第16話 離した指先……
「なんか、似てるね」
「なにが?」
「わたしたち」
早川君が不思議そうに私を見る。
「早川君は、自分を小説の中に登場させてミニヨンを幸せにした。わたしも、自分の一部を登場人物に入れてる」
「ああ、そういうことか」
早川君は納得したように頷いた。
「僕は女の子を幸せにするヒーローになりたかった。綾瀬さんは?」
「わたしは……」
少し考えた。
『潮騒の記憶』を書き始めたのは、投稿サイトの月間賞でもらえるクオカードが目当てだった。
我ながら夢がない。
でも、書いているうちに、それだけではなくなった。
「小説の中なら、なりたい自分になれるからかな」
「なりたい自分?」
「うん。現実のわたしとは全然違う女の子にもなれるでしょ。幼なじみの男の子に大切にされる病弱な女の子とか、紗栄子みたいに綺麗で、自由で、思ったことを何でも言える女の子とか」
現実の私は、どちらでもない。
病弱でもなければ、絶世の美少女でもない。お金もないし、恋愛経験もない。
でも、小説の中なら何にでもなれる。
行ったことのない場所へ行って、現実の私にはできないことをして、誰かを好きになることだってできる。
「それで、好きな人から『好き』って言ってもらったりするの」
口にしてから、少し恥ずかしくなった。
「……なんか、こうやって説明すると寂しい人みたいだね、わたし」
「そんなことないよ」
早川君は笑わなかった。
「僕も同じだと思う」
「早川君も?」
「だって、小学生の僕はミニヨンを助けるために、自分を小説の中へ入れたんだから」
「あ、そっか」
やっぱり似ている。
始めた時期も、書いてきたものも全然違うのに、根っこのところでは同じなのかもしれない。
なんだか少し嬉しかった。
それからしばらく、部屋にはキーボードを叩く音と、紙の上を走るシャープペンシルの音だけが続いた。
私は午前中に早川君から指摘されたところを直し、紗栄子の続きを書く。
向かいでは、早川君が時々考え込んではノートに何かを書き込み、また手を止める。
同じ部屋で別々の小説を書いている。
会話なんてないのに、不思議と居心地は悪くなかった。
先に私の方が一区切りついた。
「ふう……」
椅子の背にもたれて伸びをすると、早川君が顔を上げた。
「終わった?」
「とりあえず、今日直すところは」
「じゃあ、あとで読ませてもらうよ」
「うん。早川君は?」
「僕も下書きはだいたい終わった。あとは入力しながら直すかな」
早川君はシャープペンシルを置き、ノートを閉じた。
そのノートを見て、さっきから少し気になっていたことを思い出す。
「ねえ」
「なに?」
「早川君のも見せて」
「え?」
「下書き。わたしばっかり読んでもらってるの、不公平じゃない?」
「いや、これはまだ本当に下書きだから」
「わたしのだって下書き見せてるよ」
「そうだけど……」
妙に歯切れが悪い。
そうなると、余計に見たくなる。
「ちょっとだけ」
「あっ」
テーブルの端に置かれていたノートを取る。
「綾瀬さん、それは――」
「字、いっぱい書いてあるね」
早川君の字は、思っていたより読みやすかった。
几帳面というほどではないけれど、行から大きくはみ出すこともなく、ところどころに矢印や書き直した跡がある。
ページをめくる。
途中に、少し大きな文字で題名らしきものが書かれていた。
『彼女は天然色』
「これ?」
その下へ目を落とす。
――放課後の図書館。
そこまで読んだところで、早川君の顔色が変わった。
「それは違う!」
「え?」
早川君が慌ててノートへ手を伸ばす。
私も驚いて、とっさにノートを持った手を引いた。
「あっ――」
引っ張られたわけでもない。
ただ、私が変な体勢で振り向いたせいでバランスを崩した。
身体が傾く。
次の瞬間、肩が早川君の胸にぶつかった。
「ご、ごめん!」
「いや、僕の方こそ!」
慌てて身体を起こそうとして、今度は額が早川君の顎に当たりそうになる。
「わっ」
「危ない」
肩を支えられた。
そこで、動けなくなった。
近い。
顔を上げれば、すぐそこに早川君の顔がある。
眼鏡の奥の目まで、いつもよりはっきり見えた。
肩に置かれた手が熱い。
いや、早川君の手が熱いのか、私の肩が熱くなっているのか分からない。
さっき公園でネックレスをかけてもらったときより近い気がする。
たぶん、気のせいではない。
「……綾瀬さん」
「う、うん」
返事をした自分の声が、妙に小さかった。
早川君が先に手を離した。
私も慌てて身体を離す。
「ごめん」
「だから、早川君が謝ることじゃないよ。わたしが勝手にノート見たんだし」
