侵攻の十手目
「なあ、秋葉。本当にこの量、二人だけで終わるのか?」
放課後、夕陽が斜めに差し込む2年1組の教室で、冬馬は印刷されたプリントの山を前に溜息をついた。
「文句言わないの。今年度の授業計画の配布準備なんだから、委員の私たちがやるしかないでしょ」
秋葉は手際よく書類を揃えながら、呆れたように返していた。
去年と同じように、今年もクラス委員を引き受けた冬馬と秋葉。
ただ、去年と違うのは、互いに「失恋の醜態」を晒し合った後だからこそ、無駄な気遣いも遠慮もない、どこかサバサバとした空気が流れていることだった。
冬馬は心の中で、自分に言い聞かせるように呟いていた。
(これでいいんだ。秋葉への勘違いは終わった。僕たちはただの友達で、クラス委員の相棒だ)
だけど、胸の奥にくすぶる妙なざわめきだけは、消えてくれなかった。
昨日の下校途中、春華の前に突然現れた他校のハイスペック男——巡四季。
彼の眩しいほどの直球アプローチと、それに動揺していた春華の顔が、何度も脳裏をよぎって消えてくれない。
(春華が誰と付き合おうと、僕が振る形になっちゃったんだから、僕に口出しする権利なんてないのに)
自分の身勝手な嫉妬心を下手な理屈で押し殺そうと、冬馬は黙々と手を動かし続けた。
同じ頃、校門を出た通学路では、春華と夏樹の二人が並んで歩いていた。
冬馬と秋葉が委員会の仕事で残ったため、二人きりでの下校となったのだった。
「……なんかさ、静かだな」
夏樹が気まずさを紛らわすように、頭の後ろで手を組んで笑った。
夏樹の胸の中は、ぐちゃぐちゃな葛藤で溢れていた。
中学時代に春華に振られ、秋葉から想われていることを知り、自分の余計な後押しで全員の関係を狂わせてしまった罪悪感。
全員の幸せを願うあまり、夏樹は自分の恋愛感情を完全に押し殺し、誰に対しても踏み込まず、ただの「明るいムードメーカー」を演じ続けていた。
(俺が余計なこと言わなきゃ、冬馬と春華ちゃんは付き合えてたかもしれないのに……。俺はもう、誰の恋にも口を挟んじゃダメなんだ)
そんな夏樹の隣で、春華もまた、自分の足元をじっと見つめながら歩いていた。
(私は冬馬に振られたんだ。冬馬とは『ただの幼馴染』になったんだから、いつまでも失恋を引きずって冬馬を困らせちゃダメ……前を向かなきゃ……)
自分に言い聞かせる春華の前に、その男はまるで狙いすましたかのように現れた。
「——やあ、東山さん。今日も可愛いね」
爽やかな声とともに立ちふさがったのは、巡四季だった。
「四季……くん!?」
春華が驚いて足を止める。
隣の夏樹も反射的に一歩前に出て、眉をひそめた。
四季は夏樹の警戒心など気にも留めない様子で、洗練された笑みを春華に向けた。
「昨日の今日でごめんね。でも、どうしても君の答えが気になってさ。……単刀直入に聞いてもいいかな?」
四季は少しだけ首をかしげ、真っ直ぐに春華の瞳を覗き込んだ。
「東山さんには今、お付き合いしている人はいるの?」
「え……っ」
春華の息が止まった。
頭の中に、瞬時に冬馬の顔が浮かぶ。
生まれた時からずっと隣にいて、誰よりも好きで、けれど去年、自分の想いは届かずに散った。
自分たちは今、「ただの幼馴染」だ。
(付き合ってる人なんて……いるわけない。私は、振られたんだから……)
春華は胸の奥をギュッと締め付けられながら、小さく首を振った。
「……いません。私には……付き合ってる人は、いません」
「そっか」
その答えを聞いた瞬間、四季の唇の端が、すっと上がった。
それは安堵の笑みであると同時に、あまりにも明確な「勝ち誇った顔」だった。
四季の視線が、春華の隣に立つ夏樹へと向けられる。
『君たちの中に、彼女の特別な男はいないんだね』と言わんばかりの、余裕に満ちた絶対的な優越感。
四季は春華の心に「忘れられない誰か」がいることすら察した上で、それでも自分が奪い取れるという自信に満ちあふれていた。
(なんだ……こいつ……!)
