第3話 わたくしが認めたわけではなくてよ!
「……どうして、あの子なのよ」
ヴァレンシュタイン公爵邸の学習室で、ロザリア・ヴァレンシュタインは不機嫌そうに頬を膨らませていた。
机の上には、先ほどまで使っていた王国史の教科書と、一枚の紙が置かれている。
そこに書かれているのは、家庭教師候補の名前と試験結果だった。
「お嬢様、ベルフォード様は筆記試験でも非常に優秀な成績を収められました」
執事長のセバスチャンが穏やかに説明すると、ロザリアは鼻を鳴らした。
「そんなこと、どうでもよろしいわ。わたくしは、あんな子どもに教わるつもりはなくてよ」
「ですが、試験授業では随分と長くお話しされていたようですが」
「それは、あの人がしつこかったからよ!」
ロザリアは勢いよく立ち上がった。
「わたくしが質問に答えるたびに、すごいだの面白いだの……あんな薄っぺらい言葉、聞き飽きましたわ!」
「左様でございますか」
「そうよ! そもそも、家庭教師ならもっと威厳があるべきでしょう? あんなにへらへら笑っている人に、何が教えられるというの?」
そう言いながら、ロザリアは机の上の教科書へ視線を落とした。
昨日の授業で、エリシアに尋ねられたことが頭から離れない。
『もし西方諸国が協定を拒否していたら、どうなったと思います?』
そんなこと、今まで考えたこともなかった。
家庭教師たちはいつも教科書の内容を説明し、覚えたことを確認するだけだったから。
けれど、あの少女は違った。
自分の考えを聞いてきたうえに、答えるたびに嬉しそうな顔をするのだ。
『私は思いつかなかった視点もありましたし』
「……ふん」
ロザリアは小さく鼻を鳴らし、教科書をぱたんと閉じた。
「とにかく、わたくしは認めませんから!」
「承知いたしました。では、ほかの候補者の方を――」
「……待ちなさい」
部屋を出ようとしたセバスチャンを、ロザリアが呼び止めた。
「はい?」
「その……あの人、筆記試験は本当に良かったの?」
「はい。今回の候補者の中でも、特に優秀な結果でございました」
「……そう」
ロザリアは少し考え込んだあと、ふんと顔を背けた。
「だったら、もう一度だけ試してあげてもよろしくてよ」
「もう一度、でございますか?」
「ええ。昨日はたまたま、わたくしの機嫌が悪かっただけですもの。次はもっと難しい問題を出して、あの人の実力を確かめてあげるわ」
「かしこまりました」
セバスチャンが一礼すると、ロザリアは慌てて付け加えた。
「勘違いしないでちょうだい! 別に、あの人に来てほしいわけではありませんからね!」
「もちろんでございます」
そう答えた執事長の口元には、ほんの少しだけ笑みが浮かんでいた。
◇
「……もう一度、ですか?」
翌日の午後、マーガレット先生から呼び出された私は、思わず聞き返した。
「ええ。公爵家から連絡がありました。ロザリア様が、あなたに再度試験授業を受けてほしいとおっしゃっているそうです」
「ええっ!?」
まさか、もう一度呼んでもらえるなんて!
