第1話 十五歳の家庭教師
「エリシア・ベルフォード。あなたに、家庭教師の仕事を紹介したいのですが」
「ほ、本当ですか!?」
思わず椅子から立ち上がった私を見て、マーガレット先生はくすりと笑った。
「そんなに驚かなくても。あなたが家庭教師の仕事を探しているのは知っていますから」
「だって、なかなか見つからなかったんですよ! 十五歳というだけで断られてばかりで……」
「ふふ、無理もありません。普通なら、まだ教わる側の年齢ですもの」
「それはそうなんですけど……」
ここは王立学院の教員室。つい先日、初等課程を修了した私は、卒業後の進路について相談するために訪れていた。
「それにしても、エリシア。本当に大学への進学は諦めるのですか?」
先生の問いかけに、私は小さく首を振った。
「諦めたわけじゃありません。ただ、今は難しいだけです」
「ベルフォード家の事情は聞いていますが……」
「父も母も頑張ってくれていますから。これ以上、負担をかけたくないんです」
かつてはそれなりに豊かだった我が家も、ここ数年は領地の収入が減り、財政が厳しくなっていた。
父は領地を立て直そうと奔走し、母も家計を切り詰めながら屋敷を守っている。そんな二人に高額な学費を出してほしいとは、とても言えなかった。
「だから、自分でお金を貯めようと思っているんです。大学に行くのは、それからでも遅くありませんよね?」
「もちろんです。でも、そこまでして教師になりたいのですね」
「はい! ずっと憧れていた仕事ですから!」
そう答えながら、私は三年前のことを思い出していた。
◇
「エリシア、あなた最近どうしたの?」
十二歳のある日、母が不思議そうに尋ねてきた。
「どうしたって、何がですか?」
「毎日図書室に通っているでしょう? 以前は勉強なんて、必要な分だけで十分だと言っていたのに」
「あ、あはは……ちょっと、将来のことを考えまして」
「将来?」
「私、先生になりたいんです!」
母はぽかんと口を開けた。
無理もない。つい先日まで勉強が好きでも嫌いでもなかった娘が、突然そんなことを言い出したのだから。
実はこの少し前、私は前世の記憶を取り戻していた。
日本で暮らしていた二十歳の女子大学生で、教育学部に通いながら教師を目指していた頃の記憶だ。
朝、目を覚ました瞬間にもう一つの人生が頭の中へ流れ込んできたときは、さすがに混乱したけれど、落ち着いて最初に考えたのは、やっぱり教師になりたいということだった。
「でも、先生になるならもっと勉強しないといけないでしょう?」
「それはそうね。エリシア、あなたは……」
「成績が普通なのはわかっています! だから、これから頑張るんです!」
勢いよく宣言すると、母は少し驚いたあと、優しく微笑んだ。
「そう。だったら応援するわ。でも、無理はしないでね」
「はい!」
こうして私は、勉強に打ち込むようになった。
王国の歴史や地理、算術に魔法の基礎、礼儀作法まで、教師になるために必要だと思ったことは片っ端から学んだ。
前世の知識が役立つこともあったけれど、知らないことの方がずっと多い。だからこそ、わからない問題は先生に質問し、図書室にも足繁く通った。
その努力が実を結び、三年後には学院を優秀な成績で修了することができたのだ。
……ただし、方向音痴だけはどうにもならなかった。
前世から筋金入りの方向音痴で、三年間通った学院でも教員室への道順を覚えられず、今日も二度ほど迷っている。
勉強は努力で何とかなったのに、どうして道だけは覚えられないんだろう。
◇
「エリシア?」
「はっ! すみません、ちょっと昔のことを思い出していました」
マーガレット先生の声で我に返ると、先生は懐かしそうに目を細めた。
「そういえば、あなたが急に勉強熱心になったのも三年前でしたね」
「えへへ。先生にはずいぶんお世話になりました」
「本当に。最初の頃は質問が多すぎて、授業が終わっても帰してもらえませんでしたから」
「そ、それは申し訳ありませんでした!」
「いいえ、嬉しかったですよ。あんなに一生懸命な生徒は、なかなかいませんから」
先生の言葉に、胸の奥がじんわりと温かくなる。
「だからこそ、今回のお話をあなたに紹介したいと思ったのです」
「それで、どちらのお家なんでしょうか?」
「ヴァレンシュタイン公爵家です」
「……公爵家?」
思わず声が裏返った。
「ちょ、ちょっと待ってください! 公爵家って、あの公爵家ですよね!?」
「ええ。王国でも有数の名門貴族です」
「いやいやいや! 私、男爵家の娘ですよ!? しかも十五歳ですし!」
「年齢と身分だけで判断するなら、私も紹介していません」
先生は穏やかに微笑んだ。
「ただ、少々事情がありましてね。これまで何人もの家庭教師を雇ったそうですが、誰も長続きしなかったとか」
「……えっ、それって大丈夫なんですか?」
「正直に言えば、簡単な仕事ではないでしょう」
