第35話 悪役令嬢の評判は少しずつ
噂というものは、広まるときはあっという間なのに、訂正するとなると随分と時間がかかるらしい。
リーヴェルト伯爵夫人が関係者へ説明の手紙を送り始めてから、一週間が経っていた。
私がそのことを知ったのは、ロザリア様との授業を終えたあとのことだった。
「ベルフォード様、少々よろしいでしょうか」
廊下で声をかけてきたのは、セバスチャンさんだった。
「はい。何でしょう?」
「先日の王宮交流会に関する件でございますが、リーヴェルト伯爵家からの訂正が、関係する方々へ届き始めているようです」
「……本当ですか!」
「はい。ハーグレイヴ侯爵家からも、同様のご連絡をいただいております」
私は思わず胸を撫で下ろした。
「よかった……!」
「ただし、すべての方がすぐに認識を改めるとは限りません」
「……そうですよね」
「閣下も、今後の動向を見守るお考えです」
セバスチャンさんはそう言って、静かに一礼した。
私は少しだけ考え込んだ。
事実ではない噂が広まってしまった以上、訂正したからといって、すべてが元通りになるわけではない。
けれど、少なくとも間違った話をそのままにせず、正しい内容を伝えることはできたのだ。
(……ひとまず、一安心かな)
私は小さく息を吐いた。
そして、ロザリア様にもこのことを伝えようと、彼女の部屋へ向かった。
◇
「……そう。訂正の手紙が届き始めているのね」
私の話を聞いたロザリア様は、静かに頷いた。
「はい! セバスチャンさんから伺いました」
「……よかったわ」
そう言いながらも、ロザリア様の表情は少し複雑そうだった。
「……ロザリア様?」
「先生、わたくし、少しだけ不思議なの」
「何がですか?」
「今回の噂は、わたくしが実際にお話ししたこととは違っていたでしょう?」
「はい」
「それなのに、訂正するためには、こんなにたくさんの人が動かなければならないのね」
私は少し考えた。
「……そうですね」
「お父様も、ハーグレイヴ侯爵様も、リーヴェルト伯爵様も。みんな、大人たちが話し合ってくださったわ」
「はい」
「……わたくし一人では、どうにもできなかったのね」
ロザリア様は少しだけ俯いた。
私はその横顔を見ながら、静かに答えた。
「でも、ロザリア様も、自分でできることをしましたよ」
「……そうかしら?」
「はい。エレノア様と直接お話ししましたし、公爵様にも自分の考えを伝えました」
ロザリア様は少しだけ考えた。
「……そうね」
「それに、ミレーヌ様も協力してくださいました」
「……ええ」
ロザリア様は小さく微笑んだ。
「ミレーヌ様には、改めてお礼を申し上げたいわ」
「それなら、お手紙を書いてみませんか?」
「……お手紙?」
「はい。今回のお礼も伝えられますし、またお茶会を開く約束もできますよ」
ロザリア様は少しだけ目を輝かせた。
「……それは、いい考えね」
そして、すぐに机へ向かった。
「先生、便箋を取ってちょうだい」
「はい!」
私は近くの棚へ向かった。
……のだけれど。
「……あれ?」
便箋が見当たらない。
確か、いつもこの辺りに置いてあったはずなのに。
「先生、何をしているの?」
「えっと……便箋を探しているんですけど」
「……そこは刺繍道具の棚よ」
「……えっ?」
振り返ると、ロザリア様が呆れた顔をしていた。
「便箋は反対側の引き出しですわ」
「……そ、そうでした!」
私は慌てて向きを変えた。
すると、ロザリア様が小さく笑った。
「……先生、本当に方向感覚がないのね」
「い、今のはただの勘違いですよ!」
「ふふっ、どうかしら?」
私は少しだけ頬を膨らませた。
けれど、ロザリア様が楽しそうに笑っているのを見て、結局つられて笑ってしまった。
◇
数日後、ハーグレイヴ侯爵家に一通の手紙が届いた。
差出人は、ロザリア・ヴァレンシュタイン。
ミレーヌは自室の机に向かい、丁寧に封を開いた。
そこには、先日の噂について協力してくれたことへの感謝と、またお茶会に招きたいという言葉が綴られていた。
『今度は、学校のことだけではなく、ミレーヌ様のお好きな刺繍についても、ぜひ教えていただきたいですわ』
その一文を読んで、ミレーヌは思わず微笑んだ。
「……ロザリア様ったら」
以前のロザリアなら、自分が興味のあることを一方的に話していたかもしれない。
けれど、今は相手の好きなことにも目を向けようとしている。
ミレーヌはしばらく手紙を見つめたあと、便箋を取り出した。
返事には、ぜひまた伺いたいということと、次は刺繍の図案を持っていくということを書いた。
そして、最後に少しだけ迷ってから、一文を付け加えた。
『次のお茶会では、わたくしの好きなお話も、ロザリア様に聞いていただけたら嬉しいです』
