閑話 公爵家の使用人たちは知っている
ヴァレンシュタイン公爵邸の朝は早い。
まだ空が白み始めたばかりの時間から、厨房では火が入り、廊下では掃除が始まり、庭では庭師たちが一日の仕事に取りかかる。
公爵家の屋敷を滞りなく動かすためには、多くの使用人たちの働きが欠かせない。
そして、その使用人たちの間で、最近よく話題に上がる人物がいた。
「……ねえ、アンナ。最近のお嬢様って、少し変わったと思わない?」
朝食の準備を終えたあと、若いメイドの一人が小声で尋ねた。
アンナは手にしていた布巾を畳みながら、少しだけ首を傾げた。
「……どうして?」
「だって、前はお茶が少し冷めただけでも、すごく怒っていらしたでしょう?」
「……そうね」
「でも、この前は、わたしが少し遅れてお茶をお持ちしても、何もおっしゃらなかったの」
若いメイドは不思議そうに続けた。
「それどころか、『忙しかったの?』って聞いてくださったのよ」
「……そう」
アンナは小さく頷いた。
確かに、最近のロザリアは以前とは違う。
けれど、だからといって、すぐに安心できるわけではなかった。
アンナ自身、かつてロザリアに厳しく叱責されたことが何度もある。
ほんの少しの失敗でも、容赦なく責められた。
あの頃は、お嬢様の部屋へ向かうだけで、胸が重くなることもあった。
それが、ある日突然、変わり始めたのだ。
「……アンナ?」
「……ええ。確かに、変わられたと思うわ」
アンナは静かに答えた。
「でも、まだ少し……怖いの」
若いメイドは目を瞬かせた。
「……そうなの?」
「ええ。頭ではわかっていても、また以前のように叱られるんじゃないかって、思ってしまうことがあるから」
アンナは小さく微笑んだ。
「……でも、それも少しずつ変わっていくのかもしれないわね」
その言葉に、若いメイドは静かに頷いた。
◇
その日の午前中、アンナはロザリアの部屋へお茶を運んでいた。
扉をノックすると、中から明るい声が返ってきた。
「どうぞ」
「失礼いたします、お嬢様」
部屋に入ると、ロザリアは机に向かって何かを書いていた。
傍らには、家庭教師のエリシアが座っている。
「……ロザリア様、こちらの数字はどうでしょう?」
「……少し待ってちょうだい。今、考えているところよ」
「はい!」
二人は何やら真剣に話し合っていた。
アンナは邪魔をしないように、そっとお茶を置こうとした。
けれど、そのとき。
「あっ……」
手元がわずかに滑り、ティーカップが小さな音を立てた。
中のお茶が、受け皿に少しこぼれてしまう。
アンナの胸が、ぎゅっと縮んだ。
(……しまった)
反射的に頭を下げる。
「も、申し訳ございません、お嬢様!」
以前なら、ここで厳しい叱責が飛んできただろう。
アンナは思わず身を固くした。
けれど。
「……大丈夫?」
聞こえてきたのは、思いがけない言葉だった。
アンナは顔を上げた。
「……えっ?」
「手にかからなかった?」
ロザリアは少しだけ心配そうに、アンナの手元を見ていた。
「……はい。大丈夫でございます」
「そう。なら、よかったわ」
ロザリアは小さく頷いた。
「受け皿を替えてくださる?」
「……かしこまりました」
アンナは急いで受け皿を取り替えた。
その間、ロザリアは再び机の上の資料へ目を向けていた。
「……先生、この数字だけれど」
「はい?」
「去年と今年では、収穫量が違うでしょう? それなら、学校の費用も……」
二人の会話は、何事もなかったかのように続いていた。
アンナは静かに一礼し、部屋を出た。
廊下に出ると、ようやく息を吐いた。
(……本当に、変わられたのね)
少し前、ロザリアはアンナに、これまでの態度を謝っていた。
そのときは、正直なところ、どう受け止めればいいのかわからなかった。
謝罪されたからといって、長年の恐怖がすぐに消えるわけではない。
けれど、今日のような出来事が少しずつ積み重なれば。
(……いつか、もっと自然にお話しできるかもしれない)
アンナは小さく微笑み、廊下を歩き始めた。
◇
昼過ぎ、使用人たちの休憩室では、数人が短い休息を取っていた。
「それにしても、ベルフォード先生って不思議な方よね」
若いメイドがそう言うと、向かいに座っていた料理人見習いが頷いた。
「わかる。初めて来たときは、あんなに若い方が家庭教師で大丈夫なのかと思ったけど」
「そうそう。しかも、よく笑うし、よく驚くし」
「……たまに廊下で迷っているしね」
その言葉に、何人かが小さく笑った。
「この前なんて、図書室へ向かう途中で、なぜか洗濯室の前にいらしたのよ」
「……どうしてそうなるの?」
「わからないわ」
休憩室に、楽しそうな笑い声が広がった。
けれど、アンナは少しだけ考え込んでいた。
「……でも、先生が来てから、お嬢様が変わられたのは確かよね」
その言葉に、周りの使用人たちが頷いた。
「ええ。以前は、使用人に話しかけることなんて、ほとんどなかったもの」
