戻れない五手目
降り続いた雨が上がり、放課後の中庭には重たく湿った空気が淀んでいた。
あの夕暮れ、校舎裏の古びた木造ベンチ。
あそこに置き去りにした春華の泣き顔と、自分の幼さと醜さに打ちのめされた感触は、どれだけ時が流れても僕の胸から消えてはくれない。
僕は察していた。逃げ続けていた。
けれど、もう誤魔化しは効かないところまで追いつめられていたのだ。
「冬馬、ちょっと話せる?」
終業のチャイムが鳴り響いた直後、春華がぼくの机の横に立っていた。
いつもなら「一緒に帰ろう」と柔らかく微笑むはずの彼女の顔には笑顔がなく、ただ静かに、まっすぐな瞳でぼくを見つめていた。
その瞳の奥にある強い決意に、ぼくの背筋が冷たく凍りつく。
「あ、ああ……うん。いいよ」
ぼくは二人で校舎裏へと向かった。
放課後の校舎裏は人影もなく、湿った土と草の匂いが立ち込めている。
夕日が校舎の影を長く引き延ばし、ぼくたちの足元を暗く呑み込んでいた。
春華は背中を向けたまま、しばらく静寂の中に立っていた。
そして、ゆっくりと振り返ると、一切の迷いがない声で言葉を紡ぎ出した。
「冬馬。……秋葉ちゃんのこと、好きなの?」
ドクン、と胸が跳ね上がった。
ダイレクトに心臓を抉られたような衝撃に、言葉が喉に詰まる。
「何を言ってるんだよ」と笑い飛ばすことも、「幼馴染の君が一番大事だ」と誤魔化すこともできなかった。
春華の瞳があまりにも透き通っていて、ぼくの汚い嘘をすべて見透かしていたからだ。
「……っ、何言って……っ、そんなわけないだろ。秋葉はただの委員の相方で、友人で……」
「嘘つかないで」
春華の声が、低く、切なく震えた。
「分かるよ。生まれた時からずっと隣にいたんだよ? 冬馬が誰を見てるか、どんな顔で誰のことを考えてるかくらい、私が分からないとでも思ってるの?」
春華の言葉は、ぼくの逃げ道を完璧に塞いだ。
買い出しの文具店で見せたぼくの熱い視線も、勉強会で夏樹から秋葉を奪うように割り込んだぼくの不格好な独占欲も。
すべて春華には届いていて、彼女の心を一歩ずつ殺していたのだ。
自分自身でさえ「近すぎる幼馴染への甘え」なのか「秋葉への恋」なのか整理できていない混乱を、春華に鋭く突きつけられ、ぼくは激しい自己嫌悪と無力感に苛まれた。
「……じゃあ、なんなんだよ」
ぼくの声は、自分でも驚くほど冷たく、刺々しくなってしまっていた。
己の情けなさを隠すための、最悪の防衛本能だった。
「春華こそ、なんなんだよ? なんでそんなこと聞いてくるんだよ。ぼくが誰をどう思おうと……関係ないだろ!」
「関係あるよ!」
春華が叫んだ。
あの大人しくて優しい春華が、声を荒らげてぼくを睨みつけていた。
その瞳には、今にも零れ落ちそうな大粒の涙が溜まっている。
「お願いだから、冬馬……秋葉ちゃんを好きになるのだけは、やめて。お願い……それだけは絶対にダメなの……っ!」
春華の必死の制止。
だが、その言葉は当時の僕の幼いコンプレックスとプライドを最悪の形で刺激した。
(なんでダメなんだ? なんで春華にぼくの感情まで制限されなきゃいけないんだ?)
春華は知っていたのだ。
秋葉が昔から一途に夏樹を好きだということ。
そして、「夏樹が春華への未練を吹っ切るまでは絶対に自分の気持ちを明かさない」という秋葉の切ない決意と、それを秘密にするという二人の固い約束を。
もし僕が秋葉に告白なんてすれば、秋葉の想いも、夏樹の気持ちも、そして春華自身の居場所も……4人の関係すべてが地獄のような大破局を迎えることを、春華は知っていた。
けれど、秋葉との約束がある春華は、その理由を僕に明かすことができない。
「なぜダメなのか」を言えないまま、ただ「やめて」と僕を止めることしかできなかったのだ。
その理由のなさが、愚かなぼくには「幼馴染としての身勝手な独占欲や嫉妬」にしか見えなかった。
「……何なんだよそれ」
ぼくは冷ややかに笑い、春華から視線を逸らした。
「理由も言わないで、ただ『やめろ』って……春華のワガママだろそれ。ぼくが誰を好きになろうと、ぼくの勝手だ。春華に指図される覚えはないよ」
「冬馬、ちがっ……ちがうの! 私は、冬馬に傷ついてほしくないから……みんなを壊したくないから……!」
必死にぼくの袖を掴もうとする春華の手を、ぼくは冷たく振り払ってしまった。
「もういいよ。……先に帰る」
「冬馬! 待って、冬馬——っ!」
背中で泣き叫ぶ春華の声を無視して、ぼくは早足で校舎裏を去った。
振った袖に残る春華の手の温もりと、去り際に一瞬だけ見えた彼女の破滅的な泣き顔が、脳裏から離れない。
校舎の影を抜けた瞬間、ぐしゃりと顔を歪めて崩れ落ちる春華の泣き声が、風に乗って微かに聞こえた気がした。
理由を言えない優しさで僕を止めようとした春華。
自分の未熟さとプライドを守るために、その優しさを「身勝手」だと突き放した僕。
僕たちは二人とも、好きな人を大切に思えば思うほど、最悪の泥沼へと沈んでいっていた。
盤面の上に並べられたコマは、もう二度と引き返せない一手を指そうとしていた。




