第13話 会いたいと思った。一緒にいたいと思った。
映画が終わり、画面にエンドロールが流れ始めた。
私はしばらくテレビを見たまま動かなかった。
隣で早川君がリモコンを手に取る。
「綾瀬さん、どうだった?」
「うん?」
「僕の都合で観せちゃったけど、つまらなかったんじゃない?」
「ううん、そんなことない。わたしにもすごく参考になった」
私の答えに、早川君は安堵したような表情を見せた。
別に早川君が作った映画じゃないのに。
「わたし、一番疑問に思ったシーンがあったんだけど……」
「もしかして、奥さんがビンタするところ?」
「うん」
やっぱり、早川君も気になったらしい。
映画の中では、夫と相手の女性は互いに惹かれ合っていた。でも、奥さんが想像したような関係にはなっていなかった。
それなのに、何もなかったと聞かされた奥さんは、かえって怒った。
「あれ、どういう意味なんだろう」
「身体の関係がなかったからじゃない?」
「なかったから?」
「うん。だから余計に、気持ちだけで好きになったって感じたんじゃないかな」
「ああ……」
そういうことか。
私は映画の場面を思い返した。
何をしたかだけなら、していない。
でも、何もなかったわけではない。
会いたいと思った。
一緒にいたいと思った。
それだけでも、奥さんにとっては十分に裏切られたことになるのだろう。
「恋愛って、難しいね」
「官能小説を書いてる人が言う?」
「だから困ってるの」
早川君が笑った。
「でも、ちょうどよかったかも」
「何が?」
「さっきの紗栄子の話」
「あ……」
言われて気づいた。
紗栄子が海を気にしている。
でも本人は、その理由にまだ気づいていない。
何もしていなくても、気持ちは先に動くことがある。
「そういうのも、書かないといけないんだ」
「全部説明する必要はないと思うけどね」
「それ、さっきも言ってたね」
「言ったっけ?」
「言ったよ」
私は笑った。
なんだか少しだけ、紗栄子の続きを書けそうな気がしてきた。
何をさせるかではなくて、その前に何を思ったのか。
それなら、私にも書けるかもしれない。
……たぶん。
「お腹空かない?」
早川君が突然言った。
言われた途端、お腹が反応した。
「空いた」
時計を見ると、もう昼を過ぎていた。
「じゃあ、お弁当食べようか」
「あ」
私は持ってきたバッグを見る。
せっかく作ってきたお弁当だ。
「ここで食べる?」
「天気いいし、外に行かない?」
早川君が窓の方を見る。
カーテンの隙間から、明るい日差しが入っていた。
確かに、部屋にいるのがもったいないくらいの天気だった。
「井の頭公園?」
「うん。近いし」
「行く」
返事をしてから、私はバッグを持って立ち上がった。
昨日から何度も来ている部屋なのに、外へ出るとなると少し気分が変わる。
お弁当を持って、二人で公園。
「…………」
「どうしたの?」
「なんでもない」
危ない。
また変なことを考えるところだった。
*
マンションを出ると、五月の日差しが思っていたより眩しかった。
暑くもなく、寒くもない。
風が吹くと気持ちいい。
こういう日は、外で食べようと言った早川君が正しい。
ただ、一つ問題があった。
「早川君」
「なに?」
「速い」
「あ、ごめん」
早川君が足を止めた。
まただ。
私に合わせて歩いているつもりなのだろうけれど、気を抜くとすぐに速くなる。
「これくらい?」
今度は少しゆっくり歩き始める。
「うん」
私はその隣へ並んだ。
昨日は後ろから追いかけていた。
今日は最初から隣にいる。
それだけの違いなのに、不思議と歩きやすかった。
日曜日の吉祥寺は人が多い。
駅から公園へ向かう人の中には、家族連れもいれば、私たちと同じくらいの年齢の男女もいる。
そういう二人を見るたび、つい自分たちと比べてしまう。
違う。
私たちは互助関係だ。
小説を書くための。
ちゃんと名前まで決めた。
「綾瀬さん、こっち」
「え?」
前から来た自転車を避けるため、早川君が少し私の方へ寄った。
肩が触れそうになる。
私は反対側へ逃げようとして――やめた。
別に、このくらい普通だ。
人が多いんだから。
そのまま隣を歩いた。
公園に着くと、日曜日だけあってベンチはほとんど埋まっていた。
「座れるところ、あるかな」
「もう少し奥まで行ってみようか」
池の周りを歩いて、少し人の少ないところを探す。
ようやく空いているベンチを見つけ、私はバッグから二つのお弁当を取り出した。
「はい」
「ありがとう」
早川君が受け取る。
その顔を見ていると、急に緊張してきた。
作っているときは楽しかったのに。
人に食べてもらうとなると話は別だ。
「先に言っておくけど、普通だからね」
「普通?」
「本当に普通のお弁当。期待しないで」
「なんでそんなに予防線張るの?」
「だって……」
卵焼き。
唐揚げ。
ウインナー。
あとは昨日の残り物を少し。
見れば見るほど普通だ。
「いただきます」
早川君が卵焼きを口に入れる。
私は自分のお弁当を開けたまま、横目で様子をうかがった。
「どう?」
「美味しい」
「本当?」
「うん」
早川君はもう一つ食べた。
「これ、甘いやつなんだね」
「あ、嫌いだった?」
「好き」
よかった。
「唐揚げも食べて」
「食べるよ」
「冷めてるけど」
「お弁当なんだから冷めてるでしょ」
「そうだけど」
自分でも何を言っているのか分からない。
でも、早川君が食べるたびに、妙に気になった。
美味しいと言ってくれると嬉しい。
昨日、ピザを食べたときとは違う。
自分で作ったものだからだろうか。
「綾瀬さんも食べないの?」
「あ、食べる」
自分のお弁当に箸をつける。
同じものなのに、家で一人で食べるときより美味しい気がした。
「ランチを二人で食べるって、いいね」
昨日、私が言った言葉を思い出した。
あれは、やっぱり間違っていなかったらしい。
食べ終わってからも、すぐにはマンションへ戻らなかった。
せっかくだから少し歩こうということになり、池の周りをぶらぶらする。
何か目的があるわけではない。
小説の話をしたり、大学の話をしたり、途中で犬を見たり。
早川君は犬を見ると、意外とよく振り返る。
「犬、好きなの?」
「好きだよ」
「飼ってる?」
「実家で。今は親が面倒見てる」
「へえ。なんて名前?」
「ポチ」
「嘘」
「なんで分かったの?」
「早川君がポチってつけるところ想像できない」
「どういう意味?」
そんな話をしながら歩く。
何の役にも立たない話ばかりだ。
でも、不思議と退屈しなかった。
「あ」
早川君が足を止めた。
「どうしたの?」
「これ」
公園の一角に、小さな露店が出ていた。
アクセサリーや小物が並んでいる。
早川君は、その中の一つを見ていた。
貝殻を使ったネックレス。
小さな白い貝をいくつも繋げて作られている。
珍しいものではない。
海辺のお土産屋さんにでもありそうな、素朴なネックレスだ。
でも。
どこかで見たことがある気がした。
いや。
見たことはない。
実物を見るのは、初めてだ。
「これ……」
私はネックレスを見つめた。
白い貝殻。
一つ一つ拾い集めて。
紐に通して。
女の子の誕生日に贈るために――。
「潮騒の記憶……」




