第6話 来なくていいとは言っていませんわ!
「……どうして、あなたがいるのよ」
「おはようございます、ロザリア様!」
翌朝、いつもどおり学習室を訪れた私は、扉を開けた瞬間から冷たい視線を浴びせられていた。
ロザリア様は机に向かったまま腕を組み、いかにも不機嫌そうな顔をしている。
「昨日、わたくしは出ていってと言ったはずだけれど?」
「はい。ですから、昨日は帰りましたよ?」
「……そういう意味ではなくて!」
「えっ、違いました?」
首を傾げると、ロザリア様は呆れたように額を押さえた。
「あなた、本当に話が通じない人ね」
「よく言われます!」
「自慢することではなくてよ!」
……うん、今日も元気そうだ。
私はほっとしながら、持ってきた教材を机に並べた。
「それでは、昨日の続きから始めましょうか!」
「ちょっと待ちなさい。誰が授業を受けると言ったの?」
「えっ、受けないんですか?」
「……っ、受けないとは言っていないわ!」
……どっちなんだろう。
思わず笑いそうになったけれど、ここはぐっと我慢する。
「では、昨日お渡しした問題はどうでした?」
「……別に」
「難しかったですか?」
「そんなわけないでしょう!」
ロザリア様は机の引き出しを開け、一枚の紙を取り出した。
「ほら、これで満足?」
「わあ! 全部解いてくださったんですね!」
「当然よ。あんな問題、わたくしに解けないわけがないでしょう」
受け取った紙には、三つの問題すべてに丁寧な途中式が書かれていた。
最後の問題は少し難しくしたつもりだったけれど、答えまできちんと導き出している。
「すごいです! 全部正解ですよ!」
「……ふん」
「特に最後の問題、途中式がとてもわかりやすいです。どうやって考えたんですか?」
「……最初に条件を整理しただけよ」
「なるほど! だからこんなに綺麗に解けているんですね」
「べ、別に大したことではなくてよ!」
そう言いながら、ロザリア様は少しだけ胸を張った。
……うん、やっぱり褒められるのは嫌いじゃないみたい。
◇
「では、今日は少し違う問題に挑戦してみましょう!」
「違う問題?」
「はい。今度は、答えが一つとは限らない問題です」
「……算術なのに?」
「そうなんです!」
私は新しい紙を取り出し、簡単な図を描いた。
「例えば、ある村に橋を架けるとします。材料費を抑える方法はいくつかありますが、丈夫さや工事にかかる時間も考えなければいけません」
「……それで?」
「ロザリア様なら、何を一番大切にしますか?」
ロザリア様は少し考え込んだ。
「当然、丈夫さでしょう。すぐに壊れる橋なんて意味がないもの」
「なるほど! では、丈夫な橋を造ると費用が足りなくなる場合は?」
「……予算を増やせばいいじゃない」
「もし増やせなかったら?」
「そんなの、領地の収入を増やせば……」
そこまで言いかけて、ロザリア様は口を閉じた。
「……あなた、わざと難しくしているでしょう」
「あはは、ばれました?」
「当たり前よ!」
ロザリア様は不満そうに眉をひそめたものの、再び紙へ視線を落とした。
「……だったら、橋を架ける場所を変えるのはどうかしら」
「おお! どうしてそう思ったんですか?」
「川幅が狭いところなら、材料も少なくて済むでしょう? ただし、村から遠くなりすぎない場所を選ぶ必要があるわね」
「いいですね! 費用と使いやすさの両方を考えています」
「……当然よ」
そう答えたロザリア様は、どこか満足そうだった。
私はその様子を見ながら、少しだけ嬉しくなる。
この子は、考える力がある。
それをもっと伸ばしてあげられたら、きっと素敵なことになるはずだ。
◇
授業が一段落した頃、昨日のメイドさんがお茶を運んできた。
「お嬢様、お茶をお持ちいたしました」
「……そこに置いてちょうだい」
「かしこまりました」
メイドさんは慎重にカップを並べ、最後に小さな焼き菓子の皿を置いた。
その瞬間、ロザリア様が眉をひそめた。
「……これ、何?」
「本日のお茶菓子でございます」
「見ればわかるわ。わたくしが頼んだものと違うじゃない」
「も、申し訳ございません。本日は厨房の都合で……」
