第22話 勇者らしいことを、したはずだった
「ごめん、ごめん。タイラに名前を呼ばれたの、初めてだったからさ」
「けっ。癪に障る野郎だ」
タイラは露骨に顔をしかめた。
いつも連れていた魔法使いと狩人の姿はない。
不機嫌そうな顔は相変わらずだが、両脇に誰もいないせいか、以前より背中が小さく見えた。
「それで、何の用だ」
俺が尋ねると、タイラはテーブルの前まで歩いてきた。
メルヴィとミナは、すでに敵意を隠そうともせず、タイラを睨んでいる。
メルヴィはともかく、ミナまで露骨な顔をするようになったのは少し意外だった。
「そんな目で見るんじゃねえよ。今日は喧嘩しに来たんじゃねえ」
「いつも喧嘩売ってくるのはあなたでしょう」
リラさんは背筋をピンと伸ばし、興味のなさそうな顔で、静かに紅茶を口へ運ぶ。
そんな仕草でも絵になる。
「うるせえ」
タイラは舌打ちすると、メルヴィへ目を向けた。
「……森で魔族に会った」
その一言で、メルヴィの目が大きく見開かれる。
手にしていた匙が皿の縁へ当たり、からん、と乾いた音を立てた。
「魔族だと?」
「ああ。テメェに、これを渡してくれだってよ」
タイラが懐へ手を入れようとする。
「待て」
俺は立ち上がり、その手首を掴む。
周囲の空気がわずかに張り詰め、近くの冒険者たちが、こちらへ視線を向けていた。
「罠かもしれない」
「ああ。だから、まずこいつで確かめる」
タイラは俺の手を振り払い、面倒そうに舌打ちした。
「俺だって魔族の言うことを、そのまま信じたわけじゃねえ」
「意外だな」
「殺すぞ」
「喧嘩をしに来たんじゃなかったのか?」
タイラの額に青筋が浮かぶ。
けれど、今日は本当に争うつもりはないらしい。
拳を握っただけで、殴りかかってはこなかった。
「森で会った魔族は、そこの女と同じ里で育ったらしい」
メルヴィが椅子から腰を浮かせる。
「その証拠が、これだ」
タイラが懐から取り出したのは、鳥の形をした小さな木彫りの飾りだった。
片方の翼だけが、黒く塗られている。
それを見た瞬間、メルヴィの表情が固まった。
赤紫の瞳が大きく揺れ、唇がわずかに開く。
「……それは」
「知ってるみたいだな」
タイラが木彫りの鳥をテーブルの上へ置く。
メルヴィは、すぐには触れなかった。
まるで、何かを思い出しているかのように、じっと木彫りを見つめている。
やがて、おそるおそる手を伸ばす。
細い指で木彫りを持ち上げ、裏面を確認した。
――メルヴィ。
小さな文字が刻まれている。
何度も削り直したような、少し歪んだ文字だった。
「これは……父が作ったものだ」
声が震えていた。
木彫りを握る指に力が入り、目に溜まった涙が一つだけ頬を伝う。
「下手な字だろう」
メルヴィは泣きながら、ほんの少しだけ笑った。
「昔から、不器用な人だった」
「お仲間が、まだいるんですね」
ミナもすでに泣いていた。
自分のことではないのに、メルヴィより先に何度も目元を拭っている。
「よかったです……本当に……」
「お前は、泣きすぎだ」
「だ、だってぇ……」
メルヴィはそう言ったが、その声も涙で揺れていた。
「なら、証拠は確かだったな」
タイラはどこか得意そうに鼻を鳴らした。
「俺様がわざわざ届けに来てやったんだ。少しくらい感謝しろ」
「まだ全部じゃないのだろう」
「相変わらず可愛くねえ野郎だな」
「お前に可愛いとは思われたくはないな」
「殺すぞ」
さっきから、そればかりだ。
こいつも、芸がない。
それでもタイラは、どこか満更でもなさそうだった。
「木彫りを見せたあと、こいつを渡せと言われた」
今度は、黒と銀の糸で編まれた細い腕輪を取り出す。
何の飾りもない、簡素な作りだった。
