第43話 公爵令嬢、村の声を聞く
「先生、こちらの服装で本当によろしいのかしら?」
「はい。とてもお似合いですよ」
「そういうことではなくて……」
ロザリア様は鏡に映る自分の姿を見つめながら、困ったように眉を寄せた。
今日の彼女は、いつもの華やかなドレスではなく、飾りを抑えた淡い水色のワンピースを身につけている。もちろん、公爵令嬢として恥ずかしくない仕立てではあるけれど、村を歩くことを考えて裾は短めに整えられ、靴も歩きやすいものを選んでいた。
「村の方々にお会いするのに、これでも立派すぎるのではないかと思って」
「確かに、普段の村の方々とは違う服装かもしれません。でも、無理に村の人と同じ格好をする必要はないと思いますよ」
「……そうなの?」
「はい。大切なのは服装よりも、相手のお話をきちんと聞くことですから」
私がそう答えると、ロザリア様は小さく頷いた。
「……そうね。今日は、そのために行くのですもの」
公爵様から村への訪問を許可されてから、数日が経っていた。
領地の管理を担当する職員が村と日程を調整し、私たちはようやく現地へ向かうことになったのだ。
今回の目的は、学校を再開すると約束することではない。村の暮らしや子どもたちの状況を知り、どんな支援が必要なのかを考えるための調査だった。
「それでは、お嬢様。馬車の準備が整っております」
セバスチャンさんの声に、ロザリア様は背筋を伸ばした。
「ええ。参りましょう、先生」
「はい!」
私は笑顔で頷き、彼女と一緒に部屋を出た。
◇
馬車に揺られること、しばらく。
王都から離れるにつれて、窓の外には広い畑や小さな森が増えていった。
「……思っていたより、遠いのね」
「そうですね。毎日通うとなると、なかなか大変そうです」
「学校が閉じられる前は、先生もこの道を通っていらしたのかしら」
「どうでしょう。村に住んでいたのかもしれませんし、近くの町から通っていたのかもしれませんね」
「……それも、聞いてみたいわ」
ロザリア様は膝の上に置いた手帳を開き、何かを書き加えた。
今日の彼女は、朝からずっと真剣な表情をしている。
緊張しているのだろうと思ったけれど、無理に話しかけることはしなかった。
やがて馬車が緩やかに速度を落とし、御者の声が聞こえた。
「まもなく村に到着いたします」
窓の外に目を向けると、畑の向こうに小さな家々が見えてきた。
石造りの建物もあるけれど、多くは木造の素朴な家だ。道はきれいに整えられている場所もあれば、雨が降ればぬかるみそうな場所もある。
村の入口には、数人の大人たちが集まっていた。
「……あの方々が、村の人たち?」
「そうみたいですね」
ロザリア様は小さく息を吸い、手帳を閉じた。
◇
「本日はお越しいただき、ありがとうございます」
馬車を降りると、白髪交じりの男性が深々と頭を下げた。
村長のトマスさんだという。
その隣には、領地の管理を担当する職員が立っていた。
「こちらこそ、お時間をいただきありがとうございます」
ロザリア様が丁寧に礼をすると、トマスさんは少し驚いたように顔を上げた。
「い、いえ、とんでもございません。公爵家のお嬢様にお越しいただけるとは、村の者も驚いております」
「今日は、皆様のお話を伺いたくて参りました。どうぞ、普段どおりにお話しください」
「は、はあ……」
トマスさんは困ったように頷いた。
私はその様子を見て、少しだけ胸の奥が重くなった。
(……やっぱり、簡単にはいかないよね)
相手は公爵家の令嬢だ。いくら普段どおりにと言われても、緊張しない方が難しい。
そのことは、ロザリア様も感じ取ったらしい。
「……先生」
小さな声で呼ばれ、私は彼女に顔を向けた。
「はい?」
「わたくし、少し緊張させてしまっているみたい」
「そうですね。でも、焦らなくて大丈夫ですよ」
私は声を落として答えた。
「まずは村を案内していただきましょう。お話は、その中で少しずつ聞いていけばいいと思います」
ロザリア様は小さく頷いた。
◇
村長さんに案内され、私たちは村の中を歩いた。
畑では大人たちが作業をしていて、その近くでは子どもたちが籠を運んだり、収穫した野菜を仕分けたりしている。
「……子どもたちも、お仕事をしているのね」
ロザリア様が小さく呟いた。
「ええ。今は収穫の時期ですからな。家族総出で働いております」
トマスさんが答える。
「学校があった頃も、忙しい時期は休む子が多かったのです。特に年長の子は、家の仕事を任されますから」
「……そうなのですね」
ロザリア様は真剣な表情で頷いた。
そのとき、少し離れたところから声が聞こえた。
