第40話 公爵令嬢は直談判する
「……先生、もう一度だけ確認してもいいかしら」
「もちろんです。でも、これで五回目ですよ?」
「回数の問題ではありませんわ!」
ロザリア様は頬を膨らませながら、机の上に並べた資料へ視線を戻した。
午後のお茶の時間を少し過ぎた頃、私たちは公爵様との面会に備えて、最後の確認をしていた。
昨日まとめた調査計画は、質問の内容を整理し直し、村へ行く目的や確認したいことを一枚の紙に書き出したものだ。難しい言葉はできるだけ避け、ロザリア様が自分の言葉で説明できるようにしてある。
「まず、学校をすぐに再開してほしいとお願いするわけではないのよね」
「はい。今回は、村の人たちのお話を聞くための許可をいただくんです」
「それから、勝手に村の人たちを集めたりしないこと」
「そうですね。皆さんにもお仕事や生活がありますから」
「……わかっているわ」
そう答えながらも、ロザリア様の指先は落ち着かない様子で紙の端をなぞっていた。
(……やっぱり、緊張しているよね)
最近は公爵様と話す機会も増えてきたけれど、お願い事をするとなれば話は別だ。しかも今回は、領地の運営に関わることを自分から申し出ようとしている。
「ロザリア様、大丈夫ですよ。全部完璧に説明しなくても、わからないことは一緒に考えればいいんですから」
「……先生は、いつもそう言うのね」
「だって、本当のことですから」
「でも、お父様は先生ほど甘くありませんもの」
「それは……否定できませんね」
私が苦笑すると、ロザリア様も少しだけ笑った。
「ただ、今日はお母様も同席なさるそうですわ」
「公爵夫人も?」
「ええ。お父様が、わたくしから大事な話があると伝えたらしいの」
それは少し意外だった。
公爵夫人とはこれまで挨拶を交わす機会こそあったものの、ゆっくり話したことはほとんどない。ロザリア様も、母親と長い時間を過ごしている様子はあまり見せなかった。
「……お母様は、何とおっしゃるかしら」
ロザリア様がぽつりと呟く。
「それは、実際にお話ししてみないとわかりませんね」
「そうね……」
私は少し迷ってから、彼女に微笑みかけた。
「でも、ロザリア様が一生懸命考えたことは、きっと伝わりますよ」
「……そうだといいのだけれど」
そのとき、扉が控えめに叩かれた。
「お嬢様、旦那様がお待ちでございます」
セバスチャンさんの声だった。
ロザリア様は一度大きく息を吸い、資料を両手で抱えた。
「……行きましょう、先生」
「はい!」
私は立ち上がり、彼女の後ろに続いた。
◇
公爵様の執務室に入ると、いつもの大きな机の向こうに公爵様が座っていた。
そして窓際の長椅子には、淡い青色のドレスをまとった公爵夫人の姿がある。
「お父様、お母様。お時間をいただき、ありがとうございます」
ロザリア様が丁寧に頭を下げると、公爵様は小さく頷いた。
「構わん。座りなさい」
「はい」
私は一歩下がった位置に立とうとしたけれど、公爵様から椅子を勧められたので、ロザリア様の隣に腰を下ろした。
公爵夫人は娘の手元にある資料を見つめている。
「ロザリア、今日は何かお願いがあるのですって?」
「はい、お母様」
「新しい本かしら。それとも、どこかへ出かけたいの?」
「……村へ行きたいのです」
公爵夫人の表情がわずかに変わった。
「村?」
「はい。領地にある、以前学校が閉じられた村です」
ロザリア様は資料を机の上に置き、背筋を伸ばした。
「わたくしは、その村の人たちに、今の暮らしや子どもたちの勉強についてお話を伺いたいと思っています」
「……学校の件か」
公爵様が口を開いた。
「以前から調べているとは聞いている。だが、なぜお前自身が村へ行く必要がある?」
最初から核心を突く質問だ。
ロザリア様は少し緊張した様子だったけれど、目を逸らさずに答えた。
「資料だけでは、わからないことがあるからです」
「例えば?」
「学校が閉じられる前、子どもは二十七人ほどいたそうですが、今も同じ人数とは限りません。それに、学校へ通いたくても通えない子がいるのか、それとも勉強する必要を感じていないのかも、わかっていません」
公爵様は黙って耳を傾けていた。
「わたくしは、最初、学校をもう一度開けばよいと思っていました。でも、それだけでは駄目なのだとわかったのです」
「……ほう」
「先生が研究会で聞いてきたお話では、授業の時間を変えたり、別のお仕事と組み合わせたりする方法もあるそうです。ですが、その村で同じことができるかどうかは、まだわかりません」
ロザリア様は一度言葉を切った。
