第4話 悪いことは悪いと言います!
「エリシア先生、お茶が冷めているわ」
「えっ、そうですか?」
「そうですか、じゃないわ! どうしてこんなものを出すのよ!」
ヴァレンシュタイン公爵家での家庭教師初日、私はさっそく頭を抱えそうになっていた。
目の前ではロザリア様が不機嫌そうにティーカップを見つめ、その隣で若いメイドさんが青ざめている。
「も、申し訳ございません、お嬢様。すぐに新しいものを……」
「当たり前でしょう! こんなこともまともにできないなんて、本当に使えないわね!」
「申し訳ございません……」
メイドさんは何度も頭を下げていたけれど、ロザリア様の怒りは収まらない。
「あなた、以前もお茶をこぼしたでしょう? 何度失敗すれば気が済むのかしら」
「それは……」
「言い訳は聞きたくないわ! もういいから下がりなさい!」
メイドさんが泣きそうな顔で頭を下げた、そのときだった。
「ロザリア様、少しよろしいですか?」
「何よ。今はあなたと話しているんじゃないわ」
「はい。でも、気になったことがありまして」
私はメイドさんに目を向けた。
「お茶を用意してくださって、ありがとうございます」
「え……?」
「私の分まで淹れてくださったんですよね。とてもいい香りです」
そう言ってカップを持ち上げると、ロザリア様が呆れたように眉をひそめた。
「あなた、話を聞いていたの? お茶が冷めているのよ!」
「はい。ですから、淹れ直していただけると嬉しいですね」
「だったら、どうしてお礼なんて言うのよ!」
「用意してくださったことと、お茶が冷めてしまったことは別ですから」
「……は?」
ロザリア様は意味がわからないという顔をした。
「失敗したからといって、してくれたこと全部がなくなるわけではありませんよね?」
「何を言っているの? 使用人が主人のために働くのは当然でしょう」
「お仕事ですから、きちんとしていただく必要はあります。でも、だからといって何を言ってもいいわけではありません」
そう答えると、ロザリア様の表情が変わった。
「……あなた、わたくしに説教するつもり?」
「はい。今の言い方はよくなかったと思います」
「なっ……!」
ロザリア様は勢いよく椅子から立ち上がった。
「男爵家の娘が、公爵令嬢のわたくしに意見するというの!?」
「今はロザリア様の家庭教師ですから」
「だから何よ! わたくしが雇ってあげているのよ!」
「はい。ですから、教えるのが私の仕事です」
ロザリア様は一瞬、言葉を失った。
「……っ、あなた、本当に生意気ね!」
「よく言われます」
「褒めていないわ!」
……うん、それは知っている。
でも、ここで引くわけにはいかない。
「ロザリア様、お茶が冷めていたことを注意するのは悪いことではありません。ただ、『使えない』という言葉は、その方自身を傷つけてしまいます」
「だって、失敗したのは事実でしょう!」
「そうですね。だから、次から気をつけてほしいと伝えればいいんです」
「……そんな言い方で、使用人が言うことを聞くと思っているの?」
「少なくとも、怖がらせる必要はないと思います」
ロザリア様は唇をきゅっと結び、メイドさんを睨んだ。
「……もういいわ。下がりなさい」
「は、はい……」
メイドさんが急いで部屋を出ようとしたので、私は慌てて声をかけた。
「あ、すみません。新しいお茶をお願いしてもいいですか?」
「は、はい! すぐにお持ちいたします!」
彼女が出ていくと、部屋には気まずい沈黙が流れた。
◇
「……気に入らないわ」
ロザリア様は椅子に座り直すと、ぷいっと顔を背けた。
「あなた、昨日まではもっと素直だったじゃない」
「そうでしたっけ?」
「そうよ! わたくしの質問にも笑って答えていたでしょう!」
「勉強の質問でしたからね」
「……何が違うのよ」
「勉強を教えるのも、間違ったことを注意するのも、家庭教師の仕事だと思っています」
「わたくしが間違っているって言うの?」
「はい。先ほどの言い方は間違っていました」
「……っ!」
ロザリア様は机をばんっと叩いた。
「もう結構よ! あなたなんて、今すぐ辞めさせてあげるわ!」
……おお、初日から解雇宣言!