昨日は途中で授業を終わらせられてしまったし、てっきり不合格だと思っていた。
「よかったですね、エリシア」
「はい! ……でも、どうしてでしょう?」
「さあ。ただ、少なくとも興味は持っていただけたのでしょう」
「興味、ですか……」
昨日のロザリアを思い出す。
私を子ども扱いし、男爵家の娘だと見下していたけれど、王国史の話をしているときは、少し楽しそうにも見えた。
……うん、もう一度会えるなら嬉しいな。
「先生、私、頑張ります!」
「ええ。ただし、無理はしないこと。公爵家の方々を相手にするのですから、礼儀には十分気をつけてくださいね」
「はい!」
「それから……」
「それから?」
「今度こそ、道に迷わないように」
「うっ……」
痛いところを突かれた。
昨日も帰り道で迷子になり、庭師さんに助けてもらったばかりなのだ。
「だ、大丈夫です! 今度はちゃんと覚えましたから!」
「……そう言って、今日も教員室に来るまで二度迷ったでしょう?」
「な、なんで知ってるんですか!?」
先生はただ、にっこりと微笑んだ。
……うう、何も言い返せない。
◇
「エリシア・ベルフォードです。本日もよろしくお願いいたします!」
翌朝、再び公爵邸を訪れた私は、学習室の扉を開けて深く頭を下げた。
すると、机に向かっていたロザリアがゆっくりと顔を上げた。
「……また来たのね」
「はい! お招きいただき、ありがとうございます!」
「勘違いしないでちょうだい。別に、あなたに会いたかったわけではなくてよ」
「えっ、そうなんですか?」
「当たり前でしょう!」
ロザリアはむっとした顔で腕を組んだ。
「今日は、あなたが本当に家庭教師にふさわしいか、わたくしが見極めてあげるの」
「なるほど! では、よろしくお願いします!」
「……本当に調子が狂う人ね」
そう呟いたロザリアは、机の上から一冊の分厚い本を取り上げた。
「今日は算術よ。わたくしが出す問題に答えてちょうだい」
「はい!」
「ただし、間違えたらその時点で不合格ですからね」
「ええっ!? それは厳しくないですか!?」
「嫌なら帰ってもよろしくてよ?」
「……頑張ります!」
私は気合いを入れ直し、ロザリアが差し出した問題用紙を受け取った。
そこには、かなり複雑な計算問題が並んでいた。
……うわあ、これ本当に十一歳の子が勉強する内容?
「どうしたの? もうわからないのかしら」
「いえ、少し考えています」
「ふん。わたくしなら、こんな問題すぐに解けるわ」
「そうなんですね。では、私も負けないように頑張ります!」
ロザリアは不満そうに眉をひそめたものの、それ以上は何も言わなかった。
私は一問ずつ丁寧に計算し、最後の問題まで解き終えると、用紙をロザリアへ差し出した。
「できました!」
「……ずいぶん早いのね」
ロザリアは答案を受け取り、慎重に答え合わせを始めた。
一問、二問、三問。
ページをめくるたびに、彼女の眉が少しずつ寄っていく。
「……全部、合っているじゃない」
「よかったです!」
「別に、褒めていなくてよ!」
「はい! でも、間違えなくて安心しました!」
「……ふん」
ロザリアは答案を机に置くと、今度は別の問題集を取り出した。
「それなら、次はこれよ」
「まだあるんですか!?」
「当然でしょう。これくらいで家庭教師が務まると思わないでちょうだい」
……どうやら今日は、とことん試されるらしい。
◇
「……では、この問題はどう解きますか?」
しばらくして、私はロザリアに一つの問題を差し出した。
「は?」
「せっかくなので、今度はロザリア様にも解いていただこうかと」
「わたくしが? どうして?」
「私ばかり解いていても、授業になりませんから」
「……あなた、今は試験中だということを忘れていない?」
「もちろん覚えています。でも、家庭教師の仕事は問題を解くことではなく、教えることですよね?」
そう答えると、ロザリアは少しだけ目を見開いた。
「……生意気ね」
「すみません。でも、ロザリア様がどこまで理解しているのか知りたいんです」
「ふん。そんなの、全部理解しているに決まっているでしょう」
「では、お願いします!」
ロザリアは不機嫌そうに問題用紙を受け取ったものの、すぐに羽根ペンを走らせ始めた。
計算は速く、途中式も丁寧で、難しい問題にも迷わず取り組んでいる。
……やっぱり、すごいなあ。
けれど、最後の問題に差しかかったところで、その手が止まった。
「……」
「どうしました?」
「何でもないわ」
ロザリアは再び計算を始めたものの、途中で何度も書き直している。
私は少し待ってから、そっと声をかけた。
「よかったら、一緒に考えませんか?」
「必要ないわ!」
「でも、少し難しそうですし……」
「わたくしが解けないとでも言いたいの!?」
ロザリアは勢いよく顔を上げた。
「こんな問題、解けて当然なのよ! わたくしを馬鹿にしないで!」