「ですから、まず村の人たちのお話を聞かせていただきたいのです」
公爵様はしばらく資料を眺めていた。
「学校を再開する許可が欲しいわけではないのだな」
「はい。今はまだ、何が必要なのかを調べたいと思っています」
その答えを聞いて、公爵様がわずかに眉を上げた。
「……以前のお前なら、すぐに学校を開けと言っていただろうな」
「……そうかもしれません」
ロザリア様は少し恥ずかしそうに俯いたものの、すぐに顔を上げた。
「でも、わたくしが開きたいと思っているだけでは、村の人たちが困ってしまうかもしれませんから」
私は隣で、思わず微笑んでしまった。
(……ロザリア様、本当に成長したなあ)
以前なら、自分の考えが正しいと信じて疑わなかった彼女が、今は相手の立場を考えながら話している。
公爵様もそれを感じ取ったのか、少しだけ表情を和らげた。
「考えはわかった。だが、村へ行けばよいというものでもない」
「はい」
「領民にはそれぞれ仕事がある。公爵家の娘が来るとなれば、迎えるために準備をする者もいるだろう。調査のつもりが、かえって負担をかける可能性もある」
「……それについても、考えました」
ロザリア様は資料の一枚を差し出した。
「大勢の人を集めていただくのではなく、村の方々のお仕事の邪魔にならない範囲で、少しずつお話を伺いたいと思っています」
「誰に話を聞くつもりだ?」
「まずは村長、それから子どものいるご家庭の方々です。でも、村長のお話だけで決めず、できれば子どもたちにも直接聞いてみたいと思っています」
「……子どもにも?」
「はい。勉強するのは子どもたちですもの」
公爵様は少し意外そうな顔をした。
その隣で、公爵夫人が静かに口を開く。
「でも、ロザリア。あなたが直接話を聞いたところで、村の人たちが本当のことを言ってくれるとは限らないでしょう?」
ロザリア様が母親へ顔を向けた。
「……はい。それも、心配しています」
「あら」
公爵夫人は少し驚いたようだった。
「あなたは公爵家の娘なのよ。学校を開きたいと言って訪ねれば、領民は反対しにくいでしょうし、あなたの気分を害さないように話すかもしれないわ」
「ですから、最初から学校を開きたいとは言わず、今の暮らしについてお話を聞くつもりです」
「それでも、相手はあなたの立場を知っているでしょう?」
「……そうですね」
ロザリア様は少し考え込んだ。
私は助け舟を出そうか迷ったけれど、彼女がまだ自分で考えているようだったので、黙って見守ることにした。
「それなら……村の方々が、わたくしには言いにくいことを話せるように、別の方にも協力していただくのはどうでしょうか」
「別の方?」
「村の事情を知っていて、皆さんが安心してお話しできる方です。わたくしが直接聞くことだけにこだわらなければ、もっといろいろな意見を集められるかもしれません」
公爵夫人は娘を見つめた。
「……そういうことまで考えていたのね」
「いえ、今、お母様のお話を聞いて思いついたのです」
ロザリア様は少し照れたように微笑んだ。
「ありがとうございます、お母様」
「……ええ」
公爵夫人は一瞬、返事に迷ったようだった。
私はそのやり取りを見て、胸の奥が少し温かくなるのを感じた。
◇
「ベルフォード嬢」
公爵様に呼ばれ、私は姿勢を正した。
「はい」
「この調査計画には、君も関わっているのだな」
「はい。最初の質問案は私が作りましたが、ロザリア様と一緒に見直しました」
「なるほど。では、実際に村へ行く場合、君も同行するつもりか?」
「もちろんです。ロザリア様お一人にお任せするつもりはありません」
「そうか」
公爵様は少し考えてから、再びロザリア様に目を向けた。
「では、もう一つ聞こう。調査をして、村の人たちが学校を必要としていないとわかったら、どうする?」
ロザリア様はすぐには答えなかった。
私は隣で、彼女がどんな言葉を選ぶのかを待った。
「……そのときは、学校を開くことは諦めます」
公爵様の目がわずかに細くなった。
「本当に、それで納得できるのか?」
「……きっと、残念だとは思います」
ロザリア様は膝の上で手を握りしめた。
「でも、わたくしが望んでいるからといって、村の人たちに無理をさせるのは違うと思うのです」
「……」
「ただ、もし学校という形ではなくても、勉強したい子どもがいるのなら、その子たちが学べる方法を考えてみたいです」
その言葉に、公爵様はしばらく沈黙した。
やがて、机の上の資料を丁寧に重ねる。
「……よく考えたな、ロザリア」
「お父様……?」
「以前のお前なら、ここまで話を聞こうとはしなかっただろう」
