崩壊する七手目
あの悪夢のような放課後が明け、翌朝の校舎を包んでいた空気の異様さを、僕は一生忘れることができない。
一日前までは、僕と春華の二人だけがあからさまに様子がおかしかった。
けれどこの日の朝は、違っていた。
いつもなら真っ先に教室に入って明るく振る舞う秋葉が、死人のような顔でうつむき、誰とも目を合わせようとしない。
そして春華の席は空席のまま——体調不良という名目で欠席していた。
異変を察していた夏樹の焦りは、限界に達していた。
(昨日は冬馬と春華がおかしかったのに、今日は秋葉までどうなっちまってんだ……? 一体昨日、何があったんだよ!)
事態の理由を何一つ知らない夏樹は、この異常事態を打開するため、そして親友たちの「詰みかけた状況」をどうにか修復しようと、登校してきた秋葉の腕を強引に掴んだ。
「おい、秋葉。ちょっと来い」
「ちょっと夏樹!? なによ急に、離しなさいよ!」
拒絶する秋葉を半ば引っ張るようにして、夏樹は階段を駆け上がっていった。
バンッ! とけたたましい音を立てて、屋上の重い鉄の扉が開いた。
夏の強い日差しが照りつける屋上。
フェンスに囲まれた無機質なコンクリートの上で、夏樹は秋葉の手を離すと、困惑と焦燥の混じった瞳で彼女を詰め寄った。
「秋葉、教えろよ! 昨日何があったんだ!? 春華ちゃんは休むし、冬馬はボロボロだし、お前までそんな顔して……俺に言えないことなのか!?」
夏樹は純粋だった。
中学時代に春華に撃沈して以来、春華の幸せを願っていた夏樹。
春華の恋を全力で応援し、自分がこの絆のまとめ役にならなければと必死だった。
だからこそ、理由も分からぬまま壊れていく友人達の様子に耐えきれず、事情を聞き出そうとしたのだ。
だが、その無知で真っ直ぐな問い詰めが、極限まで追い詰められていた秋葉の心を不条理に抉った。
昨日、冬馬から受けたあり得ない告白。
それを最悪のタイミングで目撃してしまった春華の絶望。
そして、自分をこんなにも追いつめている元凶である夏樹が、何も知らない顔で「理由を教えろ」と迫ってくる現実。
「……関係ないでしょ! 夏樹には関係ないじゃない!」
「関係あるだろ! 俺たち友達だろ!? 一緒に登校して、一緒にバカやってきた仲間だろ!? なんで何も教えてくれないんだよ!」
「友達」という言葉が、秋葉の中でパチンと音を立てて弾けた。
(友達……? あんたにとって私は、ただの都合のいい友達なの……?)
言うつもりなんて、絶対になかった。 夏樹がずっと春華を見つめていることを知っていたから。
夏樹に余計な気遣いや迷惑をかけたくなかったから。
春華と二人で時が来るまで言わないと決めた秘密だったはずなのに。
あまりの悔しさと、悲しさと、パニックで、秋葉の感情の堤防が決壊した。
「あんたが……あんたがずっと春華ばかり見てるからでしょ!!」
「え……?」
叫んでしまってから、秋葉はハッと息を呑んだ。
だが、一度溢れ出た泥流はもう止まらなかった。
「春華を吹っ切れてないあんたに迷惑かけたくないから……っ! 私がどれだけ我慢して、どれだけ平気なフリをしてきたか……っ! 冬馬に不格好な告白されて、春華が傷ついて……なんであんたは何も知らないで『友達』面してられるのよ!!」
「秋葉、お前……何を……」
「私が好きなのは……昔から夏樹なんだから!!!」
静寂が、屋上を支配した。
夏の風が、二人の間を吹き抜けていく。
蝉の鳴き声すら消え失せたような沈黙の中で、夏樹は打たれた地蔵のように固まっていた。
「……え……?」
秋葉は、自分の口を両手で覆った。 (言っちゃった……私、言っちゃった……)
決して口にしてはいけないはずだった本音。
言ったところで夏樹を困らせ、自分が余計に惨めになるだけの最悪の告白。 自分自身の手で取り返しのつかない破滅を引き起こしてしまったショックと激しい自己嫌悪に、秋葉の全身が震えた。
「嫌……っ、違うの……今の、違っ……!」
言い訳すら言葉にならず、秋葉は溢れ出る涙を拭いもせず、顔を覆ったまま屋上の扉を押し開けて逃げ出した。
バタン! と重い音を立てて扉が閉まり、彼女の足音が遠ざかっていく。
コンクリートの上に、夏樹は一人取り残された。
秋葉は自分にとって、雑に扱っても笑って強がってくれる「安全な友達」だった。
その秋葉が、中学時代からずっと自分を一途に想い続けてくれていたという事実。
そして、その秋葉の想いを知っていたからこそ、春華は夏樹と秋葉のために秘密を守り抜き、苦しんでいたということ。
さらに、自分が「ハッキリ告白しろ」と背中を押したことで、混乱した冬馬が秋葉に告白するという最悪の一手を引き起こし、全員を惨劇に巻き込んだのだということ。
「……あ……あ……っ」
すべての繋がりに気づいた瞬間、夏樹の膝からスーッと力が抜けた。
ドサリ、とコンクリートの床に両膝をつく。
自分が良かれと思って指した手が、自分を想ってくれていた秋葉を傷つけ、冬馬を暴走させ、春華の心を打ち砕いた。
春華の幸せを祈ることで自分を守っていた己の身勝手さと、秋葉の痛みに気づけなかった愚かさ。
「俺が……全部……壊した……」
絶望に染まった夏樹の瞳から、ボロボロと涙がこぼれ落ちた。
全員が相手の幸せを願っていた。
全員が大切な親友を守ろうとしていた。
それなのに、僕たちが積み上げてきた中学からの美しい絆は、誰一人救われることのない、完璧な「詰み盤面」となって崩壊したのだ。




