八手目で迎えた詰み盤面
あの日の放課後は、夕陽が教室の床をどんよりとした赤黒い色に染めていた。
屋上で秋葉に逃げられ、己の愚かさに打ちのめされた夏樹。
自室の布団の中で涙を流し続けていた春華。
そして、自分が放った一手の罪悪感で死人のようになっていた僕。
全員がすべてを知り、全員の恋が完全に破滅した。
本来なら、もう二度と顔を合わせることなんてできないはずだった。
気まずさと惨めさに耐えかねて、このまま友人関係は自然消滅していくはずだったのだ。
けれど、夏樹はそれを許さなかった。
「おい。全員、席につけ」
終業のチャイムが鳴り響いた後、夏樹が教室の後ろの扉を閉め、内側からカチャリと鍵をかけた。
ガラガラと音を立ててフロントの扉も締め切り、鍵をかける。
教室に残されていたのは、僕と、秋葉と、そして体調不良を押して遅れて登校してきていた春華の4人だけだった。
「夏樹……何するのよ……」
目を真っ赤に腫らした秋葉が、怯えたような声で夏樹を見つめる。
春華は俯いたまま、力なく自分のデスクの端を握りしめていた。
僕はただ、胸の奥を激しい吐き気に襲われながら、下を向くことしかできなかった。
「話し合うんだよ」
夏樹の声は低く、酷くかすれていた。だが、その瞳には逃げを許さない異様な執着が宿っていた。
「全員で、隠してたこと……全部吐き出すんだ。俺たちがした事が、どれだけバカで、どれだけ最悪だったか……全部ここでぶちまけろ」
「そんなの……もういいじゃない……っ!」
秋葉が叫んだ。
「私がバカだったの! 私が夏樹を好きなこと隠して、変に強がって、冬馬に変な期待持たせて……っ! 全部私が悪いんだから、もうほっといてよ!」
「違う!!」
夏樹が教卓を思い切り殴りつけた。
重い音が教室に響き渡る。
「悪いのは俺だ!! 春華ちゃんに振られたくせに未練タラタラで、『春華ちゃんが幸せにならないと前に進めない』なんてかっこつけて……春華ちゃんを冬馬と結ばせようと、冬馬の背中を無理やり押した俺が一番のバカだったんだよ!!」
夏樹の瞳から、ボロボロと大粒の涙が溢れ出した。
「俺が春華ちゃんに執着してなきゃ……秋葉は春華ちゃんに、苦しい思いをさせずに済んだのに……っ! 秋葉が俺を好きでいてくれたことも気づけずに、傷つけて……っ!」
「夏樹くん……」
春華が掠れた声を漏らした。
春華もまた、ボロボロと涙を流しながら静かに首を振った。
「違うよ……私のせいだよ。私が秋葉ちゃんとの約束を守りたくて、冬馬に何も言えなくて……冬馬を追いつめちゃったから……」
「……違う」
僕はついに、口を開いた。
血の味がするほど唇を噛み締めながら、二人を見上げた。
「違うんだ……一番醜いのは、僕だ……」
自分の胸の奥に溜まっていた、ドロドロとした汚い感情を、僕はすべて吐き出した。
「春華と生まれた時からずっと一緒で、特別大事だったはずなのに……近すぎることに甘えて、自分の感情から逃げてた。秋葉が見せた笑顔に浮ついて、それを『恋』だと勘違いして……春華の気持ちも、秋葉の想いも、夏樹の気持ちも全部踏みにじった……。僕が、一番最低で、一番愚かなんだよ……っ!」
静まり返った教室で、僕たちは自分の浅はかさと、相手を想うが故に裏目に出続けた「一手」の数々を、泥のように吐き出し合った。
全員が誰かを好きだった。
全員が誰かの幸せを祈っていた。
全員が「中学からの大切な4人の関係」を守りたかった。
それなのに、全員の優しさと、秘密と、思い込みが最悪の形で絡み合い——僕たちの恋は、誰一人として報われることなく、完璧に全滅したのだ。
修復不可能な、完全な「詰み盤面」。 もう誰も、誰かと付き合うことなんてできない。
誰かの恋を応援することもできない。
「……ハハ」
静寂の中、夏樹が惨めそうに笑った。
「全滅だな。俺たち……見事なくらい、全員振られて、全員惨敗だ」
「……本当ね。笑えないくらい、最悪のバカたちね……」
秋葉が涙を拭いながら、力なく苦笑いを漏らした。
春華も、僕も、涙に濡れた顔で小さく頷いた。
恋愛としては、完全に終わったのだ。ここにあるのは、恋の破片と、泥まみれになった自尊心だけだった。
「ねえ」 春華が、静かに言った。
その瞳には、切なさと、けれど確かな温もりが宿っていた。
「……恋愛はダメになっちゃったけど。全員振られて、恥ずかしいところも全部見せ合っちゃったけど……。私、みんなのことが大好きなの。中学の時からずっと一緒だった、この4人の居場所を……失いたくないよ」
その言葉に、胸がギュッと締め付けられた。
「……そうだな」
夏樹が涙を拭い、僕たちを見回した。 「恋人にはなれなかった。好きな奴の隣にも立てなかった。……でも、俺たちは『本音を晒し合った最高の友達』にはなれるだろ」
「……友達、ね」
秋葉がフンと鼻を鳴らした。
けれど、その顔にはどこか憑き物が落ちたような、清々しさがあった。
「もう二度と、カッコつけたり秘密作ったりしないでよ。変な気を遣ったら、承知しないんだから」
「……ああ」 僕も深く頷いた。
僕たちは約束した。
恋から逃げ、傷つくことから逃げ、その代わりにお互いの傷口を舐め合うような、「ぬるま湯の友達」として一緒にいることを。
ドアの鍵が開けられ、夏の終わりの涼しい風が教室に吹き込んできた。
全員が傷つき、全員が恋を失った。
詰んだままの盤面の上に、僕たちは不格好なコマのように寄り添い合って並んでいた。
それが、僕たちの高校1年生の終わりであり—— そして、このぬるま湯の箱庭をぶち壊す「外敵」が現れるまでの、儚い平穏の始まりだったのだ。




