第36話 家庭教師、久しぶりの学院へ!
「先生、今日はずいぶん楽しそうね」
朝の授業を始めて間もなく、ロザリア様がそんなことを言った。
「えっ、そうですか?」
「ええ。さっきから何度も時計を見ているもの」
「うっ……気づいてました?」
「当然ですわ。わたくしの目の前に座っているんですもの」
ロザリア様は呆れたようにため息をついたけれど、その口元には小さな笑みが浮かんでいた。
私は机の端に置いていた封筒を手に取った。
「実は、以前お世話になった先生から、研究会のお誘いをいただいたんです」
「研究会?」
「はい。王立学院で、地方の教育について話し合うそうなんです」
ロザリア様の表情が変わった。
「地方の教育……それって、村の学校にも関係するお話?」
「そうなんです! まだ詳しい内容はわかりませんけど、学校を続けるためにどんな工夫ができるのか、いろいろ聞いてみたくて」
「それなら、わたくしも行くわ」
即答だった。
「えっ」
「何を驚いているの? わたくしだって、学校のことを調べているんですもの。行く理由は十分でしょう?」
「それはそうなんですけど……」
私は封筒から案内状を取り出した。
「今回は学院の先生方や卒業生を中心とした研究会みたいなんです。外部の方が参加できるかどうかは、確認しないと」
「……わたくしは公爵令嬢よ?」
「はい」
「それでも駄目なの?」
「公爵令嬢だから大丈夫、というわけにはいかないと思います」
ロザリア様は不満そうに眉を寄せた。
「……先生、最近わたくしに遠慮がなくなっていない?」
「ええっ、そんなことありませんよ!」
「今の返事はずいぶん早かったわ」
そう言って私をじっと見つめるロザリア様に、思わず苦笑してしまう。
少し前なら、こういうときに機嫌を損ねて授業どころではなくなっていたかもしれない。けれど、今のロザリア様は不満を口にしながらも、私の説明を待ってくれている。
「まずは公爵様に相談してみますね。参加できるとしても、授業のお休みをいただくことになりますから」
「……そうね」
ロザリア様は少し考えたあと、机の上の資料に目を落とした。
「では、先生にお願いしたいことがあるわ」
「何でしょう?」
「村の子どもたちが、畑仕事を手伝いながらでも勉強できる方法を聞いてきてほしいの」
私は思わず身を乗り出した。
「いいですね! 授業の時間や日数を工夫する方法ですね」
「それから、先生を雇うお金のことも。お父様にお願いすれば済むというお話ではないのでしょう?」
「はい。長く続けるには、そこも大切ですね」
「……あと」
ロザリア様は少し言いにくそうに視線を逸らした。
「先生が帰ってきたら、わたくしにもわかるように説明してちょうだい」
「もちろんです!」
「難しい言葉ばかり並べたら、怒りますからね」
「が、頑張ります!」
ロザリア様は満足そうに頷いた。
どうやら私は、研究会に参加する前から、なかなか大きな宿題をもらってしまったらしい。
◇
その日の午後、私は公爵様の執務室を訪ねた。
「王立学院の研究会か」
「はい。マーガレット先生からお誘いをいただきまして……」
公爵様は案内状に目を通した。
「地方教育に関する研究会。参加者は学院の教員と卒業生、それに関係する研究者か」
「はい。ロザリア様と調べている学校の件でも、参考になるお話が聞けるのではないかと思っています」
「なるほど」
公爵様は案内状を机に置いた。
「参加すること自体に異論はない。ただし、家庭教師としての務めに支障が出ないようにしなさい」
「ありがとうございます!」
「それと、ベルフォード」
「はい?」
「研究会で知ったことを、そのまま我が領地に当てはめようとはしないことだ」
私は姿勢を正した。
「……はい」
「土地が違えば、事情も違う。よその村でうまくいった方法が、こちらでも通用するとは限らん」
「承知しました」
公爵様は小さく頷いた。
「学ぶことはよい。だが、学んだことをどう使うかは、また別の問題だ」
その言葉は、私の胸にすとんと落ちた。
前世では教育学部に通っていたけれど、私はまだ学生だった。授業で学んだ知識はあっても、実際に学校を運営した経験なんてない。
この世界の制度や暮らしについては、なおさら知らないことだらけだ。
(……だからこそ、ちゃんと勉強したいんだよね)
「ありがとうございます。しっかりお話を聞いてきます!」
私が頭を下げると、公爵様は再び書類へ目を戻した。
「セバスチャンに馬車を手配させよう」
「えっ、馬車まで?」
「公爵家の家庭教師が公務に関係する調査へ赴くのだ。徒歩で行かせる理由もあるまい」
「……ありがとうございます!」
