第39話 なかったことにできない
「竹下先輩と、早川君って――」
一度、言葉を止めた。
竹下先輩は、急かさずに待っている。
「どういう関係なんですか?」
ようやく聞けた。
ずっと気になっていたこと。
親睦会のときから。
いや。
もっと前からかもしれない。
竹下先輩は少し目を細めた。
「ああ、それね」
そして。
なんでもないことのように言った。
「好き同士だったの」
「…………」
え?
「ええっ!?」
思わず大きな声が出た。
「ちょ、ちょっと待ってください!」
「うん」
「好き同士って……」
「そのままの意味」
「早川君と?」
「そう」
やっぱり。
そうだったんだ。
胸の奥が、ずしんと重くなる。
やっぱり、竹下先輩だった。
親睦会で早川君は否定していたけれど。
あれは――。
「でも、付き合ってないよ」
「え?」
「一度も」
頭が追いつかない。
「好き同士だったのに?」
「うん」
「どうして……」
竹下先輩は少し考えるように天井を見た。
「付き合えなかったから」
「付き合えなかった?」
「私たち、姉弟なの」
「…………」
今度こそ。
頭が止まった。
「え?」
「異母姉弟。父親が同じ」
「…………」
何を言われたのか。
理解するまでに、少し時間がかかった。
竹下先輩と。
早川君が。
姉弟?
「でも……名字が」
「違うよ。母親が違うから」
「同じ高校って……」
「それも本当」
「先輩と後輩で……」
「それも本当」
「好き同士だったのも?」
「それも本当」
「…………」
全部本当なのに。
全部、私が思っていたものと違う。
竹下先輩が笑った。
「混乱するよね」
「します」
「だよね」
するに決まっている。
「文剛のお父さんね」
竹下先輩が、少しだけ声の調子を変えた。
「私の父親でもあるの」
私は黙って聞いた。
「私が小さいころ、父には他に好きな人がいた。その人との間に子供ができた」
「それが……」
「文剛」
早川君。
「それで、父と母は離婚した」
あまりにも。
重い話だった。
さっきまで私は、自分の恋愛のことで頭がいっぱいだったのに。
「離婚するときは、まあ、かなり揉めたみたい。慰謝料とか養育費とか、そういう話もあったし」
竹下先輩は淡々と話す。
「それと、母が出した条件があったの」
「条件?」
「父は、私に会わないこと」
「…………」
「だから私は、父親の顔もほとんど知らずに育った」
何と言えばいいのか分からない。
「ごめんなさい」
「なんで綾瀬さんが謝るの?」
「だって……」
「聞いたのは私だよ。何か聞きたいんじゃないって」
そうだった。
竹下先輩は少し笑った。
「それに、もう昔の話だから」
でも。
昔の話。
それだけではないはずだ。
早川君にとっても。
竹下先輩にとっても。
「それでね」
竹下先輩が続ける。
「中学に入ったら、文剛がいた」
「同じ学校に?」
「そう。中高一貫のところ」
そこで初めて二人は出会った。
姉と弟としてではなく。
一人の女の子と、一人の男の子として。
「早川君って、昔からあんな感じだったんですか?」
「あんな感じって?」
「その……目立たないというか」
「ああ」
竹下先輩が笑った。
「全然目立たなかった」
やっぱり。
「背は高かったけど、眼鏡かけて、髪も適当で。自分から女子に話しかけるような子でもないし」
今と変わらない。
「先輩は?」
「私はモテたよ」
即答。
「すごく」
自分で言うんだ。
でも。
否定できない。
「告白なんてしょっちゅうされたし」
「でしょうね」
「お、素直だね」
だって。
この人ならそうだろう。
「なのにね」
竹下先輩の表情が少しだけ柔らかくなった。
「なんでか知らないけど、文剛が気になった」
「早川君が?」
「向こうも」
「…………」
「不思議だよね。全然タイプじゃなかったのに」
竹下先輩が笑う。
「文剛もそうだったと思うよ。あいつ、昔からちょっと年上っぽい女が好きだったから」
「年上……」
なぜだろう。
妙に引っかかった。
「まあ、それは置いといて」
置かれた。
「話すようになって。一緒に帰ったり、勉強したり。そのうち、お互い好きなんだろうなって分かるようになった」
「告白は?」
「してない」
「え?」
「なんとなく分かってたから」
なんとなく。
分かっていた。
それでも。
「付き合おうとは?」
「その前に、母に話したの」
「早川君のことを?」
「うん。好きな男の子がいるって」
竹下先輩は、少し遠くを見るような目をした。
「写真も見せた」
それだけで。
何かが起きたのだと分かった。
「母がね。気づいたの」
「…………」
「文剛が、父に似てたから」
「それに、早川だし」
ぞくりとした。
「それで……分かった」
二人が。
姉と弟だと。
「最初は信じられなかったよ」
竹下先輩が笑った。
でも。
その笑い方は、さっきまでとは少し違った。
「好きな人が、弟だったんだから」
私は何も言えなかった。
「文剛も、相当ショックだったと思う」
「…………」
