気付かれる四手目
梅雨の湿気が校舎を重く包み込む六月末。
あじさいの花が濡れる通学路を歩きながら、僕は自分の臆病さとずるさに、ただただ押し潰されそうになっていた。
「春華の元気がない原因は、ぼくにある」
それくらい、言われるまでもなく分かっていた。
生まれた時からずっと隣にいて、彼女の微かな表情の変化を見逃したことなんて一度もなかったのだから。
けれど、分かっていたからこそ——僕は何も言えなかった。
自分の心が引き起こした混乱を直視するのが怖くて、僕はただ「良い幼馴染」の仮面を被り続けていたのだ。
「はぁ……マジで助かった。サンキュな、冬馬、秋葉」
テスト返却日の放課後。
案の定、数学で赤点を叩き出した夏樹は、教卓の前で肩を落としていた。
クラス委員のぼくと秋葉は、赤点補習のプリント配りや教室の施錠のために、放課後居残りを強制されていた。
「まったく……だから勉強会で教えたところは叩き込めって言ったでしょ、バカ夏樹」
秋葉は呆れたように毒を吐きながらも、夏樹の机の端に自分がまとめた対策ノートをポンと置いた。
「ほら、これ見て復習しなさい。次の再テスト落ちたら部活停止だからね」
「うぐっ……頭が上がりません、秋葉様……」
頭を抱える夏樹と、フンと鼻を鳴らす秋葉。
そのいつものやり取りを見つめながら、ぼくの心はどこか遠くにあった。
窓の外、校門の楠の木の下にぽつんと立つ、小さな人影に意識が固まっていたからだ。
傘もささず、一人でぼくを待っている春華。
ここ数日、春華はあきらかに元気がなかった。
笑顔はどこかぎこちなく、ぼくと目が合うと、弾かれたように視線を泳がせる。
(原因は……ぼくだ)
察していなかったわけがない。
あの日、買い出しの文具店でぼくが秋葉を追っていた視線。
勉強会で秋葉と夏樹の間に強引に割り込んだぼくの不自然な執着。
春華はそれらを完璧に感じ取り、傷ついていたのだ。
ぼくが近すぎる距離ゆえに恋愛感情かどうかも分からぬまま、秋葉という「刺激」に心を揺らし、幼馴染である彼女を置き去りにしたから。
謝らなきゃいけない。
ちゃんと春華と向き合って、自分の混乱を話さなきゃいけない。
そう分かっていながら、ぼくは踏み出せなかった。
もし「秋葉のことが気になっているかもしれない」と認めてしまえば、春華との「生まれた時からの幼馴染」という特別な関係が壊れてしまう気がした。
そして何より、自分自身のドロドロとした身勝手さを春華に見せるのが怖かった。
「……ねえ、冬馬」
教卓のプリントを整理していた秋葉が、ふと手を止めてぼくを睨みつけるように見つめていた。
その隣で、夏樹も珍しく真剣な、少し責めるような鋭い瞳をぼくに向けている。
「な、なんだよ二人とも……」
「なんだよ、じゃないわよ」
秋葉が手に持った出席簿を机にパンと叩きつけた。
「春華のこと。……あんた、最近春華の顔見た? すっごく顔色悪いし、元気がなさそうじゃない」
「そうだよ冬馬。お前、春華ちゃんになんかしたのか? 幼馴染のお前が一番近くにいるんだから、気づいてんだろ」
夏樹の言葉が、胸に突き刺さった。
夏樹は、春華の幸せを誰よりも願っており、「春華が幸せにならない限り自分は前に進めない」という自縛のような思いを抱えている。
夏樹にとって、春華を曇らせる僕の態度は許しがたいものだったのだ。
そして秋葉もまた、「恋心を隠して夏樹を想い続けている」という複雑な痛みを抱えながら、大好きな親友である春華の笑顔が消えていることに心を痛めていた。
二人の追求は、正論そのものだった。 「春華を不安にさせないで」
「あんな良い子、お前がちゃんと幸せにしてやらなきゃダメだろ!」
だが、その熱い言葉が、当時の僕にはあまりにも惨烈な刃となって突き刺さった。
(二人は何も知らないんだ……)
ぼくが秋葉に心を揺らしていることも。
ぼくが春華を傷つけている原因そのものであることも。
そして、僕は知らなかった。
秋葉が夏樹を好きなことも、夏樹が春華の幸せを祈って僕の背中を押していることも
……全員が何も知らないまま、ぼくを「春華を幸せにすべき絶対の存在」として責め立ててくる。
「……別に、なんでもないよ」
ぼくはうつむき、二人の視線から逃げるように答えた。
「ただのテスト疲れじゃないかな。春華なら大丈夫だよ。ぼくが……ぼくが一番よく分かってるから」
嘘だった。
一番分かっていないのはぼくだった。
本当の理由を言えば、この4人の友人関係という居場所が今すぐ崩壊してしまう。
その恐怖から、ぼくは二人に対しても、そして自分自身に対しても嘘をつき、誤魔化すことしかできなかった。
「冬馬……あんたさ……」
秋葉がどこか呆れたような、切ないような溜め息をついた。
窓の外では、雨がしとしとと降り始めていた。
自分の不誠実さに吐き気がしながらも、ぼくは二人に背を向け、逃げるように教室を出た。
校門の下で、雨音を聞きながらじっとぼくを待ち続ける春華のもとへ。
自分が彼女を壊している張本人だと知りながら、優しい幼馴染の顔をして傘を差し出すために。
破滅への足音は、雨音に混じってすぐそこまで迫っていた。




