第17話 軍曹と曹長
吉祥寺から八王子までは、それなりに時間がかかる。
電車に揺られながら、私はスマートフォンで今日書いたところを読み返していた。
紗栄子が海を意識するところは、早川君に言われたとおり少し書き直した。
感じの悪い男だと思っている。
なのに、気がつくと目で追っている。
本人には、その理由がまだ分かっていない。
そこまで読んで、私は指を止めた。
――本人も気づいてないのに?
昼間、自分で言った言葉を思い出す。
早川君は「そういうことって、あるんじゃない?」と言っていた。
あるのかなあ。
いまだによく分からない。
でも、前より紗栄子の気持ちは自然に書けているような気がする。
早川君にも読んでもらうことになっているし、気になるところがあれば、また何か言ってくれるだろう。
そう思ったところで、車内アナウンスが八王子への到着を告げた。
私はスマートフォンを閉じる。
その直後だった。
ピコン。
メッセージの通知が入った。
画面を見る。
千佳だ。
村松千佳。
中学生のころからの友達で、今は地元の国立大学に通っている。
東京へ出てからも、ときどきメッセージを送り合っているけれど、千佳から連絡が来るときは、たいていろくな内容ではない。
嫌な予感がする。
開いた。
《やほー、カノン》
《元気でやっとるかね?》
ここまでは普通だ。
《分かっていると思うが、オトコができたら》
《報告は厳だぞ、軍曹》
やっぱり普通ではなかった。
相変わらずだ。
千佳とは以前、どちらかに彼氏ができたら必ず報告するという、どうでもいい協定を結んでいる。
なぜ私が軍曹なのかは知らない。
ちなみに千佳は曹長らしい。
どちらが偉いのかも知らない。
たぶん千佳も知らない。
私は少し考えてから返信した。
《曹長!》
《実は報告したいことがあります》
すぐに既読がついた。
早い。
《なんだとーー!!》
《まさか、オトコか》
《許さん、許さんぞ、この非国民め》
「あはは……」
思わず声が漏れて、慌てて口を押さえた。
電車の中だった。
非国民は意味が分からない。
たぶん千佳も分かっていない。
《オトコはできてないよ》
そこまで打って、少し迷った。
早川君は、もちろん彼氏ではない。
ただの互助関係。
それは間違いない。
でも――。
《ちょっと気になる人はいる》
送信。
数秒、返事が来なかった。
たぶん今ごろ、鹿児島で千佳がスマートフォンを握りしめて固まっている。
やがて、
《まあ、カノンの恋バナなんて興味ないけど》
《相談にはのるよ》
《( ・ω・)b》
絶対に嘘だ。
《もう駅だから、帰ったら電話する》
《仕方ない》
《聞いてやろう》
《早く帰れ》
興味津々じゃないか。
*
アパートに着いてバッグを置き、ネックレスを外して机の上に置いた。
少し迷ってから、傷がつかないようにハンカチを下に敷く。
早川君にもらったものだから――というより、五千円もするものを机に直置きする勇気がなかった。
うん。
そういうことにしておこう。
冷蔵庫から麦茶を出したところで、千佳に電話をかける。
秒でつながった。
『ちょっと軍曹! 気になるって何? どこまで進んでるの?』
「早いよ」
『もしかして、もうキスした?』
「してない」
『じゃあ、その先は?』
「なんでキスを飛び越えるのよ」
『分からないじゃない。東京だし』
「東京をなんだと思ってるの?」
私も東京に来て一年以上になるけれど、いまだに東京と恋愛の進行速度に因果関係があるとは聞いたことがない。
『だって、私なんか相変わらず何もないのに。まさかカノンに先を越されるなんて……』
「だから、何も始まってないって」
『気になるんでしょ?』
「……まあ」
『ほら!』
「でも、その人には好きな人がいるから」
電話の向こうが静かになった。
『……他に?』
「うん」
『好きな人が?』
「いる」
『なのにカノンと?』
「だから、別にそういう関係じゃないんだって」
説明しないと、ものすごい誤解をされそうだ。
私は官能小説のコンテストに応募していること、図書館で早川君にそれを知られたこと、彼も同じコンテストに参加することになったこと、それから互いの原稿を読み合う「互助関係」になったことを話した。
もちろん、この土日に二日続けて早川君の部屋へ行ったことも。
クッキーを持っていったことも。
お弁当を作ったことも。
ネックレスをもらったことも。
ノートを取り合って、身体がぶつかったことも。
暗い公園で、袖をつまんで歩いたことも。
話しているうちに、なぜか自分で居心地が悪くなってきた。
私、思っていたよりいろいろやってない?
『なるほど』
ようやく千佳が言った。
『状況は把握した』
嫌な言い方だ。
「どういう状況?」
『まず、カノンは五十万円欲しさに官能小説を書いている』
「そこから?」
『重要事項です』
「はい」
『その官能小説を、長身でイケメンで金持ちの男子に手伝ってもらっている』
「早川君がお金持ちなわけじゃないよ。ご両親が――」
『細かい』
「はい」
『しかも二日続けて、そのオトコの部屋へ行った』
「小説を書くためにね」
『手作りクッキーを持って』
「お礼だから」
『翌日は手作り弁当』
「ピザをご馳走になったから」
『五千円のネックレスをもらった』
「誕生日プレゼント」
『身体まで密着した』
「事故!」
『暗い公園では服をつかんで離さない』
「袖! 袖をちょっとつまんだだけ!」
『そしてカノンは、そのオトコが気になっている』
「……それは」
否定しようとして、やめた。
自分で千佳にそう送ったのだから、今さら否定できない。
『にもかかわらず、そのオトコには他に好きな女がいる』
「だから、そこを強調しないでよ」
『最重要事項でしょうが!』
千佳の声が大きくなった。
スマートフォンを耳から少し離す。
『で、カノンはどうするつもりなの?』
「どうするって?」
『そのハヤカワ君』
「何もしないよ」
私は麦茶を一口飲んだ。
「コンテストが終わるまでは今までどおり原稿を見てもらって、それが終わったら、今度はわたしが早川君の恋を応援するの」
『はあ?』
「何よ」
『なんで?』
「だって、ずっと手伝ってもらってるんだよ。わたしも何か返したいし」
『それで好きな女との仲を取り持つの?』
「そう」
しばらく沈黙したあと、
『カノン』
「なに?」
『お人好しにも限度があるぞ、軍曹』
「うるさい、曹長」
笑いながら答えたけれど、胸の奥が少しだけ痛んだ。
昼間から何度も感じている、あの引っかかりだ。
でも、仕方がない。
早川君には好きな人がいる。
そこだけは、どう考えても変わらない。
『それより私が気になるのは、早川君の方よ』
「早川君?」
『そう』
千佳の声が急に真面目になる。
私はベッドに腰を下ろした。
千佳は昔から、こういうところがある。
自分のことになると途端におかしくなるくせに、人の相談となると急に腕を組んで「私に任せなさい」みたいな態度になる。
もっとも、恋愛に関しては私と同じく未経験なので、どこまで信用していいのかは分からない。
というより、たぶん信用してはいけない。
でも、他に相談できる人もいない。
『いい、カノン』
「うん」
『オトコってオオカミなの』
「……オオカミ?」
何の話だろう。
『そう。オオカミ』
「早川君、人間だけど」
『そういう意味じゃない!』
怒られた。




