破滅への六手目
あの夏の湿った朝、校庭の土が放つ匂いと、蝉の鳴き声が耳の奥でうるさく響いていたことをよく覚えている。
前日の夕方、校舎裏で春華の傷ついた顔を振り切り、冷たく拒絶してしまった罪悪感。
自分の醜いコンプレックスをぶつけてしまった後悔で、僕は一晩中眠れなかった。
だが、その愚かな混乱の最中にいた僕に、最悪の方向から「追い風」が吹いてしまう。
「おい冬馬、ちょっと来い」
朝のホームルーム前。
夏樹に強引に屋上への階段の踊り場へと連れ出された。
夏樹の表情は真剣そのもので、その瞳には親友であるぼくへの強い意志が宿っていた。
「お前さ、春華ちゃんと何かあったろ。昨日、春華ちゃんがすげー落ち込んでたぞ」
「……っ、別に」
「誤魔化すなよ。お前ら幼馴染で、昔からお互い特別な存在なんだろ? 中学の時、俺が春華ちゃんに告白して振られた時だってな、春華ちゃんの目にはお前しか映ってねえんだなって痛感したんだよ」
夏樹の言葉が、ぼくの胸を抉る。
夏樹は信じ込んでいたのだ。
「春華は冬馬が好きで、冬馬も春華が好きに決まっている」と。
そして、夏樹は過去に春華に振られたが、未だに春華の事を思っている。
春華が冬馬と結ばれて幸せにならない限り、夏樹はいつまでも前に進めないという自縛の思いを抱えていた。
だからこそ、夏樹は僕の背中を強く叩いた。
「冬馬、男ならハッキリ告白して決めろよ! いつまでもぬるぬるした関係で春華ちゃんを不安にさせるな。お前がハッキリさせなきゃ、誰も前に進めねえんだよ!」
「……告白して、ハッキリさせる……」
夏樹にとっては「春華に告白しろ」という意味の熱い後押しだった。
だが、前日に春華と激突し、自分の執着を「秋葉への恋」だと錯覚して頭が重篤なパニックに陥っていた僕は、この夏樹の言葉を最悪の形で脳内変換してしまった。
(夏樹も……ぼくが『好きな人』にハッキリ気持ちを伝えるべきだって言ってるんだ。いつまでも誤魔化さず、秋葉に告白して……この曖昧な状態を終わらせろって)
親友の熱い後押しが、ぼくの中で「秋葉への告白の許可」へとすり替わった瞬間だった。
同じ頃、女子トイレの洗面所で、春華は蛇口から出る水で何度も顔を洗っていた。
前夜、冬馬に拒絶されたショックで泣き明かし、目は真っ赤に腫れ上がっていた。
「……春華? やっぱり体調悪いんじゃない」
そこへ心配した秋葉が入ってきた。
ぐちゃぐちゃになった春華の表情を見て、秋葉は胸を痛めながら寄り添う。
「冬馬と……何かあったの?」
「……ううん。ううん、何でもないの……」
春華の心は完全に限界を迎えていた。 冬馬が秋葉に惹かれている焦りと切なさ。
けれど「秋葉ちゃんが好きなのは夏樹だから」という秘密と約束を守らなければいけない葛藤。
冬馬に「ワガママだ」と突き放された悲しみ。
すべてが絡まり合い、春華の思考は真っ白に麻痺していた。
そんな春華の手を、秋葉は温かく優しく包み込んだ。
「春華。私には詳しいことは分からないけど……冬馬とちゃんと話し合った方がいいよ」
秋葉の真っ直ぐな瞳が春華を見つめる。
「冬馬にとって、春華は生まれた時から一番特別な存在なんだから。逃げないで、ちゃんと自分の気持ちを伝えなよ。春華が本音を言えば、冬馬なら絶対に分かってくれるから」
秋葉にとっても、春華は大切な親友だった。
秋葉の夏樹への恋心を守るために、春華がどれほどの秘密を抱え込み、一人で苦しんでいるのかも知らずに……秋葉は最高の善意と優しさで、「冬馬と向き合いなさい」とアドバイスを送ったのだ。
その言葉に、春華は微かに頷くことしかできなかった。
