盤面の外からの九手目
新学期の匂いは、どこか去年と似ていて、けれど決定的に違っていた。
2年1組の教室。
窓際の席から見える校庭の桜はすっかり葉桜へと姿を変え、初夏の兆しを孕んだ風が薄いカーテンを揺らしている。
「冬馬、なにぼーっとしてるの? ほら、昼休み終わっちゃうよ」
目の前で、春華がクスクスと楽しそうに笑った。
その笑顔には、去年まで冬馬を惑わせ続けていたあのどこか悲しげな陰りや、壊れものを扱うような痛々しい遠慮は一切なかった。
「……あ、いや。なんか、平和だなと思ってさ」
「なぁにそれ。平和なのは良いことでしょ」
隣の席の夏樹が「ほんとそれな〜」と大きく背伸びをし、その向かいで秋葉が「夏樹、机に肘つかない。行儀悪い」とノートの角で夏樹の腕を叩く。
「痛っ! 秋葉お前容赦ねえな!」と騒ぐ二人を見て、春華がまた嬉しそうに目を細めた。
あの最悪で、惨めで、全員が傷ついた放課後から季節は巡り冬馬たちは進級していた。
冬馬たちはあの時、本音を泥のように吐き出し合った末に『詰んだままの最高の友達』という異質な関係を選び取った。
冬馬は勘違いの末に秋葉に玉砕し、間接的に長年冬馬を想っていた春華を盛大に振る形になった。
秋葉は夏樹への叶わない恋を暴露し、夏樹は自分が引き起こした惨状と、秋葉からの不意打ちの想いに打ちのめされた。
恋としては全員が完全に敗北し、盤面は美しくも残酷に「詰んで」いた。
だけど、恋愛という枠組みを丸ごと投げ捨て、「もう隠すプライドもない友達」として居直った今の関係は、驚くほど居心地が良かった。
(このままでいい。恋なんてややこしいものに踏み出さなくても、僕たちはこうしてずっと一緒にいられるんだから)
冬馬の胸を満たしていたのは、器用貧乏で自分に自信のない男がようやく手に入れた、安寧という名の諦念だった。
だが、この4人の中で一番「身動きが取れなくなっていた」のは、夏樹だったのかもしれない。
(俺が余計な背中押しさえしなきゃ、あんなことにはならなかった……。俺は春華ちゃんを傷つけたし、秋葉の気持ちも知っちまった。俺が下手に誰かを選んだり、踏み込んだりしたら、今度こそこの4人の居場所が完全に崩壊する……)
夏樹は、全員への申し訳なさと気遣いの板挟みになっていた。
中学で春華に振られ、秋葉から想われていることを知り、冬馬と春華のすれ違いの引き金を引いてしまった罪悪感。
全員の幸せとこの平穏な関係を壊さないために、夏樹は己の感情を殺し、道化のように笑うことで自らの恋愛を完全に「封印」していた。
そんな冬馬たちの「閉じられた小さな世界」は、放課後の生徒会室で静かに揺らぐことになる。
「北川先輩! 今年度の委員会の年間計画書、これで提出しても大丈夫でしょうか?」
目の前に差し出された書類。
それを差し出してきた後輩——1年生の中野真央は、真新しい制服の胸元をピンと伸ばし、真っ直ぐな瞳で冬馬を見つめていた。
今年度もクラス委員を引き受けた冬馬の前に現れた、1年の学年委員だ。
「ん、どれどれ……うん、完璧だな。助かるよ、中野さん」
冬馬が口元を緩めると、真央の頬がわかりやすくポッと朱に染まった。
「先輩みたいに何でも器用にこなせて、親切に教えてくれる人が同じ委員会で本当に嬉しいです! 私……先輩のこと、すごく格好いいと思ってます!」
隠すこともなく、裏もなく、超・直球の尊敬と好意。
(ダメだ……僕は、こういう『自分を必要としてくれる相手』に甘えると、勘違いしそうになる……)
冬馬が慌てて「いやいや僕なんて」と後ずさった、その時だった。
「……ちょっと冬馬。プリントの集計終わったんだけど……何やってんの?」
ガラリとドアが開き、書類の山を抱えた秋葉が立っていた。