夏樹の胸の奥で、カッと熱い怒りが跳ね上がった。
親友である冬馬と春華の絆を、そして自分たちが傷つきながら守ってきたこの関係を、外からやってきた男が上から目線で見下してくるようなその態度。
言い返したかった。
「俺たちの春華ちゃんに気安く触るな」と叫びたかった。
だが——夏樹の足は動かなかった。
(ダメだ……俺には、何も言う権利なんてない……)
自分が春華を諦めた立場であり、冬馬と春華の恋をぶち壊した元凶であるという強い罪悪感が、夏樹の口を固く閉ざさせた。
ここで俺がでしゃばれば、また盤面が狂う。
夏樹は拳をぎゅっと握りしめ、悔しさに歯を食いしばりながら、ただ黙って四季を睨みつけることしかできなかった。
「教えてくれてありがとう、東山さん。じゃあ、僕にもチャンスはあるね」
四季は満足げに微笑むと、「またね」と優しく手を振って去っていった。
残された春華と夏樹の間に、重く苦しい沈黙が流れた。
一方、放課後の教室では、委員会の雑務を終えた冬馬と秋葉がカバンをまとめていた。
「ふぅ……これで今日の分は終わりね。冬馬、下まで——」
ガラッ!
教室のドアが激しい音を立てて開いた。
立っていたのは、肩を上下させて息を荒らげている1年生の中野真央だった。
「北川先輩……っ!」
「中野さん!? どうしたのそんなに息切らして——」
真央は冬馬の問いかけを無視し、大股で教室に入ってくると、冬馬の隣にいた秋葉の前に仁王立ちした。
その瞳には、強い敵意と焦燥感がみなぎっていた。
「西沢先輩! ぶっちゃけ伺います!」
「は? なによ急に」
秋葉が不機嫌そうに眉をひそめる。
真央は胸を張り、教室中に響くような声で言い放った。
「先輩と北川先輩って……付き合ってるんですか!?」
「……はぁ!?」
秋葉の口から、素頓狂な声が出た。
冬馬も「な、なに言ってるんだ中野さん!?」と慌てて手を振る。
真央は昨日、生徒会室で秋葉に見せられた冷ややかな視線と、二人の妙に距離の近い雰囲気が忘れられなかったのだ。
真面目で素直すぎる真央にとって、「大好きな冬馬先輩の隣にいる、謎の美人先輩」は脅威でしかなかった。
秋葉は頭を抱え、心底呆れたように大きな溜息をついた。
「あのね、中野さん。私と冬馬が付き合ってるわけないでしょ。こいつはただの委員会の相棒。……もっと言えば、色々あってお互い盛大に自爆した、ただの『友達』よ」
「……本当ですかぁ?」
真央が疑わしげに秋葉の顔を覗き込む。
「本当よ! 私にだって別に好きな人がいるんだから、冬馬なんて恋愛対象として見たこともないわよ!」
「ちょっと秋葉、言い方……」と冬馬が苦笑いするのを余所に、秋葉の言葉に嘘偽りがないことを察した真央の表情が、一瞬でパッと華やかに輝いた。
「……良かったぁ! じゃあ、勘違いだったんですね!」
真央は胸を撫でおろすと、くるりと秋葉に背を向け、冬馬の方を真っ直ぐに見つめた。
そして、秋葉に向かってフンと胸を張ると、とんでもない一言を言い放った。
「付き合ってないなら良かったです! 西沢先輩、じゃあ私と北川先輩の邪魔をしないでくださいね!」
「……はあ!?」
秋葉が今度こそ本気で目を見開いた。
「私、北川先輩のことが大好きなんです! 先輩たちがどんな友人関係か知りませんけど、私は本気でアタックしますから!」
真央は宣言するように冬馬の腕をキュッと抱きかかえると、「先輩、明日も委員会頑張りましょうね!」と満面の笑顔を向け、満足そうに教室を走り去っていった。
静まり返る教室。
腕に残る感触に顔を赤くして固まる冬馬と、去っていった真央の背中を、般若のような顔で見送る秋葉。
「……なによあの子。生意気……」
秋葉が低く呟いた。
秋葉の中にあったのは、真央に対するイラつきと同時に、強い「危機感」だった。
冬馬たち4人は、お互いを思いやり、傷つかないために「詰んだままの友達」というぬるま湯の平穏を作り上げた。
だが——その外側から、そんな繊細な気遣いなど一切知ったことではないと言わんばかりに、巡四季と中野真央という「真っ直ぐすぎる外敵」が、容赦なく冬馬たちの箱庭を壊しにきていた。
「冬馬」
秋葉が、冷たい声で俺を見た。
「あんた……あんな子に押し切られて、日和ったりしないでよ」
「ひ、日和るって……僕は別に……」
冬馬の歯切れの悪い返事に、秋葉はフンと鼻を鳴らして教室内を歩き出した。
春華には他校のハイスペック男がアプローチし、冬馬には素直すぎる後輩が猛アタックしてくる。
誰の恋も実らないまま「詰み」として固定化されていたはずの4人の盤面が、外部からの強烈な攻撃によって、今まさに崩壊へと向かって動き出していた。