全員の「優しさ」と「思い込み」が、逃げ場のない惨劇への一本道を綺麗に舗装していく。
そして、運命の放課後が訪れた。
ぼくは意を決して、図書室で一人委員の仕事をしていた秋葉のもとへ向かった。
夏樹の後押しを胸に抱き、この迷いを断ち切るために。
「秋葉、ちょっといいかな」
「ん? 冬馬? どうしたの、そんな真面目な顔して——」
「ぼく……秋葉のことが好きなんだ。付き合ってほしい」
静まり返った図書室に、ぼくの喉から絞り出された声が響いた。
秋葉の顔からすっと血の気が引き、手にしていたファイルがバサリと床に落ちた。
「……え? は……? なに、言ってるの……?」
絶句する秋葉。
その時、その背後の扉が、ガタリと音を立てて開いた。
そこに立っていたのは、秋葉のアドバイスを受け、「今日こそ冬馬に本音を話そう」と勇気を振り絞って探しに来た春華だった。
春華の目が、ぼくと秋葉をとらえた。
ぼくが秋葉に告白している現場を、最悪のタイミングで目撃してしまったのだ。
「あ……」
春華の口から、掠れた声が漏れた。
その顔は絶望に染まり、春華は弾かれたように踵を返して廊下を走り去った。
「春華……っ! 待って!」
パニックに陥った秋葉がぼくを突き飛ばし、猛スピードで春華の後を追って走り出した。
ぼくは取り残され、ただ茫然と立ち尽くしていた。
自分が指した一手の重さに、まだ気づかないまま。
廊下を駆け抜け、校舎の裏手まで逃げてきた春華は、崩れ落ちるように膝をついて泣き叫んでいた。
「春華! 待って、違うの! 私、冬馬からの告白なんて受け入れてない! 冗談じゃないわよ!」
追いついた秋葉が、泣きじゃくる春華の肩を抱きしめた。
春華は首を激しく振りながら、途切れ途切れに声を漏らす。
「ううん……いいの……冬馬は秋葉ちゃんが好きなの……私じゃダメだったの……っ」
「ダメなわけないでしょ! 勘違いしないでよ春華!」
秋葉は必死だった。
自分の大切な親友がこんなにも傷つき、自分自身もパニックになりながら、春華を救いたい一心で叫んだ。
「私が好きなのは冬馬じゃない! 私が昔から好きなのは……夏樹なんだから!!春華も知ってるでしょ!」
——ガサリ。
植え込みの陰で、春華を追ってきたぼくの足が凍りついた。
物陰から、そのやり取りを聞いてしまったのだ。
「私が好きなのは、昔から夏樹なの……! だから冬馬のことなんて好きになるわけないでしょ! 春華、お願いだから泣かないで……っ!」
秋葉の必死な叫びが、夕暮れの校舎裏にこだました。
その瞬間、ぼくの頭の中で、バラバラだったすべてのピースが残酷なまでの精度で噛み合わさった。
秋葉が夏樹を一途に想っていたこと。 春華がなぜ理由を言えず、「秋葉を好きにならないで」と泣いてぼくを止めたのか。
夏樹がなぜ「告白しろ」とぼくの背中を押したのか。
そして、ぼくが秋葉に見せていた醜い独占欲が、どれほど愚かで、見当違いで、全員の心をズタズタに引き裂く最低の一手だったのかを。
「……あ……」
ぼくは自分の手を見つめた。
血の気が引き、激しい吐き気が襲ってくる。
春華の優しさを踏みにじり、秋葉の想いを踏みにじり、夏樹の祈りを踏みにじり……ぼくは自分の浅はかな勘違いで、全員が必死に守ろうとしていた場所を、自分自身の手で完璧に粉砕してしまったのだ。
あまりの衝撃にぼくは、自分が秋葉に振られた事にショックを受けているのか、春華の泣き顔にショックを受けているのかもわかっていなかった。
歪んだ夕日が、ぼくたちの破滅を嘲笑うかのように赤く照らしていた。