予想はしていたけれど、実際に言われると結構怖い。
でも、ここで謝ってしまったら、さっきの言葉が嘘になってしまう。
「それは残念です」
「……は?」
「私、ロザリア様と一緒に勉強するの、楽しみにしていたので」
「な、何よ急に……」
「昨日の算術も、とても楽しかったです。ロザリア様、難しい問題にも最後まで取り組んでいましたよね」
「そんなの、当然でしょう」
「はい。でも、頑張っていたことは本当ですから」
ロザリア様は少しだけ目を伏せた。
「……また、それ」
「それ?」
「頑張っただの、すごいだの……あなたはそればかりね」
「そうでしょうか?」
「そうよ。そんなこと言われたって、嬉しくなんかないわ」
そう言いながらも、ロザリア様は私と目を合わせようとしない。
……やっぱり、褒められるのに慣れていないのかな。
「でも、間違っていることまで褒めるつもりはありませんよ」
「……え?」
「ロザリア様が頑張ったら、ちゃんと褒めます。でも、悪いことをしたら注意します」
「……何よ、それ」
「家庭教師ですから!」
にっこり笑うと、ロザリア様は心底呆れたようにため息をついた。
「……本当に、変な人」
「また言われちゃいました」
「だから、褒めていないわ!」
どうやら私の評価は、相変わらず『変な人』らしい。
◇
しばらくして、先ほどのメイドさんが新しいお茶を運んできた。
「お待たせいたしました、お嬢様」
ロザリア様はカップを受け取ると、無言で一口飲んだ。
「……今度は問題ないわ」
「ありがとうございます」
メイドさんがほっとしたように微笑む。
けれど、その直後。
「……でも」
ロザリア様が口を開いたので、メイドさんの肩がびくりと跳ねた。
「次からは、もっと早く持ってきなさい」
「は、はい!」
……うーん、まだまだ厳しいなあ。
でも、さっきみたいに『使えない』とは言わなかった。
ほんの少しだけでも、変わろうとしてくれたのかな。
「ロザリア様」
「何よ」
「今の伝え方、さっきよりよかったと思います」
「……は?」
「相手を傷つける言葉を使わずに、お願いできましたから」
「べ、別にあなたに褒められるために言ったんじゃないわ!」
「はい、わかっています」
「わかっていないでしょう!」
ロザリア様は顔を赤くしてそっぽを向いた。
……うん、可愛いところもあるんだよね。
そんなことを考えていた、そのときだった。
「お嬢様、旦那様からお言づけでございます」
別の使用人が部屋に入ってきた。
「お父様から?」
「はい。本日の礼儀作法の確認について、後ほどご報告いただきたいとのことです」
「……わかったわ」
ロザリア様の声が、急に小さくなった。
さっきまであんなに堂々としていたのに、背筋を伸ばし、表情まで硬くなっている。
「それから、昨日の算術の課題ですが……」
「全部終わっているわ! 間違いもないはずよ!」
「承知いたしました。旦那様にお伝えいたします」
使用人が一礼して去ると、ロザリア様は机の上の教科書をぎゅっと握りしめた。
「……ロザリア様?」
「何よ」
「大丈夫ですか?」
「当たり前でしょう! わたくしはヴァレンシュタイン公爵家の娘なのよ!」
そう答えた彼女の声は、どこか必死に聞こえた。
「……失敗なんて、できないんだから」
小さく呟かれた言葉に、私は何も返せなかった。
昨日のセバスチャンさんの言葉が、ふと頭をよぎる。
『……そうであれば、よろしいのですが』
……もしかして。
ロザリア様があんなに失敗を嫌うのには、何か理由があるのかもしれない。
◇
「では、今日の授業を始めましょうか!」
私はできるだけ明るく声をかけた。
「……もう始めているようなものじゃない」
「あはは、確かにそうですね」
「笑い事ではなくてよ。あなた、わたくしの時間をどれだけ使ったと思っているの?」
「それはすみません。では、今日は少し急ぎましょう!」
「……まったく」
ロザリア様は不満そうに言いながらも、教科書を開いた。
その横顔を見つめながら、私は心の中でそっと決意する。
この子はきっと、思っている以上に頑張っている。
だからこそ、頑張ったことはちゃんと認めてあげたい。
でも、間違っていることは間違っていると伝える。
それが、私の目指す先生の姿だから。
「それでは、今日は昨日の続きから始めましょう!」
「……先生」
「はい?」
「昨日の問題、もう一度出してちょうだい」
「えっ、あの難しかった問題ですか?」
「そうよ。今度こそ、一人で解いてみせるわ」
ロザリア様は真剣な顔で羽根ペンを握った。
……うん、やっぱりこの子、勉強が嫌いなわけじゃないんだ。
「わかりました! では、さっそく始めましょう!」
こうして、私の家庭教師としての初日は、何とか無事に始まった。
……まあ、初日から解雇されかけたけれど。
これから先が、少しだけ心配だ。




