最初の一手
新しい制服の匂いが漂う1年1組の教室で、ぼくは自分の器用貧乏という長所にうんざりしていた。
誰に対しても当たり障りなく接することができて、場の空気が悪くなりそうならすっと道化を演じられる。
けれどそれは、自分の軸というものを持たない人間の誤魔化しに過ぎない。
自分に自信が持てないぼくは、いつも他人の顔色を窺い、出しゃばりすぎない「安全な位置」に自分という駒を置くことしかできなかった。
だが、黒板に貼り出された名簿を見たときばかりは、そんな卑屈な心も吹き飛ぶほどの歓喜に包まれた。
北川冬馬、東山春華、西沢秋葉、南野夏樹。
中学時代から何かと一緒だったぼくたち4人が、この広い高校で、奇跡的に全員同じ1年1組に揃っていたのだ。
「奇跡じゃん! 4人一緒なんてさ!」
朝のホームルーム前、ぼくの机の前に真っ先に飛んできたのは夏樹だった。
クラスの男子たちが早くもグループを作り始める中、屈託のない笑顔でぼくの肩をバシバシと叩く。
夏樹は中学の頃、春華に告白してあっさり撃沈した過去がある。
普通なら気まずくなりそうなものだが、「振られたけど親友!」と笑い飛ばせるカラッとした前向きさを持っていた。
ぼくの親友として、いつだって真っ直ぐに背中を押してくれる頼もしい奴だ。
「ちょっと夏樹、朝からうるさい。声が大きいってば」
呆れたように溜息をつきながら歩み寄ってきたのは秋葉だった。
整った顔立ちに少しキツめの目元。
言葉遣いもツンとしていて一見不愛想に見えるが、その実、根は誰よりも繊細で面倒見が良い。
「なんだよ秋葉ー! お前だって本当は嬉しいくせに!」
「べ、別に……ただ、知ってる顔がいて安心しただけだし」
ぷいっと顔を背ける秋葉の横顔に、夏樹は「相変わらず素直じゃねえなあ」とケラケラ笑う。
「ふふ、でも本当に良かったね、みんな」
ふんわりとした柔らかい声をかけてくれたのは、ぼくの幼馴染である春華だった。
どこか守ってあげたくなるような雰囲気を纏いながらも、誰に対しても思いやりを忘れない優しい少女。
ぼくが幼い頃からずっと胸の奥で特別な感情を抱き続けている相手でもある。
「うん、春華がいてくれて私もホッとした……」
秋葉が春華の隣に移動し、安堵したように肩の力を抜く。
中学からの絆で結ばれた4人。
この教室の中で、ぼくたちだけが温かな空気の輪に包まれていた。
やがて担任が教室に入り、お決まりの「一人ずつの自己紹介」が始まった。
トップバッターを切った夏樹は、堂々と壇上に立ち
「南野夏樹です! 中学ではサッカーやってました! 高校でも部活頑張るんでよろしく!」とハキハキと言い放ち、早くも男子たちの心を掴んでいた。
クラスのムードメーカーとしての素質は十分だった。
続いて壇上に上がった秋葉は、少し緊張で背筋をピンと伸ばし
「西沢秋葉です。……あまり喋るのが得意じゃないですけど、よろしくお願いします」と簡潔に締めくくった。
ツンとした警戒心が前面に出てしまい、周りの女子たちが少し遠巻きに見ているのが分かった。
春華の順番になると、彼女は丁寧に一礼をして
「東山春華です。みんなと早く仲良くなれたら嬉しいです。よろしくお願いします」と穏やかに微笑んだ。
その可憐な立ち振る舞いに、教室のあちこちから「可愛いな……」という男子たちの囁き声が漏れ聞こえてくる。
そしてぼくの番だ。
目立たず、出しゃばらず、無難に
「北川冬馬です。趣味は読書です。よろしくお願いします」とだけ言い、波風を立てずに席に戻った。
4人それぞれの性格がはっきりと表れた自己紹介が終わると、次に来たのは難航必至の「クラス委員決め」の議題だった。
「それじゃあ、クラス委員になりたい人はいますか?」
担任の呼びかけに、教室はしんと静まり返る。
高校に入ったばかりで、進んで面倒な役目を引き受けたがる生徒などいるはずもなかった。
誰も手を挙げず、重苦しい沈黙が教室を支配し始めたその時、担任の視線が一番前で真面目そうに背筋を伸ばしていた秋葉にとまった。
「西沢さん、どうでしょうか? 貴方ならしっかりやってくれそうなんですけど」
「えっ……あ、えっと……」
秋葉がわかりやすく狼狽した。
普段は強気なことを言っている秋葉だが、根が真面目で義理堅く、そして何より頼まれると嫌と言えない押しに弱いのをぼくたちはよく知っていた。
断り切れずに困り果てている秋葉の横顔を見て、ぼくの胸がキュッと締め付けられた。
断れないなら、助けてあげたい。誰かの役に立ちたいというぼくの病気のような性分と、困っている秋葉を放っておけないという衝動が重なった。
「先生、ぼくが男子のクラス委員をやります。」
静寂を破って手を挙げると、教室中に安堵の溜息が漏れた。
教師が救われたような表情でぼくの名前を黒板に書き留める。
「助かったわ、北川くん。じゃあ女子は……」
教師がそう促した瞬間だった。
「……冬馬がやるなら、じゃあ、私もやります」
消え入るような、でもはっきりとした声で手を挙げたのは秋葉だった。
教壇の前に立ったぼくと視線が混ざり合う。
その時、彼女が見せた表情を、ぼくは一生忘れることができないと思う。
いつもの強がりな仮面が剥がれ落ち、ふっと目元が柔らかく緩んだ。
心の底から安心したような、無防備で純粋な感謝の笑顔。
ほんの数秒間の、なんてことのない変化だった。
——ドクン、と胸の奥が大きく跳ね上がった。
(……可愛い、かも)
その瞬間、ぼくの頭の中で何かが決定的に狂い始めた。
自分の価値を信じられないぼくにとって、秋葉が見せたあの安堵の笑顔は、まるで「自分が必要とされた」かのような甘い錯覚を与えてしまったのだ。
ぼくが差し伸べた手に、彼女が応えてくれた。
ただそれだけの出来事が、ぼくの卑屈な心に歪んだ優越感と、芽生えてはならない恋心を植え付けていく。
だが、ぼくは何も分かっていなかった。
秋葉が見せたあの無防備な笑顔は、ぼくに心を許しているからでも、特別な感情を抱いているからでもない。
彼女にとってぼくは、「東山春華と両思いであり、絶対に自分に異性としての好意を向けてこない、安全で害のない存在」だったからこそ、警戒の鎧を解くことができたのだということを。
教室の窓際、日差しの中に佇む春華の姿が視界の端に映る。
春華はどこか寂しげに、けれど優しく微笑みながら、ぼくと秋葉のやり取りを見つめていた。
その瞳の奥に潜む、痛々しいほどの諦念と切なさに、ぼくは最後まで気づくことができなかった。
こうしてぼくは、自分から進んで破滅への最初の一手を指してしまったのだ。
誰も傷つけないための「親切」という顔をした、最悪の誤算の始まりだった。