ロザリア様は少し驚いたように目を見開いた。
「だが、考えが変わったことはわかった。ならば、その先も自分の目で確かめてみるといい」
「……それでは!」
「ただし、条件がある」
公爵様は指を一本立てた。
「村への訪問は、こちらで日程を調整する。領民に余計な負担をかけないよう、領地の管理を任せている者にも同行させる」
「はい!」
「それから、村の人たちに学校の再開を約束してはならん。調査で得た話は、良いことも悪いことも、隠さず報告すること」
「……わかりました」
「最後に、ベルフォード嬢の指示には従うこと。慣れない場所で勝手な行動を取るのは許さん」
「もちろんですわ!」
勢いよく答えたロザリア様に、公爵様はわずかに口元を緩めた。
「……ならば、調査を許可しよう」
「ありがとうございます、お父様!」
ロザリア様が立ち上がり、深々と頭を下げた。
私も慌てて立ち上がる。
「ありがとうございます、公爵様。責任を持って同行いたします」
「頼んだぞ、ベルフォード嬢」
「はい!」
胸の奥に、じんわりと喜びが広がっていく。
まだ学校を開けると決まったわけではない。それでも、ロザリア様が自分の考えを伝え、行動するための許可を得られたことが、私は何より嬉しかった。
◇
執務室を出ようとしたとき、公爵夫人がロザリア様を呼び止めた。
「ロザリア、少しいいかしら」
「はい、お母様」
公爵夫人はゆっくりと立ち上がり、娘の前へ歩み寄った。
「先ほどの説明、よく準備していたわね。質問にも落ち着いて答えられていたわ」
「……ありがとうございます」
ロザリア様はすぐに背筋を伸ばし、いつものように丁寧に頭を下げた。
その姿を見て、公爵夫人がわずかに目を伏せる。
「……あなたは昔から、そうだったわね」
「え?」
「礼儀作法も勉強も、わたくしたちが求めることには一生懸命取り組んでいた。できなかったことがあれば、次には必ずできるようにしようとして……」
ロザリア様は戸惑ったように母親を見上げた。
「それは、公爵家の娘として当然のことですもの」
迷いなく返された言葉に、公爵夫人の表情がかすかに揺れた。
「……ええ。わたくしも、ずっとそう言ってきたわ」
その声は、先ほどまでより少し小さかった。
「あなたが良い成績を取っても、作法を身につけても、もっと上を目指しなさいと言ってばかりいたわね」
「……はい」
「それがあなたのためになると、信じていたの」
ロザリア様は何と答えればいいのかわからない様子で、手元の資料を握り直した。
私は二人の間に流れる空気を感じながら、口を挟まずにいた。
公爵夫人は少し間を置いてから、静かに続けた。
「今日のあなたは、わたくしたちに言われたことを説明していたのではなかったわ。自分で調べて、自分で考えて、反対されるかもしれないとわかっていても、きちんと話そうとしていた」
「……お母様」
「わたくしは、それを少し意外に思ってしまったの。でも、考えてみれば、あなたが何をしたいのか、これまであまり尋ねてこなかったのよね」
ロザリア様は目を見開いた。
「……わたくしは、お父様とお母様に認めていただきたくて、ずっと頑張ってきました」
小さな声だった。
「でも、どれだけ頑張っても、まだ足りないのだと思って……だから、もっと頑張らなければいけないのだと」
公爵夫人は何も言わなかった。
ロザリア様は慌てたように首を振る。
「あっ、違うのです! お父様やお母様を責めたいわけではありませんわ。わたくしがもっと立派になればよかっただけで……」
「……ロザリア」
公爵夫人が静かに娘の名を呼んだ。
「それ以上、自分を責めなくてもいいわ」
「……え?」
「あなたが努力していたことは、知っていたつもりだったの。でも、その努力をどう感じているのかまでは、考えていなかったのかもしれないわね」
公爵夫人は一度言葉を切った。
「わたくしたちは、あなたに厳しく接することが、あなたを立派な公爵令嬢に育てるために必要だと思っていたわ。けれど、今日のあなたを見て、少し考えさせられたの」
「……」
「あなたは、わたくしたちに言われなくても、自分で考え、行動しようとしているのね」
ロザリア様の唇が、わずかに震えた。
「……先生が、教えてくださったんです」
「エリシア先生が?」
「はい。先生は、わたくしが間違えても、どうしてそう考えたのかを聞いてくださいます。うまくできなかったときも、次はどうすればいいか、一緒に考えてくださるんです」
ロザリア様は私を振り返った。
「それに……わたくしが頑張ったとき、ちゃんと褒めてくださるんです」
胸の奥が、きゅっとなった。
