第15話 なんか、似てるね
「似合う」
早川君にそう言われて、私は胸元のネックレスに手を添えた。
白い貝殻がいくつも連なり、真ん中には小さな二枚貝が揺れている。
私が頭の中で作ったものと、まったく同じではない。
それでも『潮騒の記憶』を書いていたころ、何度も想像したネックレスが本当にそこにあるようで、不思議な気分だった。
「へえ、彼女、似合ってるじゃない」
お店のお姉さんに声をかけられ、私は慌てて早川君から離れた。
「ありがとうございます」
「それ、気に入った?」
「はい。わたしが昔書いた小説に、よく似たものが出てくるんです」
言ってしまってから、少し恥ずかしくなった。
ところがお姉さんは、驚いたように私を見た。
「小説?」
「ネットの投稿サイトなんですけど」
「なんていうの?」
「『潮騒の記憶』って――」
「あ、それ知ってる」
「え?」
今度は私が驚く番だった。
「読んだことあるよ。女の子が貝殻を耳に当てるやつでしょ?」
「そうです!」
まさか、こんなところで読者に会うとは思わなかった。
投稿サイトに公開している以上、誰かが読んでくれていることは分かっている。でも、その「誰か」は普段、数字でしか見えない。
閲覧数が増えたり、星がついたり、感想が届いたり。
それだけでも嬉しいけれど、こうして目の前にいる人から「読んだ」と言われると、急に現実味を持つ。
私の知らないところで、私の書いた物語を読んでくれた人がいる。
なんだか、それだけで胸がいっぱいになった。
「これ、ください」
「え?」
横を見ると、早川君が財布を出していた。
「ちょっと待って。なんで早川君が買うの?」
「綾瀬さんに」
「わたしに?」
値札を見る。
六千円。
私はもう一度見た。
六千円。
見間違いではない。
「無理無理。こんな高いもの受け取れないよ」
「まだ少し早いけど、誕生日プレゼントってことで」
「なんでわたしの誕生日知ってるの?」
教えた覚えがない。
「七月でしょ?」
「そうだけど……」
「やっぱり」
早川君が、なぜか嬉しそうに笑った。
「推測だったんだ。『潮騒の記憶』の女の子、綾瀬さんがモデルなんじゃないかと思って」
「え?」
「女の子の誕生日が七月だったから。初めて書いた小説なら、自分のことを少しくらい入れてるんじゃないかなって」
図星だった。
女の子は私ではない。
病弱でもないし、海辺の村で育ってもいない。
でも、誕生日は同じ七月にした。
主人公の好きな食べ物や、ちょっとした癖にも、自分のものをいくつか使っている。
初めて小説を書いた私は、架空の人間を一から作る方法なんて知らなかったのだ。
「……よく分かったね」
「僕もやるから」
「早川君も?」
「うん。自分をモデルにするの」
意外だった。
早川君がどんな人物を自分の代わりに小説の中へ登場させるのか、少し気になった。
「じゃあ、五千円にしてあげる」
お姉さんが突然言った。
「えっ、いいんですか?」
「いいよ。私もあの小説好きだったし」
「でも――」
私が止めるより先に、早川君がお金を払ってしまった。
「はい。これで綾瀬さんの」
「ちょっと……」
六千円が五千円になったところで、私にとっては十分すぎるほど高い。
恋人でもない男の人から、五千円のネックレス。
どう考えても、気軽にもらっていいものではない気がする。
「本当にいいの?」
「うん」
「でも、お弁当のお返しにしては高すぎるよ」
「お弁当だけじゃないから」
早川君は、私の胸元にある貝殻を見た。
「『潮騒の記憶』を読ませてもらったお礼もあるし」
「小説なんて、無料で公開してるんだけど」
「そういう意味じゃなくて」
少し困ったように笑う。
「心に残る話を読ませてもらったから。そのお礼」
そんなことを言われたら、断りにくい。
いや。
断りにくいというより――。
嬉しい。
たぶん私は、ネックレスをもらうことより、自分の書いた小説をそんなふうに言ってもらえたことの方が嬉しかった。
「……ありがとう」
「うん」
「大事にする」
そう言うと、早川君は満足そうに頷いた。
「そのまま着けていく?」
お姉さんに聞かれ、私は胸元を見た。
「はい」
外してしまうのが、少しもったいない気がした。
私たちは店を離れ、再び池の周りを歩き始めた。
休日の公園は相変わらず人が多く、向こうから人が来るたびに、私は早川君の方へ寄った。
肩が触れる。
少し離れる。
また人を避けて近づく。
それを何度か繰り返しているうちに、私はいつの間にか、早川君の隣を歩くことに慣れていた。
歩くたび、胸元で小さな貝殻が触れ合う。
かすかな音だった。
さっき読んだ――いや、私が書いた物語を思い出す。
もちろん、声なんて聞こえない。
それでも今日は、この音をずっと覚えていたいと思った。
「綾瀬さん、こっち」
「あ、うん」
人の流れを避けるように、早川君が少しだけ私の前に出る。
私はその背中についていった。
公園を抜けると、急に人が少なくなった。
さっきまで肩が触れそうなほど近くを歩いていたのに、道が広くなると、自然に二人の間にも少しだけ隙間ができる。
なぜか、その隙間が気になった。
だからといって、自分から近づく理由もない。
私は胸元の貝殻を指でつまんだ。
「早川君」
「なに?」