「いや、その……」
早川君はノートを閉じると、自分の方へ引き寄せた。
明らかに様子がおかしい。
「そんなに見られたくないの?」
「まだ途中だから」
「わたしには途中のを見せろって言うのに?」
「それは……」
困っている。
ちょっと怪しい。
でも、本当に嫌そうなので、それ以上は聞かないことにした。
「分かった。じゃあ、完成したら見せて」
「うん。ちゃんと見せる」
「約束ね」
「約束する」
時計を見ると、もう六時を過ぎていた。
思っていたよりずっと長くいたらしい。
「わたし、そろそろ帰ろうかな」
「もう?」
早川君が言ってから、
「あ、いや。もうこんな時間か」
と時計を見る。
ほんの一瞬だったけれど、その「もう?」が少し嬉しかった。
どうして嬉しいのかは、考えないことにした。
「今日はありがとう。ネックレスも」
胸元の貝殻に触れる。
「大事にするね」
「うん」
そこで、ふと思い出した。
「そういえば、早川君の誕生日っていつ?」
「僕? 十月」
「じゃあ、そのときはわたしも何かあげる」
言ってから、十月という言葉が妙に遠く感じた。
互助関係は、このコンテストが終わるまで。
七月が過ぎれば、毎週こうして早川君の部屋へ来る理由もなくなる。
それに十月なら――。
そのころには、早川君の好きな人との関係も、今とは違っているかもしれない。
「あ、でも、お返しは気にしなくていいよ」
「ううん。高いものは無理だけど」
「高いものじゃなくていいよ」
「じゃあ期待しないで待ってて」
「それ、待てばいいのか待たない方がいいのか分からないな」
二人で笑った。
笑いながらも、十月の早川君を少しだけ想像してしまった。
隣にいるのは、私ではないのかもしれない。
そう思った途端、胸の奥に小さなものが引っかかった。
私は、何を考えているんだろう。
早川君には好きな人がいる。
それは最初から知っている。
私は小説を書くのを手伝ってもらっているだけで、私たちは互助関係だ。
それに――。
小説を書き終えたら、今度は私が早川君を手伝う。
好きな人とうまくいくように。
それが一番いい。
私はそういう立場でいればいい。
そう自分に言い聞かせると、胸の引っかかりが消えるどころか、少しだけ重くなった。
「駅まで送るよ」
「いいよ。一人で帰れるから」
「公園を抜けるころには暗くなるよ」
窓を見ると、確かに外はもう夕方の色になっていた。
「じゃあ……お願いします」
結局、また甘えることになった。
外へ出ると、昼間より風が少し涼しくなっていた。
公園へ入るころには木々の間から見える空も暗くなり始め、池の周りには街灯が灯っていた。
昼間はあれほど人がいたのに、帰る人が増えたせいか、道によっては急に人影が少なくなる。
私は早川君の半歩後ろを歩いた。
「暗いね」
「足元、気をつけて」
「うん」
返事をした直後、木の根に靴の先が引っかかった。
「わっ」
「大丈夫?」
「大丈夫。ちょっとつまずいただけ」
恥ずかしい。
足元に気をつけてと言われた直後につまずく人がいるだろうか。
ここにいる。
また歩き出す。
今度はちゃんと足元を見る。
でも、そうすると前が見えない。
前を見ると、足元が気になる。
どうすればいいんだ。
少し迷ってから、私は早川君のシャツの袖を指先でつまんだ。
早川君が振り返る。
「あ、ごめん。暗いから」
「うん」
それだけだった。
何も言わず、また前を向く。
私も手を離さなかった。
袖の布一枚をつまんでいるだけなのに、不思議とさっきより歩きやすい。
早川君は、私に合わせて少しゆっくり歩いてくれた。
公園を抜けて明るい通りへ出ると、私は袖から手を離した。
もう必要ない。
それなのに、離した指先が少しだけ物足りなかった。
駅までの道は、そこからすぐだった。
改札の前で立ち止まる。
「じゃあ、また大学で」
「うん。原稿、読んでおくね」
「お願いします」
手を振って、改札を抜ける。
昨日は、明日も会えると思って帰った。
でも今日は違う。
次にこうして二人で過ごすのは、また週末だ。
もちろん大学へ行けば会える。
同じサークルなのだから、顔を合わせることだってある。
でも、それとは少し違う気がした。
何が違うのかは、まだよく分からない。
電車を待ちながら、私は胸元のネックレスに触れた。
今日一日だけでも、知らなかった気持ちがいくつもあった。
嬉しい。
楽しい。
少し寂しい。
それから、理由の分からない胸の痛み。
これも全部、小説を書くための材料になる。
そう考えれば、悪くない。
私は作家志望なのだから。
……たぶん。




