第44話 学校のない村の先生
「先生、わたくし、もう一度あの村へ行きたいですわ」
翌日の授業が始まって早々、ロザリア様はそう切り出した。
机の上には、昨日の訪問で書き留めた手帳が開かれている。どうやら昨夜も読み返していたらしく、余白には新しい文字がいくつも書き加えられていた。
「何か気になることがありましたか?」
「ええ。昨日、村の方々は毎日学校へ通うのは難しいとおっしゃっていたでしょう? でも、仕事が少ない日なら少し時間を作れるかもしれない、とも」
「そうでしたね」
「それなら、その時間に勉強できる場所を用意すればよいのではないかしら」
私は思わず笑顔になった。
「私も同じことを考えていました!」
「まあ、本当?」
「はい。ただ、問題は教えてくれる人ですね」
「……そうなのよ」
ロザリア様は手帳に目を落とした。
「先生を新しく雇うのは難しいでしょうし、王都から毎週来ていただくのも大変ですわ」
「そうですね。交通費だけでも負担になりますし、長く続けるには無理のない方法を考えないと」
「だから、村の中に教えられる方がいらっしゃらないか、調べてみたいの」
私は頷いた。
クラリスが教えてくれたことも、研究会で聞いた話も、ここで役立つかもしれない。
ただ、一つ気になることがあった。
「ロザリア様、村の方々にもう一度集まっていただくのは、負担になりませんか?」
「……あ」
ロザリア様は目を瞬かせた。
「そうね。昨日も、お仕事の途中で時間を作っていただいたのだもの」
しばらく考え込んだあと、彼女は顔を上げた。
「それなら、まず村長さんにお手紙を書いてみるわ。村の中に読み書きのできる方がいらっしゃるか、普段の暮らしに差し障りのない範囲で教えていただけないかと」
「いいですね! お返事をいただいてから、必要なら改めて伺いましょう」
「ええ。お父様にも、先にご報告しなくては」
ロザリア様はそう言うと、さっそく便箋を取り出した。
以前なら、何か思いついた途端に周囲を動かそうとしていたかもしれない。けれど今は、相手の都合や負担まで考えようとしている。
その変化が、私はとても嬉しかった。
◇
数日後、村長のトマスさんから返事が届いた。
村には読み書きのできる大人が何人かいること。そのうちの一人が、以前学校に通っていた若者で、今は村の倉庫で帳簿をつける仕事をしていること。
そして、その若者が私たちの話に興味を示していることが書かれていた。
「……先生!」
「はい、見ました!」
「この方に、お話を聞いてみたいですわ!」
ロザリア様は目を輝かせた。
私は手紙をもう一度読み返した。
若者の名前は、ノア。
年齢は十八歳で、村の学校が閉じられる前に通っていた生徒の一人らしい。
現在は農作物を保管する倉庫で働き、数量の記録や出荷の帳簿を任されているという。
「読み書きと計算ができる方なんですね」
「ええ。それに、村の学校に通っていたこともあるのですって」
「それなら、当時のお話も聞けそうですね」
ただ、教えることに慣れているとは限らない。
私はその点をロザリア様に伝えた。
「もちろん、いきなり先生になっていただくわけにはいきません。でも、もし協力していただけるなら、心強いですね」
「ええ。まずはお話を聞いてみましょう」
公爵様への報告を済ませ、村長さんとも日程を調整したうえで、私たちは再び村を訪れることになった。
◇
「お嬢様、こちらがノアです」
村の集会所で紹介された青年は、少し緊張した様子で頭を下げた。
「ノアと申します。本日はよろしくお願いいたします」
明るい茶色の髪を短く整えた、穏やかな雰囲気の青年だった。作業着の袖口には、仕事でついたらしい薄い汚れが残っている。
「こちらこそ、お時間をいただきありがとうございます」
ロザリア様が丁寧に礼をすると、ノアは少し驚いたように顔を上げた。
「……いえ。僕の方こそ、こんな話をいただけるとは思っていませんでした」
「学校に通っていらしたと伺いました。よろしければ、その頃のお話を聞かせていただけませんか?」
「はい。もちろんです」
ノアは少し懐かしそうに微笑んだ。
