第38話 理想だけでは学校は開けない
王立学院からの帰り道、私は馬車の中で何度も資料を読み返していた。
季節に合わせて授業の時間を変える方法、教師がほかの仕事を兼ねる仕組み、そして学校という建物がなくても子どもたちが学べる場所を作れるという考え方。どれもロザリア様に伝えたい内容ばかりで、気づけば資料の余白には、私自身の考えまでびっしりと書き込まれていた。
(……これなら、何かできるかもしれない)
もちろん、簡単ではないことはわかっている。それでも、閉じられた学校を前に何もできずにいるより、ずっと希望が持てる気がした。
けれど、馬車が公爵邸に近づく頃、私はふと一つの疑問を覚えた。
(……でも、誰が教えるんだろう?)
研究会では、教師の収入を安定させるために別の仕事を兼ねる方法が紹介されていたけれど、村にその役割を担える人がいるとは限らない。そもそも読み書きができる人がいたとして、その人が子どもに教えられるかどうかは別の問題だ。
資料をめくりながら考えていると、アルベルト様との会話が頭に浮かんだ。
『まず今の村の様子を知る必要がある』
そうだ。私たちは、まだ村のことを十分に知らない。
子どもが何人いるのか、どのくらい読み書きができるのか、保護者たちが学校をどう思っているのか。調べなければならないことは、思っていた以上に多かった。
(……帰ったら、ロザリア様と整理しよう)
私は資料を閉じ、窓の外へ目を向けた。
◇
公爵邸に戻ったのは、夕食の少し前だった。
馬車を降りると、玄関でセバスチャンさんが迎えてくれた。
「お帰りなさいませ、エリシア様。研究会はいかがでしたか?」
「とても勉強になりました! ロザリア様にお話ししたいことも、たくさんできたんです」
「それは何よりでございます。お嬢様も、エリシア様のお帰りを気にされておりました」
「ロザリア様が?」
「ええ。午後のお茶の時間にも、エリシア様はいつ頃お戻りになるのかと、何度かお尋ねになっておりました」
その言葉に、思わず頬が緩んだ。
私がいない間も、ロザリア様は研究会のことを気にしてくださっていたらしい。もちろん学校について早く知りたいという気持ちが大きいのだろうけれど、それでも自分の帰りを待っていてもらえたことが嬉しかった。
「ふふ、そうだったんですね」
「お嬢様には、明日の授業で詳しくお話しいただければと存じます」
「はい! それまでに資料を整理しておきます」
私はセバスチャンさんにお礼を言うと、持参した鞄を手に取った。
研究会の資料は持ち帰って整理するつもりだったので、このまま帰宅しても問題ない。明日の授業に間に合うように、今夜のうちに内容をまとめておこう。
「それでは、今日は失礼します」
「お気をつけてお帰りくださいませ」
公爵邸を後にした私は、帰り道でもつい頬が緩んでしまった。
(……ロザリア様、何度も聞いてくださったんだ)
明日お会いしたら、少しくらいその話をしてもいいだろうか。
そんなことを考えながら、私は家路についた。
◇
自宅に戻った私は、机に資料を広げて研究会で聞いたことを整理し始めた。
思っていた以上に内容が多く、どこから手をつければいいのかわからなくなってしまったので、まずは紙を三枚取り出し、それぞれに見出しを書いてみることにした。
『子どもたちが通える時間』
『教える人と、その生活』
『村の人たちの考え』
こうして並べてみると少し整理できた気がするけれど、最初の紙に書き込もうとしたところで手が止まった。
村の子どもたちが何時なら通えるのか。農繁期は忙しいとして、それ以外の季節はどうなのか。朝ならいいのか、夕方ならいいのか、それとも週に数回だけなら通えるのか。
(……わからない)
二枚目の紙も同じだった。
教師を雇うためにいくら必要なのか、村で別の仕事を兼ねられるのか、そもそも教えられる人がいるのか。どれも今ある資料だけでは答えが出ない。
三枚目に至っては、書けることがほとんどなかった。
(……私、思っていた以上に知らないんだな)
少し落ち込んだけれど、だからといって調べるのをやめたいとは思わなかった。むしろ、何がわからないのかがはっきりしただけでも、研究会に参加した意味はあったのだろう。