「こら、ミナ! そっちの籠も運んでおくれ!」
「はーい!」
元気な返事とともに、小柄な少女が大きな籠を抱えて走ってきた。
年齢は十歳くらいだろうか。茶色い髪を後ろで結び、頬には少し泥がついている。
少女は私たちに気づくと、慌てて足を止めた。
「……あっ」
そして、ロザリア様の服装を見て目を丸くした。
「……お姫様?」
「えっ?」
ロザリア様が思わず声を上げた。
私は吹き出しそうになるのをこらえた。
「ミナ! 失礼なことを言うんじゃない!」
近くにいた女性が慌てて駆け寄ってきた。
「申し訳ございません、お嬢様! この子、礼儀を知らなくて……」
「い、いえ。お気になさらないでください」
ロザリア様は少し戸惑いながらも、微笑んだ。
「わたくしはロザリアと申します。あなたはミナというのね?」
「……うん」
少女は少し警戒したように頷いた。
「ミナは、今、お仕事をしているの?」
「うん。お母ちゃんの手伝い」
「そうなのね。偉いわね」
ロザリア様がそう言うと、ミナは少しだけ胸を張った。
「だって、あたしがやらないと、お母ちゃん大変だもん」
「……そう」
ロザリア様は小さく頷いた。
それから、少し迷うように私を見た。
私はそっと頷き返す。
「……ミナ、一つ聞いてもよいかしら?」
「なあに?」
「あなたは、勉強をしたいと思うことはある?」
ミナはきょとんとした顔をした。
「……勉強?」
「ええ。文字を読んだり、数を数えたりすることよ」
「ああ、それなら……」
ミナは少し考えたあと、にっと笑った。
「文字、読めるようになりたい!」
「……本当?」
「うん! 町に行くと、看板とかいっぱいあるでしょ? あれ、何て書いてあるのか知りたいんだ」
ロザリア様の表情が明るくなった。
「そうなのね!」
「それに、お母ちゃんが持ってる手紙も読んでみたいし……」
そこまで言って、ミナは少し声を小さくした。
「でも、勉強してる時間なんてないよ」
「……え?」
「だって、畑の手伝いしなきゃいけないし、弟の面倒も見ないといけないもん」
ミナは当たり前のことのように言った。
「学校があった頃は、お兄ちゃんが行ってたんだって。でも、あたしは小さかったから、あんまり覚えてない」
「……そうなのね」
ロザリア様は少し言葉に詰まった。
ミナの母親が申し訳なさそうに頭を下げる。
「すみません、お嬢様。この子には家の仕事を手伝わせておりまして……」
「い、いえ。謝らないでください」
ロザリア様は慌てて首を振った。
「ご家族のお手伝いも、大切なことですもの」
そして、ミナに向き直った。
「もし、少しだけでも勉強できる時間があったら、あなたは嬉しい?」
ミナはぱっと顔を上げた。
「うん! でも、毎日は無理だよ」
「……毎日でなくても?」
「うん。たまになら、お母ちゃんもいいって言うかもしれない」
その言葉に、ロザリア様は何かを考えるように黙り込んだ。
◇
村を一通り見て回ったあと、私たちは集会所へ案内された。
中には、村長さんのほかに数人の大人たちが集まっていた。
農家の男性、幼い子を連れた女性、年配の職人らしい人もいる。
「本日はお忙しい中、お集まりいただきありがとうございます」
ロザリア様が丁寧に礼をすると、村人たちは一斉に頭を下げた。
「……どうぞ、お顔を上げてください」
ロザリア様は少し困ったように微笑んだ。
私は隣で見守りながら、彼女が用意してきた質問を思い出していた。
学校が必要かどうか。子どもたちは何を学びたいのか。家族の仕事との両立はできるのか。
どれも大切な質問だけれど、答える側が緊張していては、本当の気持ちは聞けないかもしれない。
「……あの」
ロザリア様が口を開いた。
「今日は、皆様にお願いがあって参りました」
村人たちが顔を上げる。
「わたくしは、村の学校について調べています。でも、まだ何もわかっていないことばかりです」
ロザリア様は一度、深く息を吸った。
「ですから、皆様が普段どんな暮らしをされているのか、子どもたちがどんなことに困っているのか、教えていただきたいのです」
少しの沈黙が流れた。
やがて、年配の男性が遠慮がちに手を挙げた。
「……お嬢様、一つよろしいでしょうか」
「はい。何でしょう?」
「学校をもう一度開いてくださる、ということでしょうか」
ロザリア様はすぐには答えなかった。
私は彼女の横顔を見つめる。
公爵様から言われた条件を、彼女はきちんと覚えているはずだ。
「……いいえ」
ロザリア様は静かに答えた。
「今日は、そのお約束をするために来たのではありません」
村人たちの間に、わずかなざわめきが広がった。
