第2話 公爵令嬢は家庭教師がお嫌い
「……大きすぎません?」
目の前にそびえ立つ屋敷を見上げ、私は思わず呟いた。
ヴァレンシュタイン公爵邸。王都でも有数の名門貴族のお屋敷とは聞いていたけれど、まさか門から玄関まで馬車で移動するほど広いなんて!
「エリシア・ベルフォード様でいらっしゃいますね」
「は、はい! 本日はよろしくお願いいたします!」
出迎えてくれた初老の執事に勢いよく頭を下げると、彼は穏やかに微笑んだ。
「私は当家の執事長、セバスチャンと申します。本日は採用試験にお越しいただき、ありがとうございます」
「こちらこそ、お招きいただきありがとうございます!」
「それでは、ご案内いたします。どうぞこちらへ」
執事長の後ろについて歩きながら、私はきょろきょろと周囲を見渡した。
磨き上げられた大理石の床に、天井から吊るされた大きなシャンデリア。壁には立派な絵画が並び、廊下の先まで高そうな調度品が続いている。
……これ、絶対に一人で歩いたら迷子になるやつだ。
「ベルフォード様?」
「あっ、すみません!」
慌てて執事長の背中を追いかけると、彼は少し不思議そうな顔をした。
「何かお気になることでも?」
「いえ、その……とても広いお屋敷だなと思いまして」
「ありがとうございます。歴史のある屋敷ですので、初めての方には少々複雑かもしれません」
「そ、そうですよね……」
少々どころじゃない気がするけれど、今は黙っておこう。
やがて案内されたのは、落ち着いた雰囲気の応接室だった。
「こちらで少々お待ちください。まずは筆記試験を受けていただき、その後、お嬢様への試験授業を行っていただく予定です」
「わかりました!」
「なお、今回の採用試験には他にも候補者がおられます」
「えっ、そうなんですか?」
「はい。皆様、優秀な経歴をお持ちの方ばかりです」
……ですよね!
公爵令嬢の家庭教師なんだから、当然ほかにも応募者はいるだろう。しかも、きっと私よりずっと年上で、経験豊富な先生たちばかりに違いない。
思わず背筋が伸びた。
「精いっぱい頑張ります!」
「それでは、後ほど」
執事長が部屋を出ていくと、私は椅子に腰掛けて深呼吸した。
大丈夫、三年間勉強してきたんだから、まずは落ち着いて問題を解こう。
◇
「……終わりました!」
最後の問題を解き終え、私はそっと羽根ペンを置いた。
試験内容は王国史、算術、地理、礼儀作法に加え、教育に関する記述問題まであり、想像していた以上に本格的だった。
特に最後の設問には少し考え込んでしまった。
『生徒が学習を拒否した場合、あなたはどのように対応しますか』
私はしばらく悩んだ末、こう書いた。
『まず、なぜ学びたくないのかを尋ねます。理由がわからなければ、その子に合った教え方も考えられないからです』
正解かどうかはわからないけれど、今の私ならそうすると思う。
「ベルフォード様、お時間です」
「あ、はい!」
答案を提出すると、再び執事長が現れた。
「お疲れさまでした。続いて試験授業をお願いいたします」
「はい! よろしくお願いします!」
「その前に、一つだけお伝えしておきたいことがございます」
執事長は少しだけ声を落とした。
「お嬢様は……少々、気難しいところがおありです」
「気難しい、ですか?」
「ええ。以前の家庭教師の方々も、なかなかお気に召さなかったようでして」
なるほど、つまり相当な難敵というわけだ。
でも、ここまで来たからには頑張るしかない!
「大丈夫です。まずはお話ししてみます!」
そう答えると、執事長はどこか安心したように微笑んだ。
◇
「お嬢様、家庭教師候補の方をお連れいたしました」
「入ってよろしいわ」
扉の向こうから聞こえてきたのは、まだ幼さの残る、けれど妙に堂々とした声だった。
「失礼いたします!」
私は一礼して部屋へ足を踏み入れた。
大きな窓から日差しが差し込む学習室。その中央に置かれた机には何冊もの本が積まれ、奥の椅子には一人の少女が腰掛けていた。
艶やかな銀色の髪に、宝石のような青い瞳。整った顔立ちと上品なドレスは、まさに絵に描いたような公爵令嬢だ。
……この子が、ロザリア・ヴァレンシュタイン。
ゲームで見た立ち絵よりずっと幼いけれど、間違いない。
「あなたが新しい家庭教師候補?」
「はい! エリシア・ベルフォードと申します。本日はよろしくお願いいたします」
丁寧に頭を下げると、ロザリアは私を上から下まで眺め、露骨に眉をひそめた。
「……子どもじゃない」
「えっ?」
「わたくし、家庭教師を呼んでほしいと言ったのであって、お友達を呼んでほしいとは言っていなくてよ」
……うわあ。
初対面から、なかなか強烈なお言葉!