「僕が通っていた頃は、村の子どもたちが十人くらいずつ、時間を分けて集まっていました。畑の仕事が忙しい子もいたので、毎日来る子ばかりではなかったですけど」
「……そうだったのですね」
「先生は一人で、文字や計算を教えてくれました。僕はあの学校が好きでした」
ノアはそこで少しだけ視線を落とした。
「でも、先生が町へ行ってしまって、学校は閉じられました。仕方のないことだったと思います」
「……どうして、そう思われるのですか?」
ロザリア様が尋ねる。
「先生にも生活がありますから。村の学校だけでは、十分なお金を払えなかったんです」
その言葉に、私は胸が少し痛くなった。
教える側にも生活がある。
それは、研究会でも何度も話題になっていたことだった。
「……ノアさんは、今も学校があった方がよいと思われますか?」
ロザリア様の質問に、ノアは少し考え込んだ。
「そうですね……僕は、あってよかったと思っています」
「……はい」
「今、帳簿の仕事ができるのも、あの学校で文字や計算を教わったからです。もし通っていなかったら、僕も畑仕事しかできなかったかもしれません」
ノアは少し照れたように笑った。
「もちろん、畑仕事が嫌いなわけじゃないですよ。でも、選べる仕事が増えたのは、ありがたかったです」
私は思わず頷いた。
学ぶことは、今すぐ役に立つ知識を得るだけではない。
将来の選択肢を増やすことにもつながるのだ。
「……ノアさん」
ロザリア様が少し身を乗り出した。
「もし、村の子どもたちに文字や計算を教える機会があったら、協力していただけますか?」
ノアは驚いたように目を見開いた。
「……僕が、ですか?」
「はい。もちろん、お仕事に差し障りのない範囲で構いません」
ノアはしばらく黙っていた。
そして、困ったように笑った。
「……正直に言うと、自信はありません」
「……そう、ですか」
「僕は先生じゃありませんし、子どもたちに教えたこともほとんどないんです」
ロザリア様は少し残念そうな顔をしたけれど、すぐに頷いた。
「……そうですよね。突然、お願いしてしまって申し訳ありません」
「いえ! 嫌というわけではないんです」
ノアは慌てて首を振った。
「ただ、僕にできるのかどうか……」
私はそこで、そっと口を開いた。
「ノアさん、一つお聞きしてもいいですか?」
「はい?」
「もし、教える内容や進め方を一緒に考える人がいたら、どうでしょう?」
ノアは少し考え込んだ。
「……それなら、少しはできるかもしれません」
「例えば、最初は文字の読み方や、簡単な計算だけに絞るんです。難しいことを全部教えようとする必要はありません」
「……なるほど」
「もちろん、実際に始める前に練習も必要ですし、困ったときに相談できるようにしたいと思っています」
ノアはゆっくりと頷いた。
「……それなら、やってみたいです」
ロザリア様の表情がぱっと明るくなった。
「本当ですか?」
「はい。ただ、毎日は無理です。倉庫の仕事がありますから」
「もちろんです。毎日でなくても構いません」
ロザリア様は嬉しそうに微笑んだ。
「週に一度だけでも、子どもたちが勉強できる時間を作れたらと思っています」
ノアは少し驚いたように顔を上げた。
「……週に一度?」
「ええ。村の方々のお仕事もありますし、無理のない範囲で始めたいのです」
ノアはしばらく考え込んだあと、静かに頷いた。
「……それなら、僕も時間を作れるかもしれません」
◇
そのあと、私たちは村長さんも交えて、集会所を使える日や子どもたちが集まりやすい時間について話し合った。
もちろん、すぐに決められることばかりではない。
集会所は村の会合にも使われているし、ノアの仕事の都合もある。子どもたちの家族がどう考えるかも、まだ確認しなければならなかった。
「……でも、少しだけ形が見えてきましたわね」
ロザリア様が小さく呟いた。
「そうですね」
私は微笑んだ。
学校を建て直すのではなく、今ある集会所を使う。
新しい先生を雇うのではなく、村の中で教えられる人に協力してもらう。
毎日ではなく、週に一度だけ。
それなら、少なくとも最初の一歩は踏み出せるかもしれない。
けれど、そのときだった。
「……あの、お嬢様」
村長のトマスさんが、少し困ったように口を開いた。