「厨房の都合? そんなこと、わたくしには関係ないでしょう」
メイドさんの顔が強張る。
……また始まってしまった。
「ロザリア様」
「何よ。今度は何も言っていないでしょう?」
「まだ何も言っていませんよ?」
「言おうとしていたじゃない!」
……鋭い。
ロザリア様はふんと鼻を鳴らし、焼き菓子を一つ摘まんだ。
「……まあ、いいわ。今日はこれで我慢してあげる」
「ありがとうございます、お嬢様」
メイドさんがほっとしたように頭を下げる。
私は少しだけ安心した。
昨日までなら、きっともっと強く叱っていたはずだ。
……でも。
「ロザリア様、今の『我慢してあげる』は、少し偉そうに聞こえますね」
「偉いんだから、当然でしょう!」
「あはは、確かに公爵令嬢ですもんね」
「わかっているなら、余計なことを言わないでちょうだい!」
……うん、まだまだ先は長そうだ。
◇
「……エリシア先生」
「はい?」
午後の授業を終え、教材を片づけていると、ロザリア様が小さな声で呼びかけてきた。
「あなた、昨日のこと……まだ怒っているの?」
「昨日のこと?」
「……わたくしが、あなたを追い出したことよ」
「ああ、そのことですか」
私は少し考えてから答えた。
「怒っているというより、残念でした」
「……残念?」
「はい。せっかく一緒に勉強していたのに、途中で終わってしまいましたから」
「……」
「でも、今日はまた授業ができて嬉しかったです」
そう答えると、ロザリア様は何とも言えない顔をした。
「……本当に、そればかりね」
「そればかり?」
「嬉しいだの、楽しいだの……あなたは、わたくしと勉強するのがそんなに好きなの?」
「はい!」
迷わず答えると、ロザリア様は目を見開いた。
「ロザリア様は難しい問題にも挑戦してくださいますし、自分の考えもしっかり持っていますから。教えていて、とても楽しいです」
「……っ」
ロザリア様は慌てて顔を背けた。
「そ、そう。なら、勝手にすればいいわ」
「はい! ありがとうございます!」
「お礼を言われるようなことではなくてよ!」
……うん、やっぱり少しずつ距離が縮まっている気がする。
けれど、そのとき。
「……でも」
ロザリア様がぽつりと呟いた。
「あなた、いつか大学に行くのでしょう?」
「はい。お金が貯まったら、進学したいと思っています」
「……そう」
ロザリア様は机の上の問題用紙を見つめた。
「だったら、あまり長くはいられないのね」
「えっ?」
「何でもないわ!」
慌てて顔を上げたロザリア様は、いつものようにふんと鼻を鳴らした。
「どうせあなたも、いつかいなくなるんでしょう? だったら、今のうちにしっかり教えてもらわないと困るわ」
「もちろんです! 大学に行くことになっても、できるだけ続けたいと思っていますよ」
「……え?」
「えっ?」
ロザリア様は驚いたように私を見つめた。
「大学に行ったら、家庭教師は辞めるものではなくて?」
「まだ決めていませんが、時間が合えば続けられると思います。私もロザリア様に教えたいですし」
「……ふうん」
ロザリア様はゆっくりと視線を逸らした。
「まあ、あなたがそこまで言うなら、考えてあげてもよろしくてよ」
「ありがとうございます!」
「だから、どうしてあなたがお礼を言うのよ!」
……あはは、確かに。
でも、ちょっと嬉しい。
◇
その日の夕方、エリシアが帰ったあとの学習室で、ロザリアは一人、机に向かっていた。
目の前には、今日の授業で使った橋の問題が置かれている。
「……別に、あの人がいなくても困らないわ」
そう呟きながら、ロザリアは新しい紙を取り出した。
橋を架ける場所を変えるだけでなく、材料の運搬方法を工夫すれば、もっと費用を抑えられるかもしれない。
そんなことを考えているうちに、自然と羽根ペンが動き始めた。
「……明日、見せてあげてもいいかしら」
小さく呟いたあと、ロザリアは慌てて首を振った。
「ち、違うわ! 別に褒めてほしいわけじゃないんだから!」
誰もいない学習室に、彼女の声だけが響いた。
けれど、その頬はほんの少しだけ赤くなっていた。