私は紙の端に、小さく書き足した。
『まず、村の人たちに話を聞く』
その一文を見つめながら、私はペンを置いた。
◇
翌朝、いつもの時間にロザリア様の部屋を訪れると、彼女はすでに机に向かっていた。
「おはようございます、ロザリア様!」
「おはよう、先生。昨日の研究会はどうだったの?」
「とても勉強になりましたよ。ロザリア様にお伝えしたいことが、たくさんあるんです」
「そう。それなら、早く聞かせてちょうだい」
ロザリア様は待ちきれないといった様子で、私の鞄に視線を向けている。
その姿を見ていると、昨日セバスチャンさんから聞いた話を思い出してしまった。
「ふふ、ロザリア様。そんなに楽しみにしてくださっていたんですか?」
「当然でしょう? 村の学校について調べてきてくださったんですもの」
「そうですよね。でも、昨日は私がいつ帰ってくるのか、何度も気にしてくださっていたそうですね?」
「……えっ?」
ロザリア様の動きがぴたりと止まった。
「セバスチャンさんから聞いたんです。私の帰りを待っていてくださったなんて、嬉しいです!」
「ち、違いますわ! わたくしは研究会のお話を早く聞きたかっただけで、別に先生を待っていたわけではありません!」
「そうなんですか? てっきり、私がいなくて寂しかったのかなって」
「なっ……!」
ロザリア様の頬がみるみる赤くなる。
普段は堂々としている彼女が、こんなふうに慌てる姿は珍しい。あまりにも可愛らしくて、私はつい笑ってしまった。
「ふふ、ごめんなさい。ちょっと嬉しくなっちゃって」
「先生! わたくしをからかうのはおやめなさい!」
「はい、すみません!」
「まったく……先生は時々、子どもみたいですわ」
ぷいっと顔を背けられてしまったけれど、耳まで赤くなっているのが見えて、私は笑いをこらえるのに苦労した。
(……これ以上からかったら、本当に怒られちゃうな)
私は咳払いをして資料を取り出した。
「では、気を取り直して研究会のお話をしましょうか」
「最初からそうしてくださればよかったのよ!」
「はいはい」
「はいは一回ですわ!」
「はい!」
勢いよく返事をすると、ロザリア様は呆れたようにため息をついたものの、私が資料を広げるとすぐに身を乗り出してきた。
「それで、先生。村の学校を開く方法は見つかったの?」
「いくつか参考になりそうなお話は聞けました。ただ、実際にできるかどうかは、まだ調べる必要がありそうです」
「そう……では、順番に聞かせてちょうだい」
私は資料を広げ、研究会で聞いた内容を順番に説明していった。
農繁期には授業の時間を短くすること、冬には長めに学ぶ時間を取ること、教師が手紙の代筆や帳簿の整理を兼ねる方法があること。ロザリア様は途中で何度も質問を挟みながら、真剣な表情で話を聞いていた。
「つまり、毎日同じ時間に学校へ行かなくても、勉強はできるということね」
「はい。実際に、そうした工夫をしている町があるそうです」
「それなら、村でもできるかもしれないわ」
「私もそう思ったんです!」
思わず声が弾んだ。
けれど、ロザリア様はすぐに次の資料へ目を向けた。
「でも、先生はどうするの?」
「えっ?」
「授業の時間を変えたところで、教える人がいなければ意味がないでしょう?」
「……そうなんです」
私は昨日の夜にまとめた紙を差し出した。
「研究会でも、そこが大きな問題だとお話がありました。先生のお給料をどうするか、ほかのお仕事と兼ねられるか、いろいろ考える必要があるそうです」
「ふうん……」
ロザリア様は紙をじっと見つめた。
「だったら、村の人に教えてもらえばいいんじゃない?」
「村の人に、ですか?」
「ええ。読み書きができる人くらい、いるでしょう?」
「そうですね。ただ、読み書きができることと、人に教えられることは少し違うんです」
「どうして?」
私は少し考え、机の上にあった算術の問題集を開いた。
「例えば、ロザリア様はこの問題を解けますよね?」
「当然ですわ」
「では、まだ足し算を覚えたばかりの子に、どうしてその答えになるのか説明できますか?」
「そんなの、順番に計算すれば……」
ロザリア様はそこまで言って、少し考え込んだ。