「今日は、ありがとう」
「ネックレス?」
「それもだけど。小説のこと」
早川君は少し考えてから、
「僕、本当に好きだよ。『潮騒の記憶』」
と言った。
また胸元の貝殻が揺れた。
「……ありがとう」
今度は、さっきより素直に言えた。
*
マンションへ戻ったころには、三時を過ぎていた。
「ちょっとのんびりしすぎたね」
「うん。でも楽しかった」
口にしてから気づく。
今日は小説を書くために来たはずなのに、映画を観て、お弁当を食べて、公園を歩いて、ネックレスまで買ってもらった。
ほとんど遊んでいる。
いや、遊びに来たわけではない。
互助関係。
忘れてはいけない。
部屋に戻ると、私は早速ノートパソコンを開いた。
午前中に早川君から指摘されたところを直してみる。
紗栄子が海を気にする場面。
ほんの少しだけ。
本人にも理由が分からない程度に。
書いてみると、確かに前より自然な気がした。
向かいでは、早川君がノートを広げている。
私はキーボードを打つ手を止めた。
「ねえ、早川君」
「ん?」
「前から聞こうと思ってたんだけど、どうして手書きなの?」
「どうしてって?」
「小説。最初からパソコンに打った方が早くない?」
「ああ」
早川君は手にしていたシャープペンシルを見た。
「昔からこうなんだよ。最初はノートに書いて、それから打ち直す」
「昔って、いつから?」
「小学校五年生くらいかな」
「小五?」
思わず声が大きくなった。
「そんなころから小説書いてたの?」
「うん。子供のころ、本ばっかり読んでたから」
それは、なんとなく想像できる。
今でも早川君は、私が知らない本をたくさん知っている。
「最初に書いたのは、好きだった小説の続きを勝手に書いたようなものだけど」
「二次創作?」
「今で言えば、そうなのかな」
早川君は少し懐かしそうに笑った。
「『君よ知るや南の国』って知ってる?」
「知らない」
即答した。
「だよね」
「有名なの?」
「元になった作品はね。ゲーテの『ヴィルヘルム・マイスターの修業時代』っていう小説の一部を、ミニヨンっていう女の子を中心にして紹介したものなんだけど」
ゲーテ。
名前くらいは知っている。
でも、それ以上を聞かれると困る。
「どんな話?」
そう尋ねると、早川君はノートから手を離した。
「ミニヨンは、子供のころに故郷から連れ去られて、旅芸人の一座にいた女の子なんだ。そこでひどい扱いを受けているところを、ヴィルヘルムという青年に助けられる」
「うん」
「ミニヨンはヴィルヘルムを慕うようになって、やがてそれが恋になる。でも、ヴィルヘルムにとってミニヨンは守ってあげたい子供なんだよ」
「……それ、嫌な予感がする」
「する?」
「する」
早川君は笑った。
でも、話はやっぱり私の予想した方向へ進んだ。
ミニヨンには、ずっと憧れている場所がある。
まだ見たことのない南の国。
そこにはレモンの花が咲き、黄金色のオレンジが実り、青い空から穏やかな風が吹いている。
ミニヨンはその国を思いながら歌う。
――君よ知るや南の国。
いつかヴィルヘルムと一緒にそこへ行きたい。
けれど、その願いが叶うことはなかった。
ある日、ヴィルヘルムの前に美しい女性が現れる。
その女性が彼に抱きつき、結婚を申し込む姿を目の前で見たミニヨンは、大きな衝撃を受ける。
そして、その短い生涯を終えてしまう。
「……死んじゃうの?」
「うん」
「救いがないね」
「そうなんだよ」
早川君は笑っているけれど、私は笑えなかった。
好きな人と一緒に行きたかった場所へ行くこともできず、その人が別の女性と結ばれるところを見て死んでしまう。
かなり悲しい。
「それが好きだったの?」
「好きだった。でも、子供だったから納得できなかったんだよね」
「何が?」
「ミニヨンが死ぬこと」
早川君は、机の上のノートを指先で軽く叩いた。
「だから、勝手に続きを書いた」
「死んだのに?」
「そこから変えた」
「変えちゃったの?」
「うん」
何でもないことのように言う。
「僕の話では、ミニヨンは死なない」
私は思わず笑った。
「原作を変えちゃったんだ」
「小学生だからね。怖いものなし」
「それで、どうしたの?」
早川君は少しだけ照れくさそうに、ノートへ視線を落とした。
「ミニヨンと同じくらいの年の男の子を登場させた」
「新キャラ?」
「うん」
「その子がミニヨンを助けるの?」
「まあ……そんな感じ」
「それで?」
「最後は、その男の子とミニヨンが結婚する」
「すごい改変」
「だから小学生だったんだって」
早川君が笑う。
私もつられて笑った。
でも、ふと気になった。
「その男の子って、誰かモデルがいたの?」
笑っていた早川君が、少しだけ黙った。
「……僕」
「早川君?」
「うん」
私は目を丸くした。
「ミニヨンを幸せにしたかったから。だったら自分が物語の中に入って、幸せにすればいいと思ったんだよ」
小学生らしいと言えば、小学生らしい。
でも。
私は胸元のネックレスに触れた。
『潮騒の記憶』の女の子にも、私の一部が入っている。
早川君は、そんなことまで見抜いていた。
「なんか、似てるね」
「なにが?」
「わたしたち」
早川君が顔を上げた。
「わたしも、自分を小説の中に入れるから」




