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第12話 そんなことって、あるのかなあ

撮影現場には、紗栄子のほかに数人のスタッフがいた。


三脚に載せられたカメラ。部屋の隅には照明が並び、長い棒の先にはマイクらしきものがぶら下がっている。


ホテルの一室なのに、そこだけは本当に撮影現場だった。


「へえ……」


紗栄子は思わず辺りを見回した。


見学だけ。


そう決めてしまえば、さっきまでの不安も少しだけ薄れてくる。こんなところ、普通に生活していたら見る機会なんてない。


来てよかった――とまでは思わないけれど、一万円ももらったし、ちょっと得した気分にはなっていた。


そんな紗栄子の目が、一人の男の子で止まった。


若い。


たぶん、自分と同じくらい。


背はそれほど高くないけれど、すっきりした顎に、少し憂いのある目。まつ毛が長く、横顔だけなら女の子みたいにも見える。


でも、鼻筋はすっと通っていて――。



イケメンだ。


かなり。



つい見てしまった。


「なに?」


目が合った。


「俺の顔に何かついてる?」


感じ悪っ。


「別に。撮影現場が珍しかっただけ」


「ふーん」


男の子は興味をなくしたように目を逸らした。


むかつく。


ちょっと顔がいいからって、何なのよ。


「彼が今日の男優さん。海野海《うみのかい》君」


立花が紹介した。


「上から読んでも海野海、下から読んでも海野海」


「…………」


紗栄子は頭の中で確認した。


うみのかい。


逆から読んで――。


違うじゃん。


どこから突っ込めばいいのか迷っていると、海が面倒くさそうにため息をついた。


「それ、毎回言うのやめてもらえます?」


「いいじゃない、覚えやすくて」


「覚え方が間違ってるんですけど」


意外とまともなことを言った。


「こっちは紗栄子ちゃん。今日は見学」


「はあ」


それだけ。


海は紗栄子を一度見ただけで、また視線を逸らした。


「…………」


何よ。


美少女が目の前にいるのに。


もうちょっと何かあってもいいんじゃないの?


