鞄に財布とスマホを入れる。
お弁当も忘れずに入れた。
玄関まで行って、戻った。
もう一度、鏡を見る。
髪を直す。
「……何やってるんだろ」
自分で笑ってしまった。
家を出た。
*
八王子から吉祥寺までは、それなりに時間がかかる。
少しでも交通費を節約したい私は、今日も定期券を使える経路を選んだ。
時間はかかる。
でも、今日はあまり気にならなかった。
電車の窓から流れていく景色を眺めているうちに、昨日のことが次々と思い出される。
クワトロを知らなかったこと。
お腹が鳴ったこと。
付き合っているみたい、と言ってしまったこと。
早川君に好きな人がいると聞いたこと。
最後のだけ、少し気分が変わる。
どんな人なんだろう。
昨日も気になった。
早川君が好きになるくらいだから、きっと素敵な人なのだろう。
綺麗な人かな。
それとも可愛い人?
小説が好きな人かもしれない。
そこまで考えて、やめた。
考えても分かるわけがない。
それに、もし困っているなら手伝うと言った。
互助関係なのだから。
スマホを見る。
まだ約束の時間には余裕がある。
早く家を出すぎた。
自分でも分かっていた。
電車の時間を一本遅らせても十分間に合った。
でも、遅れるよりはいい。
そういうことにしておく。
吉祥寺駅へ着いた。
時計を見ると、約束の三十分前だった。
さすがに早すぎる。
今日は待ち合わせをしているわけではない。直接マンションへ行くことになっている。
このまま行ったら迷惑だろう。
どこかで時間を潰そう。
そう思いながら改札を抜けた。
人の流れに乗って歩き――。
「あれ?」
見覚えのある頭が、人混みから一つ飛び出している。
背が高い。
眼鏡。
少し長めの髪。
「…………」
早川君だ。
なんで?
まだ三十分もある。
私に気づいたらしい。
早川君がこちらを見て、手を上げた。
「綾瀬さん」
私はなぜか一瞬、柱の陰へ隠れたくなった。
いや。
なんで隠れるの。
別に悪いことはしていない。
早く来すぎただけだ。
私は何もなかった顔をして、早川君のところへ向かった。
「おはよう」
「おはよう」
「どうしたの?」
「何が?」
「今日は直接行くって話だったよね」
「ああ……」
早川君が少しだけ目を逸らした。
「なんとなく、迎えに来た」
「迎えに?」
「うん」
「でも、まだ早いよ」
「綾瀬さんだって」
「わたしは……」
困った。
どうして三十分も早く来たのか、自分でもうまく説明できない。
「電車の時間がちょうどよかったの」
嘘ではない。
その電車を選んだのは私だけれど。
「そっか」
「早川君は?」
「僕は――」
少し間があった。
「少しでも早く会えたらいいかなって」
「…………」
胸の奥が、ふわっとした。
昨日、改札で早川君を見つけたときと似ている。
でも今日は、少し違う。
何が違うのかは分からない。
「なんてね」
早川君が笑った。
「綾瀬さん、また道に迷うかもしれないし」
「迷わないよ!」
せっかくふわっとしたものが、一瞬でしぼんだ。
「昨日行ったばっかりだよ?」
「吉祥寺って人多いから」
「人が多くても道は変わらないでしょ」
「それもそうか」
「もう」
二人で笑った。
なんだか昨日より話しやすい。
たった一日しか経っていないのに。
「じゃあ、行こうか」
「うん」
早川君が歩き出す。
私も隣を歩く。
昨日は、後ろをついていった。
今日は最初から横だった。
駅を出ると、日曜日の吉祥寺は朝から人が多かった。
井の頭公園へ向かう人。
小さな子供を連れた家族。
私たちと同じくらいの男女もいる。
そのうち何組が恋人なのだろう。
見ただけでは分からない。
友達かもしれない。
兄妹かもしれない。
私たちは――。
互助関係。
そう考えると、なんだか可笑しい。
もし誰かに「二人はどういう関係ですか」と聞かれて、「互助関係です」と答えたら、どんな顔をされるだろう。
「綾瀬さん?」
「なに?」
「なんか笑ってない?」
「笑ってないよ」
「笑ってる」
「気のせい」
そんなことを話しているうちに、早川君が少しずつ前へ出ていった。
脚が長いから、一歩が大きい。
昨日もそうだった。
「早川君」
「ん?」
「歩くの早い」
「あ、ごめん」
すぐに速度が落ちた。
昨日と同じ。
それだけのことなのに、少し嬉しい。
私は早川君の隣へ追いついた。
今日はお弁当がある。
これから二人で小説を書く。
お昼になったら、一緒に食べる。
昨日と同じように。
その先は、まだ何も決まっていない。
「ねえ」
「ん?」
「今日、お昼買わなくていいからね」
「どうして?」
「作ってきた」
「え?」
早川君が足を止めた。
「お弁当」
鞄を軽く叩いてみせる。
「昨日、ピザご馳走になったから」
「本当に?」
「うん。二人分」
「……そっか」
早川君が笑った。
クッキーを渡したときと同じ顔だった。
「楽しみだな」
その一言だけで、朝から作った甲斐があった気がした。
「期待しすぎないでね。普通のお弁当だから」
「綾瀬さんが作ったんでしょ?」
「そうだけど」
「だったら楽しみ」
また胸の奥が、ふわっと軽くなる。
なんだろう。
昨日から、こんなことばかりだ。
でも。
悪い気はしない。
むしろ――。
楽しい。
私は少しだけ早川君との距離を詰めて、また隣を歩き始めた。




