第5話 謝るなんて、絶対に嫌ですわ!
「……エリシア先生は、いつまでここにいるつもりなの?」
「えっ?」
家庭教師として働き始めて三日目、ロザリア様は教科書を開くなり、そんなことを尋ねてきた。
「いつまで、と言いますと?」
「そのままの意味よ。あなた、大学に行きたいのでしょう?」
「あ、はい! お金が貯まったら進学したいと思っています」
「だったら、さっさと貯めて出ていけばいいじゃない」
「ええっ!? まだ働き始めたばかりですよ!?」
「だから何よ。わたくしは、別にあなたがいなくても困らないもの」
ロザリア様はふんと鼻を鳴らし、羽根ペンを手に取った。
……うーん、相変わらず手厳しい。
昨日、使用人への態度を注意したことを、まだ根に持っているのかもしれない。
「それに、わたくしに説教するような家庭教師なんて、必要ありませんわ」
「でも、昨日の算術は最後まで頑張っていましたよね?」
「それとこれとは別でしょう!」
「そうですね。でも、私はロザリア様と勉強するのが楽しいですよ」
「……っ、またそういうことを」
ロザリア様は一瞬だけ言葉を詰まらせ、すぐに顔を背けた。
「お世辞は結構よ。さっさと授業を始めなさい」
「はい!」
……うん、今日も元気そうだ。
◇
「違うわ! そこは第三代国王ではなく、第四代国王でしょう!」
「あっ、本当ですね! ありがとうございます!」
「……あなた、本当に教師なの?」
王国史の授業中、私が年表を一つ間違えると、ロザリア様は呆れたようにため息をついた。
「申し訳ありません。完全に勘違いしていました」
「ふん。そんなことも覚えていないなんて、よく家庭教師になれたものね」
「そうですね。あとでちゃんと復習しておきます」
「……」
ロザリア様は何か言いたげに私を見つめた。
「どうかしました?」
「……あなた、悔しくないの?」
「えっ?」
「わたくしに間違いを指摘されたのよ? 普通なら、もっと言い訳するでしょう」
「ああ、そういうことですか」
私は少し考えてから答えた。
「もちろん、間違えたのは恥ずかしいです。でも、教えてもらえたので助かりました」
「……変な人」
「また言われちゃいました」
「だって、本当に変なんですもの」
ロザリア様は小さく鼻を鳴らした。
「間違いを認めるなんて、恥ずかしくないの?」
「間違えたままにしておく方が、私は恥ずかしいです」
「……」
「それに、ロザリア様が正しく覚えていてくださってよかったです」
「当然よ。わたくしは全部覚えているもの」
「はい。しっかり勉強されていますね」
「……もう、その話はいいわ!」
ロザリア様は顔を赤くして教科書を閉じた。
……褒められると、どうしていつも怒るんだろう。
◇
授業が一段落した頃、昨日のメイドさんがお茶を運んできた。
「お嬢様、お茶をお持ちいたしました」
「……そこに置いてちょうだい」
「かしこまりました」
メイドさんは慎重にカップを並べていく。
けれど、最後の一つを置こうとした瞬間、手元がわずかに滑った。
「あっ……!」
カップが小さく傾き、紅茶が受け皿へこぼれてしまった。
ほんの少しの量だったけれど、メイドさんの顔がみるみる青ざめる。
「も、申し訳ございません!」
「……また、あなたなの?」
ロザリア様の声が冷たくなった。
「昨日も失敗したばかりでしょう? 本当に学習しないのね」
「申し訳ございません……」
「謝れば済むと思っているの? そんなに仕事ができないなら、辞めてしまえばいいじゃない!」
メイドさんの肩がびくりと震えた。
……これは、さすがに見過ごせない。
「ロザリア様」
「何よ。あなたには関係ないでしょう」
「いいえ、関係あります」
私は静かに首を振った。
「今の言い方は、よくありません」
「……また説教?」
「はい。昨日もお話ししましたよね」
「何度も同じことを言わないでちょうだい!」
ロザリア様は苛立たしそうに机を叩いた。
「失敗したのはこの人よ! どうしてわたくしが注意されなければならないの!?」