「父親が昔何をしたのかも、そのとき初めてちゃんと知ったから」
早川君は。
自分が生まれる前に起きたことを。
自分とは関係のないことなのに。
全部知ってしまった。
「だから……病院を継がないって」
口にすると。
竹下先輩が私を見た。
「あいつから聞いた?」
「少しだけ」
「そっか」
竹下先輩はそれ以上聞かなかった。
「まあ、それだけが理由じゃないと思うけどね。でも、父親と同じ道を歩きたくないって気持ちは、たぶんあると思う」
そうだったんだ。
早川君が小説を書いていること。
編集の仕事をしたいこと。
実家の病院を継がないこと。
今までばらばらに聞いていたものが。
少しずつつながっていく。
「それで……その後は?」
「姉弟になった」
「そんな簡単に?」
「簡単じゃなかったよ」
竹下先輩が笑う。
「しばらくは、お互いどう接していいか分からなかった」
当然だ。
昨日まで好きだった人を。
今日から弟だと思えと言われても。
「でも、不思議なものでね」
竹下先輩が言う。
「好きじゃなくなったわけじゃないんだよ」
「え?」
「恋愛の好き、じゃなくなっただけ」
私は竹下先輩を見る。
「大事な人なのは変わらなかった」
「…………」
「だったら、姉弟でいいじゃんって」
そんなふうに。
変わることもあるんだ。
「私が先に東京に来て。そのあと文剛も来た」
「追いかけて?」
「本人は否定すると思う」
竹下先輩が笑う。
「でも、多少はあったんじゃないかな」
それからは。
本当の姉弟として付き合うようになった。
早川君は、竹下先輩にいろいろ相談する。
大学のこと。
将来のこと。
小説のこと。
「恋愛のことも?」
思わず聞いてしまった。
「それは――」
竹下先輩が私を見る。
しまった。
聞き方が。
「内緒」
「…………」
笑われた。
「相談されたとしても、本人の許可なく話すことじゃないから」
「そうですよね」
そうだ。
それでいい。
むしろ。
少し安心した。
竹下先輩は、早川君の秘密を勝手に喋る人ではない。
「私も相談するよ」
「先輩も?」
「三上先輩に告白されたときとか」
「あ」
「どうしようって、文剛に聞いた」
「なんて?」
「知らない、自分で考えろって」
「早川君らしい……」
二人で笑った。
なんだ。
そうだったんだ。
親睦会のとき。
二人が近かった理由も。
竹下先輩が早川君のことをよく知っていた理由も。
「文剛」と呼ぶ理由も。
全部。
分かった。
そして。
私はずっと。
この人を疑っていた。
「すみません」
「だから何が?」
「わたし……竹下先輩と早川君が、その……」
「付き合ってると思ってた?」
「そこまでは……」
思っていた。
「まあ、そう見えるよね」
竹下先輩は気にした様子もない。
「でも、親睦会で三上先輩と付き合ってるって聞いて」
「余計に分からなくなった?」
「はい」
「なるほどね」
竹下先輩が納得したように頷く。
それから。
少しだけ笑った。
「綾瀬さん」
「はい?」
「一つだけ訂正していい?」
「何をですか?」
「さっき私、文剛と好き同士だったって言ったでしょ」
「はい」
「正確には――」
少し考えて。
「好き同士だったけど、結ばれなかった、かな」
「…………」
「好き同士でも、どうにもならないことってあるんだよ」
それは。
分かる。
竹下先輩たちほどではないけれど。
私だって。
「でもね」
竹下先輩は続けた。
「だからって、好きだったことが間違いだったとは思ってない」
私は顔を上げた。
「……間違いじゃない?」
「うん」
竹下先輩は笑った。
「好きになったことまで、なかったことにする必要はないでしょ」
「…………」
胸の奥で。
何かが引っかかった。
私は。
早川君が好きだ。
でも。
早川君には好きな人がいる。
だから。
言わない。
言っても困らせるだけだから。
そう思っていた。
――傷つくのが怖いだけじゃないの?
自分で自分に問いかけた。
答えは、まだ出ていない。
でも。
好きになったことまで。
なかったことにする必要はない。
「竹下先輩」
「うん?」
「もし……」
口にしかけて。
やめた。
もし。
好きな人に、他に好きな人がいたら。
どうしますか?
それを聞こうとした。
でも。
これは。
竹下先輩に答えてもらうことじゃない。
私が決めることだ。
「……なんでもないです」
「そっか」
竹下先輩は、それ以上聞かなかった。
「じゃあ私、そろそろ行くね」
「あ、はい」
立ち上がる。
鞄を肩にかけて。
ドアへ向かう。
竹下先輩がドアに手をかける。
竹下先輩が振り返った。
「あ、そうだ」
振り返って、私を見た。
「邪魔してごめんね」
「え?」
「なんでもない」
にっこり笑う。
「じゃあ、またね」
「……はい」
ドアが閉まった。
邪魔って。
何を?
私はしばらく、閉じたドアを見つめていた。
それから、さっきまで早川君が座っていた椅子を見る。
――私、早川君のことが好き。
あと少しだった。
あと少しで、私はそれを口にしていた。