「最近は、厨房で何を作っているのか聞いてくださることもあるわ」
「この前は、庭師に花の名前を尋ねていらしたそうよ」
「……本当に?」
「ええ。しかも、ちゃんと最後まで説明を聞いてくださったって」
若いメイドが驚いたように目を丸くした。
「……昔のお嬢様からは、想像できないわね」
アンナは小さく頷いた。
けれど、そのとき、少し年上のメイドが静かに口を開いた。
「……でも、まだ油断はできないと思うわ」
周りの視線が集まる。
「お嬢様は、今でも時々、強い口調でおっしゃるでしょう?」
「……そうね」
「以前よりはずっとよくなったけれど、何か気に入らないことがあれば、また昔のようになるかもしれない」
休憩室が少し静かになった。
アンナはその言葉を否定しなかった。
実際、ロザリアが完全に変わったわけではない。
気が強く、負けず嫌いで、思い通りにならないことがあれば、すぐに顔に出る。
それは今でも変わらない。
「……でも」
アンナは静かに口を開いた。
「最近のお嬢様は、怒ったあとに考え直されることがあるわ」
年上のメイドが目を向けた。
「……考え直す?」
「ええ。以前なら、怒ったまま終わっていたことでも、あとから『さっきは言い過ぎたわ』とおっしゃることがあるの」
アンナは少しだけ微笑んだ。
「……それだけでも、わたしは嬉しいと思う」
年上のメイドはしばらく黙っていた。
そして、小さく頷いた。
「……そうね」
休憩室には、再び穏やかな空気が戻った。
◇
その日の夕方、セバスチャンは廊下を歩きながら、庭に面した窓の向こうへ目を向けた。
そこには、エリシアとロザリアの姿があった。
二人は庭の一角で、何やら楽しそうに話している。
「……先生、こちらの花は何という名前かしら?」
「えっと……確か、前に庭師さんから教えていただいたような……」
「……先生、忘れたの?」
「うっ……すみません!」
ロザリアが小さく笑った。
その姿を見て、セバスチャンは静かに目を細めた。
エリシア・ベルフォードが家庭教師としてやってきた当初、セバスチャンは少なからず不安を抱いていた。
まだ十五歳の少女に、公爵令嬢の教育が務まるのか。
しかも、相手はあのロザリアである。
知識や礼儀だけでは、到底務まらないだろう。
けれど、彼女は思いがけない方法で、ロザリアの心を少しずつ変えていった。
ただ叱るのではなく、考えさせる。
ただ褒めるのではなく、できたことを一緒に喜ぶ。
そして、何よりも、ロザリアを一人の人間として見ている。
「……不思議な方ですな」
セバスチャンは小さく呟いた。
そのとき、背後から声がかかった。
「何を見ている?」
振り返ると、ヴァレンシュタイン公爵が立っていた。
「……閣下」
セバスチャンは深く一礼した。
「お嬢様とベルフォード様が、庭でお話しされております」
公爵は窓の外へ目を向けた。
そこでは、ロザリアが何かを説明し、エリシアが大きく頷いていた。
「……そうか」
公爵はしばらく娘の姿を見つめていた。
「……最近、使用人たちの間でも、ロザリアの話が出るそうだな」
「はい」
「……どのような話だ?」
セバスチャンは少しだけ考えた。
「……以前よりも、穏やかになられたという声が増えております」
「……そうか」
「ただし、まだ戸惑っている者もおります」
公爵は小さく頷いた。
「……当然だろうな」
セバスチャンは静かに続けた。
「ですが、お嬢様は少しずつ、ご自身の言動を見直しておられます」
「……ああ」
公爵は再び窓の外へ目を向けた。
「……ベルフォードには、感謝せねばならんな」
その言葉に、セバスチャンは少しだけ驚いた。
公爵が家庭教師について、これほど率直に評価することは珍しい。
「……左様でございますね」
セバスチャンは静かに頷いた。
公爵はしばらく娘の姿を見つめたあと、執務室へと戻っていった。
◇
夜になり、アンナはロザリアの部屋の片づけをしていた。
机の上には、今日の授業で使った資料が並んでいる。
その中に、一枚の紙があった。
そこには、丁寧な文字で短い文章が書かれていた。
『わたくしは、もっと周りの人のお話を聞けるようになりたいです』
アンナは思わず手を止めた。
それは、ロザリアが授業の中で書いたものだった。
以前のロザリアなら、きっとこんなことは書かなかっただろう。
アンナはしばらくその紙を見つめていた。
そして、そっと元の場所へ戻した。
「……お嬢様」
小さく呟く。
まだ、すべてを信じられるわけではない。
けれど、少しずつなら、また、以前とは違う気持ちで仕えることができるかもしれない。
アンナは静かに微笑み、部屋の灯りを落とした。
廊下へ出ると、遠くから使用人たちの話し声が聞こえてくる。
明日もまた、いつもと同じ一日が始まる。
けれど、その「いつも」は、少しずつ変わり始めていた。
ヴァレンシュタイン公爵邸の使用人たちは、その変化を誰よりも近くで見守っていたのだった。




