第14話 潮騒の記憶
海の近くで暮らしていると、波の音を意識しなくなる。
朝、目を覚ましたときにも聞こえているし、夜、眠りにつくときにも聞こえている。風の強い日には家々の隙間を抜けてくる潮の匂いが濃くなり、凪いだ日には、遠くで砕ける波の音だけが、忘れたころに開け放した窓から入り込んでくる。
少女にとって海とは、そういうものだった。
生まれたときからそこにあり、おそらく自分がいなくなったあとにも、何事もなかったように波を寄せては返している。
村の大人たちは、少女の前で先の話をしなかった。
来年の夏には、とか。
大きくなったら、とか。
いつかお嫁に行くときには、とか。
そういう言葉を口にしかけると、なぜか途中で別の話に変えてしまう。
少女は、その理由を知っていた。
幼いころから病気がちで、町の大きな病院へ何度も通った。母は医者の話を聞くたびに笑顔を作り、家へ帰る車の中では、いつもより少しだけ饒舌になった。
だから少女も、知らないふりをしていた。
自分が長くは生きられないかもしれないことを。
知らないふりをしている方が、母は笑っていられた。
ただ、一人だけ、少女の前で先の話をする人がいた。
家が三軒隣にある、同い年の少年だった。
「今年の誕生日、何が欲しい?」
防波堤に腰を下ろし、少年は海を見ながら尋ねた。
少女は隣で膝を抱えていた。
「いらない」
「なんで?」
「欲しいもの、ないから」
「じゃあ、僕が決める」
「いらないって言ってるのに」
「僕があげたいんだから、いいだろ」
勝手な理屈だった。
少女が呆れて横を見ると、少年はもう贈り物のことを考えているらしく、難しい顔で海を睨んでいた。
「来年の誕生日までに考えとく」
少女は笑った。
「来年なの?」
「だって今年はもう間に合わない」
「何に?」
少年は答えなかった。
ただ、足元に落ちていた白い貝殻を一つ拾い上げると、夕日に透かすようにして眺めた。
それからしばらくして、少年は学校が終わるたびに浜辺へ行くようになった。
何をしているのか尋ねても教えてくれない。
砂浜にしゃがみ込み、波打ち際を歩いては何かを拾い、気に入らなければ海へ投げ返す。それを日が傾くまで繰り返していた。
少女が見つけたのは、冬の終わりだった。
少年の部屋の机に、小さな箱が置いてあった。
蓋を開けると、白や薄桃色の小さな貝殻がいくつも並んでいる。どれも同じくらいの大きさで、欠けたものは一つもなかった。
「見たな」
背後から声がして、少女は振り返った。
「これ、何?」
「秘密だったのに」
少年は不満そうに箱を取り上げた。
「私にくれるの?」
「……まだ足りない」
「こんなにあるのに?」
「首にかけるんだから、もっといる」
そこでようやく、少女にも分かった。
「ネックレス?」
少年は答えず、箱に蓋をした。
耳だけが少し赤くなっていた。
少女は笑った。
「欲しいなんて言ってないよ」
「知ってる」
「私、アクセサリーなんて似合わないよ」
「それは僕が決める」
「なにそれ」
また、勝手な理屈だった。
けれど少女は、それ以上いらないとは言わなかった。
少年が集めている貝殻が、あといくつで首を一周するのか。
春になるころには、それを数えるのが少女の楽しみになっていた。
六月。
梅雨の晴れ間には、夏を先取りしたような日差しが海面に降り注いだ。
貝殻はもう十分に集まっていた。
少年は一つずつ小さな穴を開け、細い紐を通していった。白と薄桃色の貝殻が、少女の首を囲むように連なっていく。
けれど、真ん中だけが空いていた。
「ここは?」
少女が指差すと、少年は得意そうに言った。
「一番きれいなのをつける」
「まだ探すの?」
「二枚貝がいい」
「別に、これでいいよ」
「ダメ」
少女の誕生日は、七月だった。
少年は学校が終わると浜辺へ行き、ペンダントトップになる貝殻を探し続けた。
少女も何度か一緒に探した。
けれど、少年が気に入るものは見つからなかった。
大きすぎる。
形が悪い。
色が気に入らない。
少し欠けている。
少女にはどれも同じように見えた。
「そんなにこだわらなくてもいいのに」
「ダメなんだって」
「どうして?」
少年はしばらく黙っていた。
やがて手の中の貝殻を海へ放り投げると、何でもないことのように言った。
「来年も作れるか分からないだろ」
少女は何も言えなかった。
少年は海を見ていた。
こちらを見ようとはしなかった。
二人の間を、潮を含んだ風が通り過ぎた。
大人たちが言わない言葉を、少年は知っている。
そのことを少女は初めて知った。
それでも翌日から、少年は何もなかったように貝殻を探した。
七月に入って間もなく、台風が近づいた。
季節外れに発生した大きな台風で、村の漁船は早々に港へ戻され、海沿いの家では雨戸が閉められた。
少女の誕生日は、その翌日だった。
窓の外では雨が横殴りに降っていた。
海はいつもの穏やかな色を失い、遠くからでも分かるほど大きくうねっている。
少女は一日中、家にいた。
夜になっても風は弱まらなかった。
少年は来なかった。
きっと明日になれば来る。
少女はそう思った。
誕生日なんて、一日くらい遅れても構わない。
ネックレスだって、完成していなくてもいい。
もう、十分だった。
翌朝。
台風は海の向こうへ去っていた。
空は昨日の嵐が嘘だったように青く、浜辺には流木や海藻が散らばっていた。