「ですよねぇ……」
「ですが、あなたなら違った教え方ができるかもしれません」
「私が、ですか?」
「ええ。あなたは自分が理解するだけでなく、友人たちに教えることも好きだったでしょう?」
「あ、それは……はい!」
試験前にはよく友人たちと勉強会を開いていたし、わからなかった問題が解けるようになったときの嬉しそうな顔を見るのが好きだった。
「それに、あなたは相手が理解できるまで、何度でも説明の仕方を変えていましたね」
「だって、わからないままだと困るじゃないですか」
「ふふ。そういうところを評価しているんですよ」
思わず頬が熱くなった。
そんなふうに褒められると、なんだか照れくさい。
「ありがとうございます、先生! ぜひ挑戦させてください!」
「そう言うと思っていました」
マーガレット先生は微笑みながら、一枚の書類を差し出した。
「こちらが詳しい条件です。まずは採用試験を受けていただくことになります」
「はい!」
私は勢いよく返事をして、書類に目を通した。
勤務地は王都にあるヴァレンシュタイン公爵邸。住み込みではなく、当面は通いでの勤務らしい。
「担当するのは十一歳のお嬢様なんですね」
「ええ。年齢が近いことも、今回あなたを推薦した理由の一つです」
「なるほど……って、えっ!?」
報酬の欄を見た瞬間、思わず声が出た。
「先生! この金額、本当に合っています!?」
「合っていますよ」
「こ、こんなにもらえるんですか!?」
「それだけ難しい仕事だということです」
「そ、そうですよね……」
危ない危ない、思わずお金に目がくらむところだった。
でも、この金額なら大学の学費だって思ったより早く貯められるかもしれない。
気を取り直して書類の続きを確認していた私は、担当する令嬢の名前を見た瞬間、ぴたりと動きを止めた。
「ロザリア・ヴァレンシュタイン……?」
……あれ?
この名前、どこかで聞いたことがあるような。
いや、聞いたことがあるどころじゃない。
ものすごく、よく知っている名前だ。
「エリシア? どうかしましたか?」
「い、いえ……先生、一つお聞きしてもいいですか?」
「何でしょう?」
「ロザリア様って、王族の方とご縁があったりします?」
「ええ。第二王子レオンハルト殿下の婚約者候補として、幼い頃からお妃教育を受けているそうですよ」
……はい、確定。
私は心の中で頭を抱えた。
ロザリア・ヴァレンシュタインといえば、前世で友人に勧められて遊んだ乙女ゲーム『花冠の誓い』に登場する悪役令嬢ではないか!
王立学院を舞台に、主人公の少女が王子や貴族の青年たちと恋を育む物語で、ロザリアは第二王子に近づく主人公を敵視し、さまざまな嫌がらせを繰り返す。
高慢で我儘、身分を振りかざす公爵令嬢として描かれ、最後には悪事を暴かれて断罪されてしまうのだ。
細かい結末は攻略ルートによって違ったはずだけれど、幸せな未来ではなかったことだけは覚えている。
……よりにもよって、ここが乙女ゲームの世界だったなんて!
しかも、家庭教師をすることになりそうな相手が、あの悪役令嬢!?
「エリシア、本当に大丈夫ですか? 顔色が悪いようですが」
「だ、大丈夫です!」
「……やはり、辞退しますか?」
マーガレット先生の静かな声に、私は手元の書類へ視線を落とした。
ずっと憧れていた家庭教師の仕事であり、大学進学への道を開くかもしれない大切な機会。
それに、ロザリアはまだ十一歳だ。
ゲーム本編が始まるのは何年も先なのだから、今から誰かがちゃんと向き合えば、あの子の未来だって変わるんじゃないだろうか。
もちろん、簡単な話ではない。
私はまだ十五歳で、教師としての経験もないし、公爵令嬢の教育なんて失敗したらどうなるかもわからない。
それでも、子どもたちが成長する手助けをしたいという気持ちは本物だ。
未来を知っているからといって何もしないまま見過ごすのは、きっと私の目指す先生の姿じゃない。
「……いいえ、受けます。採用試験」
「本当に?」
「はい! 私、頑張ってみたいです!」
まっすぐ答えると、マーガレット先生は嬉しそうに微笑んだ。
「わかりました。では、明日の午前十時に公爵邸へ向かってください」
「明日!?」
「ええ。先方も急いでいるそうですから」
「ちょ、ちょっと急すぎませんか!?」
「ふふ。頑張ってくださいね」
先生はすでに紹介状を書き始めていて、どうやらもう後戻りはできないらしい。
私は小さく息を吐き、窓の外に広がる青い秋空を見上げた。
こうして私は、未来の悪役令嬢の家庭教師になるため、最初の一歩を踏み出したのだった。
もっとも、その直後、教員室を出た私は帰り道がわからなくなってしまった。
「……あれ? 正門って、どっちだっけ?」
十五歳、夢は立派な教師になること、目標は大学進学――そして現在、三年間通った学院で絶賛迷子中。
……こんな私で、本当に大丈夫なのかな。