ありがたい。
本当にありがたい。
貧乏男爵家の娘としては、交通費が浮くというだけでも、かなり嬉しかった。
もっとも、その喜びを顔に出しすぎないようにするのには、少々苦労したけれど。
◇
研究会当日。
久しぶりに訪れた王立学院は、以前と変わらず立派だった。
高い門をくぐると、整えられた庭園の向こうに、白い石造りの校舎が見える。
(……懐かしいなあ)
ついこの間まで、ここで勉強していたのだ。
卒業してからそれほど時間が経ったわけではないのに、こうして訪れると、少し不思議な気持ちになる。
「ベルフォード様、帰りのお時間に合わせてお迎えに上がります」
御者の言葉に、私は頷いた。
「ありがとうございます。よろしくお願いします!」
馬車を見送ってから、私は案内状を確かめた。
会場は本館二階の小講義室。
受付開始までは、まだ少し時間がある。
懐かしい校舎を眺めながら歩いていると、背後から声をかけられた。
「エリシアさん?」
振り返ると、そこには見覚えのある女性が立っていた。
「マーガレット先生!」
「あら、やっぱりエリシアさんね。久しぶり」
先生は柔らかく微笑んだ。
落ち着いた茶色の髪を後ろでまとめ、腕には何冊もの資料を抱えている。
「元気そうで何よりだわ。ヴァレンシュタイン公爵家でのお仕事はどう?」
「はい! 毎日勉強になることばかりです」
「ふふ、そうでしょうね。以前お話しした通り、ロザリア様はなかなか気難しい方だと聞いていたから、ずっと気になっていたのよ」
「あはは……最初は大変なこともありましたけど、今は一緒に勉強するのがとても楽しいです」
マーガレット先生は安心したように微笑んだ。
「そう。それなら、うまくやれているのね」
「はい! 最近はロザリア様の方から、いろいろ調べたいとおっしゃることも増えたんです」
「まあ、それは素晴らしいことだわ」
先生は少し驚いたように目を瞬かせたあと、嬉しそうに頷いた。
「正直に言うと、あなたにあのお仕事を紹介したときは、少し心配もしていたの。けれど、今のあなたを見ていると、紹介してよかったと思えるわ」
「……ありがとうございます」
「それにしても、卒業してからそれほど経っていないのに、すっかり先生らしくなったわね」
「そ、そうですか?」
「ええ。教え子の話をするときの顔を見ればわかるもの」
そう言われると、何だか照れくさい。
マーガレット先生は微笑んだあと、私が持っている資料に目を向けた。
「今回の研究会も、今のお仕事に役立ちそうね」
「はい。実は、ロザリア様と一緒に、領地の学校について調べているんです」
私は、村の学校が閉じられていることや、ロザリア様が再開の方法を考えていることを簡単に説明した。
マーガレット先生は興味深そうに耳を傾けていた。
「なるほど。公爵令嬢がそこまで関心を持っているのね」
「はい。最初は私も驚いたんですけど、今では資料を見ながら自分でいろいろ考えていらっしゃるんです」
「それなら、今回お誘いしてよかったわ」
先生は嬉しそうに頷いた。
「ただ、今日のお話は、エリシアさんにとって少し厳しい内容になるかもしれないわね」
「……厳しい内容、ですか?」
「ええ。地方の学校が抱える問題は、教え方だけでは解決できないことも多いから」
私は小さく頷いた。
「……それも含めて、知りたいと思っています」
「そう。なら、きっと来てよかったと思えるわ」
先生は嬉しそうに笑った。
「さあ、会場へ行きましょう。紹介したい方もいるのよ」
「はい!」
◇
小講義室には、すでに十数人の参加者が集まっていた。
年配の先生方に交じって、私より少し年上に見える若い人たちもいる。
教壇の前には、地方の村々を示した大きな地図が掲げられていた。
(……思っていたより本格的だな)
私は空いている席に腰を下ろし、配られた資料を開いた。
最初のページには、いくつかの村について、人口や学校の数、通学できる子どもの割合などがまとめられている。
見慣れない数字も多く、私は思わず姿勢を正した。
やがて、前方に立った男性が研究会の開始を告げた。
「本日はお集まりいただき、ありがとうございます。今回は地方における初等教育の継続について、現状と課題を共有したいと思います」
男性は地図の一角を指し示した。
「こちらの地域では、三年前に村の学校が閉鎖されました。理由は財政難と教師の不足です」
私は思わず資料に目を落とした。
ロザリア様の領地と、よく似た事情だ。
「しかし、その後、学校を再開しようとした際、別の問題が明らかになりました」
男性は少し間を置いた。
「村の保護者の多くが、学校の再開を望んでいなかったのです」
(……えっ?)