「ええと、私は十五歳ですので、ロザリア様より四つ年上になります」
「たった四つでしょう? そんな人に何を教わるというの?」
「年齢は若いですが、学院ではしっかり勉強してきました!」
「学院の成績が良いだけで、わたくしの教師が務まるとでも?」
「それは……実際に授業をしてみないと、わからないと思います」
そう答えると、ロザリアはぴくりと眉を動かした。
「ずいぶん生意気ね。男爵家の娘のくせに」
あ、これは完全に見下されている。
ゲームでも身分に厳しい子だったけれど、十一歳の時点でここまでとは……。
「申し訳ありません。でも、私は家庭教師の試験を受けに来ましたので、まずは授業をさせていただけませんか?」
「ふん。まあ、いいでしょう」
ロザリアはつまらなそうに頬杖をついた。
「ただし、つまらない授業だったらすぐに帰っていただくわ」
「はい! 頑張ります!」
「……本当にわかっているのかしら」
小さく呟いたロザリアは、机の上に置かれた本を一冊取り上げた。
「それなら、王国史について教えてちょうだい」
「王国史ですね。どの時代がよろしいですか?」
「そうね……建国初期の外交政策について」
……おお、いきなり難しいところが来た!
十一歳の授業としては、かなり高度な内容だ。
「わかりました。では、まず建国当時の周辺諸国との関係から――」
「そんなこと、知っているわ」
私が説明を始めると、ロザリアはすぐに遮った。
「初代国王が西方諸国と結んだ協定の内容も、第二代国王の外交方針も、全部覚えているもの」
「そうなんですね! それはすごいです!」
「……は?」
ロザリアが怪訝そうな顔をした。
「何を言っているの?」
「十一歳でそこまで覚えているなんて、すごいなと思いまして」
「そんなの当然でしょう? わたくしはヴァレンシュタイン公爵家の娘ですもの」
「でも、覚えるのは大変だったんじゃありませんか?」
「……別に」
ロザリアはぷいっと顔を背けた。
「その程度、できて当たり前よ」
「そうですか? 私は建国初期の条約を覚えるのに、結構苦労しましたけど」
「あなたと一緒にしないでくださる?」
「あはは、確かにそうですね」
「笑い事ではなくてよ!」
怒られてしまった。
でも、今の反応が少し気になる。
褒められた瞬間、驚いたような顔をしていたような……。
「では、せっかくですから少し考えてみませんか?」
「何を?」
「初代国王は、どうして西方諸国との協定を優先したのでしょう?」
「……そんなの、教科書に書いてあるでしょう」
「はい。でも、ロザリア様自身はどう思いますか?」
ロザリアは一瞬、言葉に詰まった。
「わたくしの考え?」
「そうです。教科書の答えではなく、ロザリア様が当時の国王だったらどうするか、聞いてみたいんです」
「……変なことを聞くのね」
「そうでしょうか?」
「普通の家庭教師なら、年号や条約の内容を答えさせるものよ」
「もちろん、それも大切です。でも、どうしてそうなったのかを考えるのも面白いと思いませんか?」
ロザリアはしばらく黙り込み、やがて机の上の地図に目を落とした。
「……西方諸国との関係を安定させなければ、東方の国境に兵を集中できなかったから、かしら」
「なるほど! 確かに、二つの方面で同時に争うのは大変ですもんね」
「それに、当時の西方諸国は交易でも重要だったはずよ。敵対するより、協力した方が利益が大きかったのではなくて?」
「そうですね。軍事面だけでなく、経済面から考えているんですね!」
「……当然よ」
そう言いながらも、ロザリアは先ほどより少しだけ姿勢を正した。
うん、やっぱりこの子、頭がいい。
それに、考えること自体は嫌いじゃなさそうだ。
「では、もし西方諸国が協定を拒否していたら、どうなったと思います?」
「そんなの、別の交易路を確保するしか……」
そこまで言いかけて、ロザリアははっとしたように口を閉じた。
「……ちょっと待って」
「はい?」
「あなた、わたくしにばかり考えさせているじゃない」