「……順番に、というのは、どこから説明すればいいのかしら」
「そうなんです。自分がわかっていることでも、初めて学ぶ人に説明するのは難しいんですよ」
「……なるほど」
ロザリア様は問題集を見つめたあと、小さく頷いた。
「先生がいつも、わたくしに質問する理由が少しわかった気がするわ」
「えっ?」
「答えを教えるだけなら簡単でも、わたくしが理解しているかどうかは、聞いてみないとわからないのでしょう?」
私は思わず目を瞬かせた。まさか、そんなふうに考えてくださっていたなんて。
「……はい。その通りです!」
嬉しくなって答えると、ロザリア様は少し得意そうに微笑んだ。
「ふふん。わたくしだって、先生の授業を受けているんですもの」
「はい!」
その言葉が嬉しくて、私は思わず笑ってしまった。
けれど、ロザリア様はすぐに真剣な表情に戻った。
「それなら、村の人が教えるとしても、先生になるための勉強が必要なのね」
「そうですね。教え方を学んでもらう方法も考えられると思います」
「でも、その人は自分の仕事もあるのでしょう?」
「……はい」
「だったら、教える時間を作れるかどうかも聞かないといけないわ」
私は頷いた。
ロザリア様は机の上の資料を見比べながら、少しずつ考えを整理しているようだった。
「ねえ、先生」
「はい?」
「わたくしたち、学校をどうやって開くかばかり考えていたけれど……」
ロザリア様はそこで言葉を切った。
「村の人たちは、本当に学校を開いてほしいと思っているのかしら?」
私は息を呑んだ。
昨日、研究会で聞いた話が頭に浮かぶ。学校を再開しようとしたのに、保護者たちが歓迎しなかった村のことや、家の仕事を手伝わなければならない子どもたちのこと。
「……それは、まだわかりません」
正直に答えると、ロザリア様は少し眉を寄せた。
「そうよね。わたくしたちは、村の人たちに何も聞いていないもの」
その言葉には、少し悔しそうな響きがあった。
「先生、昨日の研究会では、学校を開くことに反対する人もいると聞いたのでしょう?」
「はい。家の手伝いや費用の問題で、学校に通わせるのが難しい家庭もあるそうです」
「だったら、わたくしたちが勝手に決めるわけにはいかないわ」
ロザリア様はそう言って資料を閉じた。
「学校を開いてあげる、なんて考えていたけれど、それでは駄目なのね」
「ロザリア様……」
「だって、村の人たちが困っていることも知らないのに、わたくしたちだけで決めるなんて、おかしいでしょう?」
私はしばらく言葉を失っていた。
ロザリア様は以前なら自分の考えを疑うことなく、周りに従わせようとしていた少女だ。けれど今は、自分たちの考えが本当に正しいのかを、きちんと問い直そうとしている。
(……すごいな)
嬉しさと同時に、少しだけ悔しい気持ちもあった。家庭教師の私より先に、ロザリア様が大切なことに気づいてしまったからだ。
「……おっしゃる通りです」
私がそう答えると、ロザリア様は顔を上げた。
「では、どうするの?」
「まずは、村の人たちに話を聞く方法を考えましょう。学校についてどう思っているのか、子どもたちが何を望んでいるのか、それを知らなければ、どんな方法がいいのか決められません」
ロザリア様はしばらく考えたあと、静かに頷いた。
「そうね。それなら、わたくしも一緒に考えるわ」
「もちろんです!」
私は笑顔で答えた。
けれど、次の瞬間、ロザリア様が少し不満そうに眉を寄せた。
「……先生」
「はい?」
「わたくし、さっきからずっと考えているんですけど?」
「あっ、そうでした!」
思わず謝ると、ロザリア様は呆れたようにため息をついた。
「まったく、先生は時々おかしなことを言うわね」
そう言いながらも、その口元には小さな笑みが浮かんでいた。
机の上には、まだ答えの出ていない問題が山ほどあるけれど、昨日までとは少し違って見えた。
私たちは学校を開く方法を探しているのではなく、村の子どもたちが学べるようにするために、何が必要なのかを考えているのだ。
その違いに気づけたことが、きっと最初の一歩なのだろう。
そして私はこのとき初めて、ロザリア様がただ私から学ぶだけの存在ではなくなっていることを、はっきりと感じたのだった。