私は顔を上げた。
学校がなくて困っているのなら、再開を喜ぶのではないのだろうか。
そんな私の疑問を見透かしたように、男性は続けた。
「もちろん、子どもに学ばせたくないという単純な話ではありません。家の仕事を手伝う必要があること、学校へ通うための時間や費用が負担になることなど、理由はさまざまでした」
私は慌ててメモを取った。
農繁期のことは、ロザリア様も気にしていた。
でも、学校が再開すること自体を歓迎しない家庭があるとは、あまり考えていなかった。
「教育の機会を増やすことと、実際に子どもが通える環境を整えることは、必ずしも同じではありません」
その言葉を聞いた瞬間、公爵様の忠告が頭をよぎった。
(……学んだことを、どう使うかは別の問題)
私はペンを握り直した。
今日、聞きに来てよかった。
そう思ったのは、研究会が始まってまだ十分も経たない頃だった。
講義が一区切りつき、参加者同士で意見を交わす時間になると、私は資料を見ながら質問を整理していた。
「失礼。こちらの席は空いているかな?」
「はい、どうぞ……」
顔を上げた私は、そのまま言葉を止めた。
目の前に立っていたのは、以前、王宮の庭園と学院の図書館で会ったことのある青年だった。
「……アルベルト様?」
青年は私の顔を見て、少し驚いたように目を瞬かせた。
「エリシア嬢。君も参加していたのか」
「はい! ……あの、アルベルト様も?」
「ああ。少し興味があってね」
彼はそう言って、私が開いていた資料に目を向けた。
「地方の学校について調べているのか?」
「はい。今、教えているお嬢様と一緒に、閉じられた村の学校をどうすれば再開できるか考えているんです」
「……そうか」
アルベルト様は静かに頷いた。
そして、少しだけ表情を引き締めた。
「それなら、今日の話は参考になっただろうね」
「はい。ただ……正直、少し驚きました」
「何に?」
「学校が再開することを、村の人たちが必ずしも喜ぶわけではないというお話です」
私がそう答えると、アルベルト様は少し考えたあと、静かに口を開いた。
「……エリシア嬢は、学校があれば子どもたちは通いたいと思う?」
私はすぐには答えられなかった。
さっきまでの私なら、迷わず頷いていたかもしれない。
けれど、今は少し違う。
「……通いたくても、通えない子がいると思います」
「うん」
「それに、家族の事情によっては、学校へ行くことが難しい場合もありますよね」
アルベルト様は小さく頷いた。
「そうだね。では、そういう村に学校を建てることは、本当に正しいことなのかな」
私は思わず彼を見つめた。
その問いには、すぐに答えられなかった。
けれど、だからこそ、考えてみたいと思った。
「……それでも、学びたい子が学べる場所は必要だと思います」
私がそう答えると、アルベルト様はわずかに目を細めた。
「……なるほど」
そして、静かに微笑んだ。
「それなら、少し話してみようか」
久しぶりに再会した青年との会話が、これから私の考えを大きく変えることになるとは、このときはまだ知らなかった。