「一つ、申し上げてもよろしいでしょうか」
「はい。何でしょう?」
「その……教室を開くこと自体には、反対いたしません。ただ、村の者が皆、喜ぶとは限らないのです」
ロザリア様が目を瞬かせた。
「……どういうことでしょう?」
「学校が閉じられたとき、村ではいろいろな意見がありました。勉強は必要だという者もいれば、今の暮らしで精いっぱいなのに、そんなことに時間を使えるかという者もいて……」
トマスさんは少し言いにくそうに続けた。
「もし教室を開くなら、来られない子がいても責めないでいただきたいのです」
私は思わず息を呑んだ。
学校を作ることが善意でも、それが新しい負担になってしまうことはある。
「……もちろんです」
ロザリア様は静かに答えた。
「来られない子を責めるつもりはありません。ご家庭の事情があることは、昨日のお話でよくわかりました」
トマスさんは少し安心したように頷いた。
「……ありがとうございます」
「それに、わたくしたちも、まだ試してみたいと考えているだけです。皆様のお話を聞きながら、無理のない方法を探したいと思っています」
その言葉に、ノアも小さく頷いた。
「……僕も、できることから始めたいです」
ロザリア様は嬉しそうに微笑んだ。
「ありがとうございます」
◇
話し合いを終えて集会所を出ると、外には数人の子どもたちが集まっていた。
その中に、見覚えのある少女がいる。
「あっ! お姫様!」
「……ミナ!」
ロザリア様が驚いたように声を上げた。
ミナは元気よく駆け寄ってきた。
「また来たんだ!」
「ええ。今日は、村の学校についてお話を聞きに来たの」
「学校?」
ミナは首を傾げた。
「またできるの?」
ロザリア様は少し考えてから、しゃがんでミナと目線を合わせた。
「まだ、わからないわ。でも、少しだけ勉強できる時間を作れないか、考えているの」
「……本当?」
「ええ。もしできたら、ミナも来てくれる?」
ミナはぱっと顔を明るくした。
「行く! 文字、教えてくれる?」
「ええ。きっと」
ロザリア様はそう答えかけて、少しだけ言葉を止めた。
「……いいえ。まだ、お約束はできないけれど」
そして、優しく微笑んだ。
「できるように、頑張ってみるわ」
ミナは少し不思議そうに首を傾げたあと、にっと笑った。
「じゃあ、待ってる!」
そう言って、友達のところへ走っていった。
ロザリア様はその背中を、しばらく見つめていた。
「……先生」
「はい?」
「わたくし、あの子に勉強する楽しさを知ってほしいです」
「……はい」
「でも、あの子だけではなくて、ほかの子たちにも。来られる子も、来られない子も、いつか学べるようになったらいいと思います」
私は微笑んだ。
「素敵な目標ですね」
「……まだ、できるかわからないけれど」
「だからこそ、少しずつですね」
ロザリア様は小さく頷いた。
◇
帰りの馬車の中、ロザリア様は手帳を開き、今日の話し合いを整理していた。
「……先生」
「はい?」
「わたくし、ようやく少しわかってきた気がします」
「何がですか?」
「学校を作ることが目的ではなくて、子どもたちが学べるようにすることが大切なのですね」
私は嬉しくなって頷いた。
「はい。そのとおりだと思います」
「それなら、まずは週に一度だけでも、勉強できる時間を作ってみたいです」
「いいですね」
「でも、ノアさんに無理をさせてはいけませんし、村の方々にもご迷惑をかけたくありません」
ロザリア様は真剣な表情で続けた。
「だから、きちんと準備して、お父様にご相談したいと思います」
「……はい。一緒に考えましょう」
私は微笑んだ。
村の中には、学びたいと思っている子どもがいる。
そして、教えることに協力したいと思っている人もいる。
その二つをつなぐことができれば、小さな教室を始められるかもしれない。
けれど、続けていくためには、まだ考えなければならないことがたくさんある。
(……さて、次は公爵様へのご相談だね)
私は隣で真剣に手帳を見つめるロザリア様を見ながら、心の中でそっと頷いた。
学校のない村に、小さな学びの場所を作る。
そのための道筋が、ようやく少しだけ見えてきた気がした。