いや、別に褒めてほしいわけではない。


ただ、反応が薄すぎる。


「紗栄子ちゃん」


後ろから小さな声で呼ばれた。


杏果だった。


「ちょっといい?」


「はい?」


杏果に連れられ、さっきの控室へ戻る。


扉は閉めなかった。


そのことに、紗栄子は少し安心した。


「あの、どうしたんですか?」


「その……」


さっきまできびきびしていた杏果が、なぜか言いにくそうにしている。


「やっぱり今日、出てもらうのって無理かな?」


「ええっ?」



話が違う。



「杏果さんが出るんじゃなかったんですか?」


「そのつもりだったんだけど……男優さんが変わったの」


「男優?」


「本来来る予定だった人が来られなくなって、代わりに海君が来たみたいで。私もさっき知ったの」



なるほど。



紗栄子には分かった。


「ああ」


「なに?」


「あの人、感じ悪いですもんね」


「え?」


「杏果さんも嫌なんでしょ?」


「いや、そういうことじゃなくて」


「だって、男優さんが変わったから嫌なんですよね?」


杏果は黙った。


違うのだろうか。


しばらくして、大きく息を吐く。


「海君、元カレなの」


「ええっ!!」


思わず大声が出た。


慌てて口を押さえる。


「元カレ?」


「声、大きい」


「すみません。でも……」


紗栄子は扉の向こうを見た。


さっきの感じの悪いイケメン。


それから杏果。


もう一度、頭の中で二人を並べてみる。


「だったら逆に、杏果さんの方がいいんじゃないですか? お互いのこと知ってるんだし」


「だから嫌なの」


杏果は即答した。


「仕事なのに、プライベートみたいになるでしょ。それに、別れた男となんて絶対に嫌」


「…………」


そういうものなのだろうか。


紗栄子にはよく分からなかった。


別れ方にもよるのかもしれない。


杏果は困ったように笑った。


「ごめんね。断っていいから。こっちの都合だし」


「でも、撮影は?」


「どうにかする」


そう言いながらも、さっきまでとは明らかに元気がない。


紗栄子は海のいる部屋を見た。


杏果を見る。


もう一度、海の方を見る。


感じは悪い。


でも。


顔は悪くない。


むしろ、かなりいい。


それに――。



十五万円。



頭の隅から追い出したはずの数字が、また戻ってきた。


いや。


お金で決めるわけじゃない。


杏果が困っているからだ。


たぶん。


「……私、演技なんてしたことないですよ」


「うん」


「何をすればいいのかも分からないし」


「それは全部説明する」


「本当に、今日だけですか?」


「もちろん」


杏果が頷く。


逃げるなら今だ。


帰ってもいい。


一万円はもうもらった。


それでも、紗栄子はもう一度だけ扉の向こうへ目をやった。


海はこちらを見ていなかった。


別に、それでいい。


むしろ、何を期待しているんだ、私は。


「…………」



紗栄子は小さく息を吐いた。



「分かりました」


「え?」


「今日だけ。やってみます」


杏果の顔がぱっと明るくなった。


「ほんとに? ありがとう!」


「わっ」


いきなり抱きつかれた。


「ちょ、ちょっと杏果さん」


「助かったあ……」


杏果は本気で安心している。


その様子を見ていると、今さら「やっぱりやめます」とも言いにくい。


紗栄子は、もう一度だけ撮影部屋の方を見た。


あの感じの悪い男と。


私が。


「…………」



大丈夫かな。



こうして紗栄子は、予定になかった仕事をすることになった。




*




「――ここまで」


私は読み終えて、ノートパソコンから手を離した。


隣に座っていた早川君は、すぐには何も言わなかった。


画面を見たまま、少し考えている。


「……どう?」


「うーん」


その「うーん」が怖い。


「やっぱり変?」


「変というか……」


早川君は画面を少し戻した。


「紗栄子、ここで本当に出るって言うかな」


「え?」


予想していなかったところを指摘された。


私はてっきり、文章がおかしいとか、展開が強引だとか、そういうことを言われると思っていた。


「だって、杏果さんが困ってるし」


「うん」


「それに十五万円」


「そっちが本命?」


「違うよ!」


思わず早川君を見る。


笑っている。


「もう。真面目に聞いてるのに」


「ごめん。でも、十五万円に反応してるところは紗栄子らしくて面白かった」


「でしょ?」


そこは褒められた。


「ただ……」


早川君がもう一度画面を見る。


「さっきまで絶対に嫌だって思ってたんだよね」


「うん」


「それが杏果さんに頼まれたら、やってみるってなる。そこが僕にはちょっと早く感じたかな」


言われて、読み返してみる。


杏果さんが困っている。


海は感じが悪いけれど格好いい。


十五万円。


書いたときには、それで繋がっているつもりだった。


「理由はあるよ?」


「うん。でも……」


早川君は少し考えてから、画面を戻した。


海が出てきた辺りで手を止める。


「紗栄子って、海のこと結構見てるよね」


「え?」


「最初に会ったときも、かなり細かく顔を見てるし。感じ悪いって怒ってるわりには、ずっと気にしてる」


「だって、イケメンだから」


「それ、紗栄子も同じなんじゃない?」


「…………」


私は画面を見た。


海を見つけて、つい見とれる。


素っ気なくされて腹を立てる。


杏果さんの元カレだと知って驚く。


確かに、どうでもいい男の人にしては、ずいぶん気にしている。


「じゃあ、海君が気になるから出演するってこと?」


「そこまで紗栄子自身に分からせなくてもいいんじゃないかな」


「分からないのに?」


「うん。本人は杏果さんを助けるためだと思ってる。でも本当は、海のことが少し気になってる。それも理由の一つになってる、くらいで」



私は首を傾げた。



「本人も気づいてないのに?」


「そういうことって、あるんじゃない?」


「あるのかなあ」


「たぶん」


早川君も経験があるわけではないらしい。


「だったら、海を見てるところを少し増やすとか。出演するって決める前に、もう一回だけ海を気にするとか」


「ああ……」


それなら書けそうだ。


杏果さんを助けたいのも本当。


十五万円に心が動いたのも本当。


でも、それだけではなくて、感じが悪いと思っている海のことが、なぜか気になる。


その理由を、紗栄子自身はまだ知らない。


「じゃあ、その辺を少し足してみようかな」


「うん。でも、あんまりやると『この二人、これから何かあります』って分かっちゃうから、ほんの少しでいいと思う」


「なるほど」


私はもう一度、海が登場するところまで画面を戻した。


言われてみれば、紗栄子の気持ちを説明しようとしすぎていたのかもしれない。


本人にもまだ分からないことなら、分からないまま書いてもいい。


読んでいる人の方が先に気づくことだってある。


「難しいなあ、小説って」


「今さら?」


「今さら」


私はソファの背もたれに身体を預けた。


書けば書くほど、分からないことが増えていく。


「でも、早川君は書けるんでしょ?」


「何が?」


「自分が経験したことのないこと」


「書けるとは言ってないよ」


「え?」


早川君はテーブルに置いてあった自分のノートを取った。


「僕も今、それで悩んでる」


「どんな話?」


「まだ決めきってないんだけど……不倫」


「不倫?」


思わず聞き返した。


「早川君が?」


「僕がするわけじゃないよ」


「分かってるよ」


「官能小説って何を書けばいいのか調べてたら、不倫ものが結構あってさ」


「へえ」


「それで、昔からある話にも、そういうのって多いなと思って」


早川君はそこで、いくつか作品の名前を挙げ始めた。


源氏物語。


近松門左衛門。


何とか心中。


途中から私にはよく分からなくなった。


「早川君」


「なに?」


「また難しい話になってる」


「あ、ごめん」


本人にも自覚があったらしい。


「つまり?」


「昔から、許されない恋愛って物語になってきたんだなってこと」


「なるほど」


それなら分かる。


「でも、不倫かあ……」


私は考えた。


好きになった人に、すでに好きな人がいたら。


それだけでも嫌なのに、その人が結婚していたら。


「わたしには無理だな」


「何が?」


「好きな人が結婚してたら、諦める」


「そんな簡単に?」


「だって、どうしようもないでしょ」


「好きになった後で知ったら?」


「…………」


それは困る。


「それでも諦める」


「即答じゃなくなった」


「うるさいな」


早川君が笑う。


「でも、そういうところなんだよね」


「どういうところ?」


「自分ならどうするかって考えてみても、実際その立場にならないと分からない」


「うん」


「だから僕も、どう書こうかなって」


早川君はノートを閉じた。


「それで、参考になりそうな映画を見つけたんだ」


「映画?」


「うん。不倫を扱った恋愛映画」


嫌な予感がする。


「またアダルトビデオじゃないよね?」


「違うよ」


早川君が吹き出した。


「普通の映画」


「ならいいけど」


「せっかくだし、一緒に観ない?」


「今から?」


「うん」


私は時計を見る。


まだ昼前だった。


お弁当を食べるには少し早い。


小説も、この先をどう直すか考えたくなってきた。


それなら、少しくらい休憩してもいいだろう。


「いいよ」


「じゃあ、観ようか」


早川君がテレビのリモコンを取った。





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