少年は来なかった。
昼を過ぎても。
夕方になっても。
代わりにやって来たのは、少年の父親だった。
濡れた砂のついた小さな箱を、両手で抱えていた。
「これを……」
それだけ言うと、男は顔を伏せた。
少女の母が、口元を手で覆った。
少女には、その意味が分からなかった。
分かりたくなかった。
箱の中には、ネックレスが入っていた。
白と薄桃色の小さな貝殻。
そして真ん中には、淡い桜色をした二枚貝が一つ。
少年がずっと探していたものだった。
嵐が過ぎたあとの浜辺で、少年は見つかった。
握りしめた右手の中に、その貝殻があったのだという。
少女は泣かなかった。
泣けば、本当になってしまう気がした。
ネックレスを受け取り、自分の部屋へ戻った。
窓の向こうには、いつもの海があった。
昨日あれほど荒れていたのに、もう何も知らないような顔をしている。
少女はネックレスを胸に抱いた。
「馬鹿」
声に出してみた。
返事はない。
「こんなの、いらないって言ったのに」
やはり返事はなかった。
少女は窓を開けた。
潮の匂いが部屋へ入り込んでくる。
遠くで波が砕けた。
少女は、ネックレスの真ん中にある二枚貝を指でつまんだ。
耳に近づける。
貝殻を耳に当てると海の音が聞こえるのだと、少年に教えてもらったことがある。
あれは嘘だ。
聞こえているのは、自分の耳の中を流れる血の音なのだと、あとになって知った。
それでも少女は、貝殻を耳に当てた。
波の音がした。
寄せて。
返して。
また寄せてくる。
少女は目を閉じた。
すると、ほんの一瞬だけ。
その音に紛れて、聞き慣れた声がしたような気がした。
――誕生日、おめでとう。
少女は貝殻を耳に押し当てた。
もう一度聞きたかった。
けれど、聞こえてくるのは波の音だけだった。
その日、少女は初めて泣いた。
窓の向こうで、海は何も知らないように、いつまでも波を寄せていた。
*
「……潮騒の記憶」
思わず、声に出していた。
目の前にあるネックレスは、もちろん私が小説に書いたものと同じではない。
白い小さな貝殻に紐を通し、真ん中に二枚貝をあしらっている。
それだけだ。
でも、私の頭の中にしかなかったものが、急に形を持って目の前へ現れたような気がした。
「やっぱりそうだよね」
隣から早川君の声がした。
「え?」
「綾瀬さんの小説に出てきたネックレス。僕も見た瞬間、そう思った」
私はネックレスではなく、早川君を見た。
「……読んだの?」
「うん」
「『潮騒の記憶』を?」
「読んだよ」
知らなかった。
『潮騒の記憶』は、大学一年のときに初めて小説投稿サイトへ載せた作品だ。
投稿サイトの月間賞に選ばれて、五千円分のクオカードをもらった。
初めて自分の小説が誰かに認められた作品。
そして、賞品がもらえることを知ってしまった作品でもある。
今こうして五十万円の賞金を目当てに官能小説を書いていることを考えると、私の作家人生は最初からあまり格好よくない。
「恥ずかしいな……」
「なんで?」
「初めて書いた小説だし。今読むと、たぶん直したいところいっぱいあるよ」
「僕、好きだけどな」
さらっと言われた。
「……え?」
「最後のところ、泣いた」
早川君はネックレスへ視線を戻した。
「貝殻から本当に声が聞こえたのか、それとも女の子がそう思っただけなのか、最後まで分からないでしょ。あそこ、すごく好きだった」
胸の奥が、くすぐったくなった。
小説を褒められることはある。
投稿サイトには感想ももらった。
月間賞に選ばれたくらいだから、少なくとも誰にも読まれなかった作品ではない。
でも、知っている人から、しかも早川君から「あそこが好きだった」と言われるのは、何だか違った。
「早川君がわたしの小説を読むなんて、意外」
「そう?」
「だって、ちゃんと出版社の賞に応募してる人だし」
「関係ないでしょ」
早川君は笑った。
「僕、あれを読んで、綾瀬さんの小説のファンになったんだよ」
「ファン?」
思わず聞き返した。
「うん」
「……わたしの?」
「ほかに誰がいるの」
困る。
そういうことを普通の顔で言われると、どう反応していいのか分からない。
私は逃げるようにネックレスへ視線を戻した。
値札がついている。
ちゃんと売り物だ。
「これ、試着してもいいですか?」
早川君が店の人に声をかけた。
「え?」
「せっかくだから、つけてみたら?」
「わたしが?」
「うん」
店の人からネックレスを受け取ると、早川君は当然のように私の方へ向き直った。
「ちょっと、俯いて」
「自分でつけるよ」
「いいから」
早川君は背が高い。
そのまま私の頭の上からネックレスを通そうとする。
正面から。
仕方なく、少しだけ近づいた。
「これくらい?」
「もうちょっと」
言われるまま一歩近づく。
目の前に、早川君の胸があった。
近い。
さっきまで人混みの中で肩が触れそうになっても、それほど気にならなかったのに、向かい合って立つと全然違う。
私の頭が、早川君の胸に触れそうになる。
早川君の両手が、私の頭の上を通る。
ネックレスが髪に触れ、頬の横を抜けて、首元へ落ちた。
小さな貝殻が、胸元でかすかな音を立てた。
「うん」
早川君が少し離れて、私を見る。
「似合う」
私は返事をする代わりに、胸元の貝殻へ手を添えた。
さっき小説の中で鳴っていた波の音が、まだどこかに残っているような気がした。