「えっ、そうですね?」
「そうですね、じゃないわ! 教師なら、あなたが説明なさい!」
……あ、気づかれた。
「すみません。でも、ロザリア様の考えが面白かったので、つい」
「面白い……?」
「はい! 私は思いつかなかった視点もありましたし」
ロザリアは一瞬だけ目を見開いたものの、すぐに顔をしかめた。
「お世辞なら結構よ。わたくしは、そんな言葉で喜ぶほど子どもではなくてよ」
「お世辞じゃありませんよ?」
「……っ、もういいわ!」
ロザリアは勢いよく本を閉じた。
「あなたの授業は終わり!」
「ええっ!? まだ時間が残っていますよ!?」
「わたくしが終わりと言ったら終わりなの!」
……うーん、これは困った。
けれど、ここで無理に続けても逆効果かもしれない。
「わかりました。では、今日はここまでにしましょう」
「ふん、最初からそうすればよろしいのよ」
「でも、一つだけお願いしてもいいですか?」
「……何よ」
「今日お話ししたこと、あとで少しだけ考えてみてください。ロザリア様なら、きっともっと面白い答えを見つけられると思うので」
ロザリアは私をじっと睨んだ。
「……あなた、本当に変な人ね」
「あはは、よく言われます!」
「褒めていないわ!」
また怒られてしまったけれど、さっきより少しだけ話せた気がする。
……気のせいかもしれないけど。
◇
「お疲れさまでした、ベルフォード様」
学習室を出ると、執事長のセバスチャンさんが待っていた。
「い、いえ……途中で授業を終わりにされてしまいました」
「そのようですね」
「やっぱり、不合格でしょうか……」
思わず肩を落とすと、セバスチャンさんは少し考えるように顎へ手を添えた。
「結果については、後日ご連絡いたします。ただ……」
「ただ?」
「お嬢様が、あれほど長く試験授業を受けられたのは久しぶりです」
「えっ、そうなんですか?」
「ええ。以前は、顔を合わせてすぐにお帰りいただいた方もおられましたから」
……それはそれで、すごい話だ。
「では、玄関までご案内いたします」
「ありがとうございます!」
私はほっと胸を撫で下ろし、セバスチャンさんの後ろについて歩き始めた。
けれど、その途中でふと気になって尋ねてみる。
「あの、セバスチャンさん」
「何でしょう?」
「ロザリア様って、普段からあんなに勉強されているんですか?」
「ええ。毎日、朝から晩まで熱心に取り組んでおられます」
「やっぱり……」
あれだけ難しい内容を理解しているのだから、相当な努力をしているはずだ。
「きっと、ご両親も喜んでいらっしゃるんでしょうね」
何気なくそう言うと、セバスチャンさんの足が一瞬だけ止まった。
「……そうであれば、よろしいのですが」
「え?」
「いえ、何でもございません」
すぐに歩き出した執事長の背中を見つめながら、私は首を傾げた。
……今の、どういう意味だろう?
けれど、それ以上尋ねることはできなかった。
玄関に到着すると、セバスチャンさんは丁寧に一礼した。
「本日はありがとうございました。結果は追ってお知らせいたします」
「こちらこそ、ありがとうございました!」
私も深く頭を下げ、公爵邸を後にした。
試験がどうなったのかはわからないけれど、一つだけ確信したことがある。
ロザリア・ヴァレンシュタインは、ただの我儘なお嬢様ではない。
確かに高慢で、身分を振りかざすところもあるけれど、勉強には真剣だし、自分の頭で考える力も持っている。
あの子が努力していることを、ちゃんと見てくれる人がいたら……。
「……また、お話しできるといいな」
そう呟きながら歩き始めた私は、数分後、見知らぬ庭園にたどり着いていた。
「……あれ?」
目の前には綺麗な噴水と、色とりどりの花々。
そして、どこを見ても出口らしきものがない。
「……ここ、どこ?」
どうやら私は、公爵邸の敷地内で迷子になってしまったらしい。
……うん。
やっぱり、家庭教師になる前に方向音痴を何とかした方がいいかもしれない。