「……ロザリア様」
「だから、わたくしも、自分で考えてみようと思えるようになったのです」
公爵夫人はしばらく娘を見つめていた。
やがて、私へと視線を向ける。
「……ベルフォード先生。娘のことを、ありがとうございます」
「い、いえ。私は……」
いつものように謙遜しかけて、私は言葉を止めた。
ここで何でもないことのように答えてしまうのは、少し違う気がしたからだ。
「ロザリア様は、本当に努力家でいらっしゃいます。難しいことにも諦めずに取り組まれますし、最近は、ご自分の考えを伝えることも上手になってきました」
公爵夫人は黙って耳を傾けていた。
「でも、頑張りすぎてしまうこともあるので……時々は、十分頑張っていると伝えて差し上げてほしいです」
言い終えてから、私は少し緊張した。
(……公爵夫人に、ずいぶん生意気なことを言っちゃったかも)
けれど、公爵夫人は怒ることなく、小さく頷いた。
「……そうね」
そして、ロザリア様へ向き直る。
「ロザリア。今日の説明は、とてもよかったわ」
「……え?」
「調べたことを並べるだけではなく、わからないことも認めたうえで、自分の考えを話していたでしょう。わたくしは、立派だったと思うわ」
ロザリア様は、すぐには返事をしなかった。
やがて、資料を抱える手に少しだけ力を込める。
「……ありがとうございます、お母様」
その声はいつもより小さく、けれど、どこか嬉しそうだった。
公爵夫人はそっと娘の髪に触れた。
「村へ行くときは、無理をしないこと。あなたが思っているより、外の世界には危ないこともあるのですから」
「……はい」
「それから、帰ってきたら、わたくしにも話を聞かせてちょうだい」
ロザリア様が顔を上げる。
「……お母様も、聞いてくださるの?」
「ええ。あなたが何を見て、何を考えたのか、知りたいわ」
「……はい!」
ロザリア様の表情が、ぱっと明るくなった。
「たくさんお話ししますわ! きっと、驚かれることもあると思います!」
「ふふ、そうかもしれないわね」
公爵夫人が微笑む。
私はその様子を見守りながら、そっと息を吐いた。
(……よかった)
長い間積み重なってきた親子の関係が、たった一度の会話で変わるわけではない。きっと、これからもロザリア様は両親の期待に応えようとするだろうし、公爵様や公爵夫人も、すぐに接し方を変えられるわけではないと思う。
それでも今日、ロザリア様は初めて、自分の努力を母親に認めてもらえたのかもしれない。
◇
執務室を出たあと、ロザリア様は廊下を歩きながら、何度も資料を見つめていた。
「……先生」
「はい?」
「わたくし、本当に村へ行けるのね」
「はい。公爵様が許可してくださいましたから」
「……そうね」
ロザリア様は嬉しそうに微笑んだ。
「でも、少し怖いわ」
「怖い、ですか?」
「ええ。村の人たちに、学校なんて必要ないと言われるかもしれないでしょう?」
「……そうですね」
「それに、わたくしが何か間違ったことを言って、困らせてしまうかもしれないわ」
私は彼女の隣で足を止めた。
「ロザリア様」
「何かしら」
「怖いと思うのは、それだけ真剣に考えているからだと思いますよ」
「……そうなの?」
「はい。それに、もし間違えたら、考え直せばいいんです」
ロザリア様は少し驚いたように私を見たあと、くすりと笑った。
「……それ、先生がいつも言っていることね」
「ふふ、そうですね」
「でも、今日は少しだけ、わかった気がするわ」
ロザリア様は資料を胸に抱えた。
「わたくし、村の人たちのお話をちゃんと聞いてみたい。どんな答えでも、逃げずに聞こうと思います」
「……はい!」
私は笑顔で頷いた。
学校を再建できるかどうかは、まだわからない。けれど、ロザリア様はもう、自分の願いだけで物事を決めようとはしていなかった。
そして今日、彼女の両親もまた、そんな娘の姿を初めてじっくりと見つめてくれたのだと思う。
「それじゃあ、先生。次は村へ行く準備ね!」
「はい! ……と言いたいところですが、日程が決まるまでは、できることを進めましょう」
「できること?」
「例えば、村のことをもっと調べたり、質問を整理したり。それから、実際に村へ行くときに必要なものも考えておきたいですね」
「……なるほど。では、さっそく始めましょう!」
ロザリア様は足取りも軽く歩き始めた。
その背中を追いかけながら、私は思わず笑みをこぼす。
(……本当に、頼もしくなったなあ)
これから先、きっと簡単なことばかりではないだろうけれど、今のロザリア様となら、一緒に考えていける気がした。