「馬鹿になんてしていませんよ」
「嘘! だったら、どうして教えようとするの!?」
「……それは、私が家庭教師だからです」
できるだけ穏やかに答えると、ロザリアは言葉を詰まらせた。
「わからないところがあれば、一緒に考えるのが私の仕事です。最初から全部できるなら、家庭教師なんて必要ありませんから」
「……っ」
「それに、間違えることは悪いことじゃありませんよ」
「そんなの、あなたにはわからないわ!」
ロザリアは強い口調で言い返した。
「わたくしはヴァレンシュタイン公爵家の娘なの! できて当然、間違えるなんて許されないのよ!」
その言葉に、私は思わず口を閉じた。
……できて当然。
昨日も、同じことを言っていた。
「……ロザリア様」
「何よ」
「私は、間違えたことを責めたりしません」
「……」
「でも、わからないことを隠してしまったら、せっかく勉強しているのにもったいないと思います」
ロザリアは唇をきゅっと結び、しばらく黙っていた。
やがて、小さな声で呟く。
「……あなた、本当に変な人ね」
「あはは、また言われちゃいました」
「笑っている場合ではなくてよ!」
そう言いながらも、ロザリアは問題用紙を私の方へ少しだけ押し出した。
「……ここ」
「はい?」
「この途中式が、どうしても合わないのよ」
私は思わず笑顔になった。
「なるほど! では、一緒に確認してみましょう!」
「勘違いしないでちょうだい。あなたの教え方を試しているだけですからね!」
「はい、わかっています!」
……うん。
少しだけ、前に進めた気がする。
◇
「お嬢様、そろそろお時間でございます」
セバスチャンさんが声をかけると、ロザリアは不満そうに顔を上げた。
「もうそんな時間なの?」
「はい。本日の試験授業はここまでとなります」
「……そう」
ロザリアは机の上の問題用紙を見つめ、少しだけ考え込んだ。
「では、ベルフォード様。結果については後日――」
「待ちなさい」
セバスチャンさんの言葉を遮り、ロザリアが立ち上がった。
「この人を、わたくしの家庭教師にしてもよろしくてよ」
「……えっ?」
思わず声が漏れた。
「ほ、本当ですか!?」
「ただし!」
ロザリアはびしっと私を指さした。
「わたくしが気に入らなかったら、いつでも辞めていただきますからね!」
「はい! 精いっぱい頑張ります!」
「それから、わたくしの言うことはちゃんと聞くこと!」
「できるだけ頑張ります!」
「できるだけ!?」
「だって、間違っていることまで聞くわけにはいきませんから」
そう答えると、ロザリアはぽかんと口を開けた。
「……あなた、本当に自分の立場がわかっているの?」
「はい。ロザリア様の家庭教師になるんですよね?」
「そういう意味ではなくて!」
ロザリアは顔を赤くして声を上げた。
「もういいわ! とにかく、明日から来なさい!」
「はい! よろしくお願いします、ロザリア様!」
私が深く頭を下げると、ロザリアはふんと顔を背けた。
けれど、その横顔はほんの少しだけ嬉しそうに見えた。
◇
「おめでとうございます、ベルフォード様」
学習室を出たところで、セバスチャンさんが穏やかに微笑んだ。
「ありがとうございます! まさか採用していただけるなんて……」
「お嬢様ご自身が家庭教師を選ばれたのは、久しぶりのことでございます」
「そうなんですか?」
「ええ。どうか、よろしくお願いいたします」
深々と頭を下げられ、私は慌てて首を振った。
「こちらこそ! まだまだ未熟ですが、精いっぱい頑張ります!」
そう答えながら、私は改めて気を引き締めた。
ロザリアは確かに我儘で、少し……いや、かなり気難しい子だけれど、勉強には真剣だし、努力もしている。
あの子が安心して学べるように、私も頑張らなくちゃ。
「それでは、明日からよろしくお願いいたします」
「はい!」
元気よく返事をした私は、セバスチャンさんに案内されて玄関へ向かった。
……そして、ふと気づいた。
明日からは、一人でこのお屋敷に通うことになるんだよね?
門から玄関まではともかく、学習室までの道順は……。
「……あの、セバスチャンさん」
「はい?」
「明日も、玄関まで迎えに来ていただくことってできますか?」
「もちろんでございますが……何か?」
「い、いえ! ちょっと、道に迷うかもしれなくて……」
セバスチャンさんは一瞬きょとんとしたあと、穏やかに微笑んだ。
「かしこまりました。毎朝、玄関でお待ちしております」
「ありがとうございます!」
こうして私は、ついにヴァレンシュタイン公爵家の家庭教師として採用された。
夢への第一歩を踏み出せたことが嬉しくて、帰りの馬車ではずっと頬が緩みっぱなしだった。
……もっとも、このときの私はまだ知らなかった。
ロザリア・ヴァレンシュタインという少女が、想像以上に手強い教え子だということを。