タイラが無造作に投げたそれを、メルヴィが反射的に受け取る。
「おい、投げるなよ」
「受け取ったんだからいいだろ」
メルヴィは涙を拭うことも忘れ、手の中の腕輪を見つめていた。
けれど、先ほどとは違う。
懐かしむような表情は、そこにはなかった。
指先で黒と銀の糸をなぞり、裏返す。
「……なんだ、これは」
「どうした?」
メルヴィの眉間に深い皺が寄る。
「こんなもの、私は知らな――」
そのときだった。
黒い糸の隙間で、赤い光が瞬く。
「メルヴィ!」
考えるより先に、身体が動いた。
俺はテーブルを蹴るように踏み込み、メルヴィの肩へ飛びついた。
細い身体を抱えるようにして、力任せに床へ押し倒す。
次の瞬間。
どんっ、と。
冒険者ギルドには似つかわしくない、腹の底まで響く音が鳴った。
視界が真っ赤に染まる。
熱風が背中を殴り、身体が床の上を転がった。
椅子と机がまとめて吹き飛び、砕けた木片が雨のように辺りへ降り注ぐ。
酒瓶が割れ、悲鳴と怒号がギルド中に響き渡った。
さっきまで漂っていた肉と野菜の匂いは消え、焦げた木と煙が、喉の奥へ流れ込んでくる。
「ルカ!」
「ルカさん!」
リラさんとミナの声が聞こえる。
リラさんが、あんな声を出すなんて珍しい。
気づけば、リラさんが俺の隣へ膝をついていた。
「動かないで」
「……ルカ、お前」
メルヴィの声が、すぐ近くから聞こえた。
彼女は、まだ俺の腕の中にいる。
とりあえず無事みたいだ。
よかった。
そう思った瞬間、全身から力が抜けた。
メルヴィから身体を離そうとしたが、腕に力が入らない。
床へ手をついた途端、視界が大きく揺れた。
「お、おい、ルカ!」
「大丈夫だ」
言ったつもりだったが、声になっていたかは分からない。
背中が焼けるように熱い。
焦げた服の隙間から煙が上がり、皮膚の焼ける嫌な臭いが鼻にこびりつく。
どうやら、メルヴィを庇ったまま爆発をまともに受けたらしい。
自分でも、ほとんど覚えていない。
ただ、彼女の手の中で赤い光が見えて。
気づけば身体が動いていた。
「大丈夫よ、すぐ治すわ」
リラさんにいつもの笑みはない。
薄紫の瞳が、焦げた俺の身体へ向けられている。
「……今日は、すぐ治してくれるんですね」
「まだ喋れるなら平気ね」
そう言って、俺の手首を取る。
最初は治療のためだと思った。
けれどその指には、必要以上に力が入っていた。
「……リラさん?」
「なに?」
「いや……」
なんだか、怒っている?
柔らかな光が俺の背中を包み始め、焼けつく痛みが、素早く引いていく。
それでも、リラさんの手は俺の手首から離れなかった。
俺が少し動こうとすると、ぎゅっと握り返される。
「だから、動かないで」
短く言われただけなのに。
その声は、いつもよりほんの少しだけ震えていた。
「ルカさん……」
ミナが俺のそばで泣いている。
「泣くなって。生きてるから」
「でも……でも……」
「大丈夫。前に食らったミナの魔法のほうが強かったよ」
「る、ルカさーん……」
安心させようとしたつもりが、かえってミナの涙を増やしてしまった。
周囲の冒険者たちは倒れた椅子を起こしながら、何が起きたのか分からない様子でこちらを見ていた。
その向こうで、タイラが立ち尽くしている。
瞳を大きく見開き、爆発の跡を見つめていた。
「……は?」
腕輪を渡した本人が、一番呆然としている。
「おい……」
掠れた声が、タイラの口から漏れた。
「俺様は……俺は」
握りしめられた右手が、小さく震えている。
「俺は、そんなつもりじゃ……」
その顔には、いつもの苛立ちも傲慢さもなかった。
タイラはただ、震える右手を見つめたまま、動けずにいた。