「学校を開くことが本当に皆様のためになるのか、わたくしにはまだわかりません。だから、まずはお話を聞かせていただきたいのです」
その言葉に、村長さんがゆっくりと頷いた。
「……そういうことでしたか」
少しだけ、場の空気が変わった気がした。
けれど、その直後だった。
「……お嬢様」
集まっていた女性の一人が、おずおずと口を開いた。
「学校ができるのは、ありがたいことだと思います。でも……」
「……でも?」
「子どもたちが学校に行くようになったら、家の仕事は誰がするのでしょうか」
その言葉に、集会所が静まり返った。
女性は困ったように手を握りしめた。
「勉強させてやりたい気持ちはあります。でも、今の暮らしで精いっぱいなんです。子どもが一人抜けるだけでも、困る家は多いと思います」
ロザリア様は何も言わず、女性の話を聞いていた。
「それに、前の学校が閉じられたときも、村の者はどうすることもできませんでした。先生に払うお金も、建物を直すお金もなくて……」
女性はそこで言葉を切った。
私は胸の奥が少し痛くなった。
(……やっぱり、そうだよね)
学校があれば、子どもたちは学べる。
でも、そのために家族の暮らしが成り立たなくなるのなら、簡単に賛成できるはずがない。
「……お話ししてくださって、ありがとうございます」
ロザリア様が静かに言った。
女性は驚いたように顔を上げた。
「……え?」
「わたくし、そこまで考えられていませんでした。学校があればよいと、どこかで思っていたのかもしれません」
ロザリア様は少しだけ俯いたあと、顔を上げた。
「でも、皆様の暮らしを苦しくしてまで学校を作ることが、本当によいことなのか……今は、わかりません」
その声は、少し震えていた。
けれど、彼女は目を逸らさなかった。
「だから、もう少し教えていただけませんか。子どもたちが勉強できるとしたら、どんな時間なら無理がないのか。どんなことを学べたら、皆様の暮らしに役立つのか」
しばらく沈黙が流れた。
やがて、先ほどの女性が小さく口を開いた。
「……毎日は、難しいと思います」
「はい」
「でも、仕事が少ない日なら……少しだけなら、時間を作れるかもしれません」
ロザリア様は真剣な表情で頷いた。
「……ありがとうございます」
私はその様子を見守りながら、静かに息を吐いた。
今日、私たちは学校を再開する方法を見つけたわけではない。
それでも、初めて村の人たちの本当の声を聞くことができた。
そして、その声を聞いたロザリア様は、きっとまた新しいことを考え始めるのだろう。
◇
帰りの馬車の中、ロザリア様はしばらく黙っていた。
膝の上には、村で書き留めた手帳がある。
「……先生」
「はい?」
「わたくし、少し恥ずかしくなりました」
「……どうしてですか?」
「学校を作ることが、きっと村の人たちのためになると思っていたからです」
ロザリア様は手帳を見つめた。
「でも、勉強したくても時間がない子もいるし、子どもたちに仕事を手伝ってもらわなければ困るご家庭もあるのね」
「……そうですね」
「わたくしは、今までそんなことを考えたこともありませんでした」
私は少し考えてから、口を開いた。
「でも、今日知ることができましたよ」
「……え?」
「知らなかったことを恥ずかしく思う必要はありません。大切なのは、知ったあとにどうするかだと思います」
ロザリア様はゆっくりと顔を上げた。
「……そう、かしら」
「はい。それに、ロザリア様は今日、村の方々のお話を最後まで聞いていらっしゃいました」
「……それだけですわ」
「その『それだけ』が、とても大事なんですよ」
私は微笑んだ。
「もし最初から学校を作ると決めつけていたら、あの方たちも本当のことを話しにくかったかもしれません」
ロザリア様はしばらく考え込んだあと、小さく頷いた。
「……先生」
「はい?」
「わたくし、もう一度、村のことを考えてみたいです」
「もちろんです」
「学校を作ることだけではなくて、子どもたちが少しでも勉強できる方法を」
私は嬉しくなって、大きく頷いた。
「はい! 一緒に考えましょう」
窓の外では、夕日に照らされた畑がゆっくりと遠ざかっていく。
ミナの明るい笑顔と、集会所で聞いた大人たちの切実な言葉が、頭から離れなかった。
学校がなくても、学ぶことはできる。
けれど、学ぶためには時間も、教える人も、家族の理解も必要なのだ。
(……さて、ここからが本番だね)
私は隣に座るロザリア様を見つめた。
彼女はもう、手帳を開いて何かを書き始めている。
その横顔は、村へ向かう前よりも、少しだけ頼もしく見えた。