「失敗を注意することと、相手を傷つけることは違うからです」
「……っ!」
「お茶をこぼしたことは、確かに気をつけていただく必要があります。でも、辞めてしまえばいいなんて言う必要はありません」
ロザリア様は私を睨みつけた。
「あなた、わたくしの家庭教師でしょう? どうして使用人の味方ばかりするのよ!」
「誰の味方という話ではありません」
「嘘よ! 昨日からずっと、わたくしばかり責めているじゃない!」
……ああ、そう感じていたんだ。
私は少しだけ声を和らげた。
「ロザリア様が悪い子だと言いたいわけではありませんよ」
「……だったら、何よ」
「悪かったのは、今の言葉です。ロザリア様がこれまで頑張ってきたことまで否定するつもりはありません」
「……」
「でも、誰かを傷つけたときには、ちゃんと向き合わないといけないと思います」
ロザリア様は唇をきゅっと結んだ。
しばらく沈黙が続いたあと、彼女はふいっと顔を背けた。
「……謝らないわよ」
「ロザリア様」
「絶対に謝らない! わたくしは何も悪くないもの!」
そう言い放つと、ロザリア様は勢いよく立ち上がった。
「もう授業なんて結構よ! 出ていって!」
……またしても、追い出されてしまった。
◇
「申し訳ございません、ベルフォード様」
廊下へ出ると、セバスチャンさんが深々と頭を下げた。
「いえ、こちらこそ……」
「お嬢様は、ああなるとしばらくお話を聞いてくださらないことが多く……」
「そうなんですね」
私は閉ざされた学習室の扉を見つめた。
中からは物音一つ聞こえてこない。
「……セバスチャンさん、一つお願いしてもいいですか?」
「何でしょう?」
「今日の授業はここまでにします。でも、明日もいつもどおり来ていいでしょうか?」
セバスチャンさんは少し驚いたように目を見開いた。
「もちろんでございます。しかし、お嬢様がお会いになるかどうか……」
「それでも構いません」
「……」
「私、まだロザリア様に教えたいことがたくさんありますから」
そう答えると、セバスチャンさんは穏やかに微笑んだ。
「……ありがとうございます」
◇
その日の夕方、ロザリアは一人、学習室に残っていた。
「……何なのよ、あの人」
机の上には、途中まで解いた算術の問題集が広げられている。
いつもなら家庭教師を追い出したあとは清々するはずなのに、今日はどうにも落ち着かなかった。
『失敗を注意することと、相手を傷つけることは違うからです』
「……ふん」
ロザリアは羽根ペンを握り直した。
そんなこと、わかっている。
でも、使用人が失敗したのだから、注意するのは当然でしょう?
それなのに、どうしてあの人はわたくしばかり責めるのかしら。
「……わたくしだって」
小さく呟いた言葉は、誰にも聞こえなかった。
そのとき、扉が控えめに叩かれた。
「お嬢様、失礼いたします」
「……何よ」
入ってきたのは、先ほど叱りつけたメイドだった。
「本日のお茶の件、改めてお詫び申し上げます」
「……もういいわ」
「ありがとうございます。それから、ベルフォード様より、こちらをお預かりしております」
「……あの人から?」
メイドが差し出したのは、一枚の紙だった。
そこには、今日の授業で扱う予定だった問題が三つと、短い言葉が添えられていた。
『今日の続きです。最後の問題は少し難しいですが、ロザリア様ならきっと解けると思います。明日、一緒に答え合わせをしましょう!』
「……何よ、これ」
ロザリアは紙を見つめた。
追い出されたくせに、どうして明日も来るつもりなの?
普通なら怒って辞めるか、謝りに来るかのどちらかでしょうに。
「……本当に、変な人」
そう呟きながら、ロザリアは問題用紙を机に広げた。
「別に、あの人のために解くわけじゃないんだから」
誰に聞かせるでもなく言い訳をしてから、羽根ペンを走らせ始める。
……そして、その夜。
ロザリアは三つの問題をすべて解き終えるまで、学習室を離れなかった。