今年も冬馬と一緒にクラス委員をやっているのである。
秋葉は、真央が冬馬に熱い視線を送り、冬馬がわかりやすく狼狽している現場を、バッチリと目撃していた。
「あ、秋葉!? いや、これは委員会の引継ぎで——」
「ふーん。後輩ちゃんに鼻の下伸ばして頼られてたわけね」
秋葉は冷ややかな、けれどどこか呆れたような目を向けてきた。
秋葉にとって冬馬は「春華を振って、自分に勘違い告白をしてきた、恋愛観が色々とポンコツな奴」だ。
その秋葉のジト目と、真央の「この人誰ですか?」と言いたげな警戒心の強い視線が交錯し、生徒会室にめちゃくちゃ気まずい空気が流れる。
「あ、あの! 私は北川先輩に仕事の相談をしていただけで……っ!」
「はいはい、別に責めてないわよ。冬馬、春華たち下で待ってるから早くしなさいよね」
秋葉はフンと鼻を鳴らし、真央をチラリと見てから先に部屋を出て行った。
その背中を追いかけながら、冬馬は冷や汗が止まらなかった。
委員会を終え、冬馬、春華、秋葉、夏樹の4人は揃って校門を出て通学路を歩いていた。
「もう、冬馬遅い〜。秋葉ちゃんから聞いたよ? 可愛い後輩ちゃんに迫られてデレデレしてたんでしょ〜」
「デレデレしてねえよ! 春華まで秋葉の嘘を信じるな!」
いつもの和気藹々とした軽口。
春華は「振られた側」なのに、吹っ切れたような明るい笑顔で冬馬をからかっている。
この居心地の良さこそが、冬馬たちの誇る絆だ。
——だが、その平穏は、校門を出てすぐの場所で唐突に粉砕された。
「——東山さん、だよね?」
呼びかけてきたのは、見覚えのない他校の制服を着た男子生徒だった。
背が高く、整った顔立ち。
洗練された立ち姿と、春風のように爽やかな笑み。
盤面の外の駒が、4人で歩く冬馬たちの目の前に颯爽と立ちふさがったのだ。
「え……? あの、どちら様ですか……?」
戸惑う春華に対し、彼は嫌味の欠片もない洗練された所作で小さく頭を下げた。
「突然ごめんね。僕は隣の高校の2年で、巡四季っていうんだ。先週、街で君を見かけてから……どうしても話してみたくて、ずっと探していたんだ」
4人が固まった。
夏樹が「は?」と声を漏らし、秋葉が目を見開く。
四季は周りの冬馬たち3人など目に入っていないかのように、春華の目だけを真っ直ぐに見つめて、堂々と告げた。
「君のことが知りたくて追いかけてきた。……僕と、付き合う前提でお友達から始めてくれませんか?」
夕暮れの通学路に、静寂が落ちた。
他校のイケメンハイスペック男子からの、あまりにもストレートで、逃げ場のないアプローチ。
「あ……えっと……私……」
春華の顔がみるみる赤くなり、動揺で声が震える。
春華は冬馬に振られた身だ。
冬馬とは「ただの幼馴染」になったんだから、もう冬馬を好きでいてはいけない、前を向かなきゃいけない……そう自分に言い聞かせ続けてきた春華にとって、この差し出された手は、あまりにも重く、そして魅惑的な「逃げ道」に見えてしまった。
そして冬馬は——。
春華の隣で、四季からの告白に真っ赤になって動揺する春華の横顔を見つめながら、胸の奥が冷たく凍りつくような、猛烈な「不快感」を覚えていた。
(なんなんだよ、こいつ……いきなり現れて、春華に何言ってんだ……?)
冬馬は春華を振った。
春華とは「ただの幼馴染」になった。
だから、春華が誰に告白されようと、誰と付き合おうと、冬馬に文句を言う権利なんて万に一つもないはずだった。
それなのに。
冬馬の胸の中でぐちゃぐちゃに渦巻き始めたのは、自分でも呆れるほど身勝手で、醜い「独占欲」だった。
外敵・四季の突然の侵入により、傷つかないために4人で作り上げたぬるま湯の「詰み盤面」は、一瞬にして音を立てて狂い始めたのだった。