書き終えると、ミレーヌは小さく息を吐いた。
貴族の付き合いには、家の事情がつきものだ。
それは、これからも変わらないだろう。
けれど、その中でも、自分の気持ちで誰かと親しくなることはできるのかもしれない。
(……次のお茶会が楽しみですわ)
ミレーヌは静かに微笑み、手紙を封筒へ入れた。
◇
一方、リーヴェルト伯爵家では、エレノアが母親の部屋を訪れていた。
「……お母様」
「どうしたの、エレノア」
「先日の件について、少しお話ししたいことがございます」
伯爵夫人は書類から顔を上げた。
「……何かしら?」
エレノアは少しだけ緊張した様子で、口を開いた。
「……わたくし、ロザリア様に謝りました」
「そう」
伯爵夫人は静かに頷いた。
「それで?」
「……ロザリア様は、すぐに許すとはおっしゃいませんでした」
伯爵夫人は少しだけ眉を上げた。
「……そうなの」
「でも、これからどうするかを考えたいとおっしゃってくださいました」
エレノアは視線を落とした。
「……わたくし、あの方のことを、少し誤解していたのかもしれません」
伯爵夫人はしばらく娘を見つめていた。
「……エレノア」
「はい」
「貴族の世界では、誰かと親しくなることも、距離を置くことも、慎重に考えなければなりません」
「……はい」
「特に、ヴァレンシュタイン公爵家のような家とはね」
エレノアは小さく頷いた。
けれど、以前のように、ただ母親の言葉を受け入れるだけではなかった。
「……お母様」
「何?」
「わたくし、次にロザリア様とお会いしたときは、もう少し普通にお話ししてみたいです」
伯爵夫人は少しだけ目を瞬かせた。
「……普通に?」
「はい。殿下のことや、家のことばかりではなく……」
エレノアは少しだけ考えた。
「……あの方が何をお好きなのか、聞いてみたいです」
伯爵夫人はしばらく黙っていた。
そして、静かに微笑んだ。
「……そう。なら、失礼のないようになさい」
「……はい」
エレノアは深く頭を下げた。
その表情には、以前よりも少しだけ柔らかなものが浮かんでいた。
◇
王宮交流会からしばらく経ったある日、私はロザリア様と一緒に、領地の学校についての資料を整理していた。
「先生、この数字はどういう意味かしら?」
「えっと……これは、学校が閉じられる前に通っていた子どもの人数ですね」
「……でも、村の子どもの数より少ないわ」
「そうですね。全員が通えていたわけではないみたいです」
ロザリア様は資料をじっと見つめた。
「……学校を再開すれば、それで解決するわけではないのね」
「はい。通いたくても通えない子もいるかもしれませんし」
「……そうね」
ロザリア様は小さく頷いた。
「先生、今度は村の人たちのお話を聞いてみたいわ」
「いいですね!」
「学校が閉じられた理由も、もっと詳しく知りたいの」
「はい。私も一緒に考えます!」
私は思わず笑顔になった。
ロザリア様は、以前よりもずっと周りのことを考えられるようになっている。
けれど、それはまだ始まりにすぎない。
私たちが知らないことは、きっとたくさんあるのだ。
「……先生」
「はい?」
「わたくし、いつか学校を再開できたら嬉しいわ」
ロザリア様は少しだけ微笑んだ。
「でも、今はまだ、何をすればいいのかわからないの」
「……そうですね」
「だから、もっと勉強するわ」
その言葉に、私は胸が温かくなった。
「……はい。一緒に頑張りましょう!」
私は笑顔で頷いた。
けれど、そのとき、ふと一つのことが頭をよぎった。
原作ゲームのロザリア・ヴァレンシュタインは、傲慢で我儘な悪役令嬢として描かれていた。
けれど、今のロザリア様を見ていると、どうしてもその姿が重ならない。
もちろん、彼女にはまだ我儘なところもあるし、すぐに怒ってしまうこともある。
でも、それだけで将来のすべてが決まるわけではないはずだ。
(……本当に、原作どおりになるのかな)
私は少しだけ考え込んだ。
もし、ロザリア様が変わっていくことで、未来も変わるのなら。
私がここにいる意味も、きっとあるのだと思う。
「……先生?」
「……えっ?」
「何をぼんやりしているの?」
「い、いえ! 何でもありません!」
私は慌てて首を振った。
すると、ロザリア様が少しだけ眉を寄せた。
「……また変なことを考えていたのでしょう?」
「そ、そんなことありませんよ!」
「……本当かしら?」
ロザリア様は疑わしそうに私を見つめた。
私は思わず苦笑した。
「……まあ、少しだけ」
「……まったく」
ロザリア様は小さくため息をついた。
けれど、すぐに微笑んだ。
「……先生、続きを教えてちょうだい」
「はい!」
私は資料を手に取り、再び説明を始めた。
窓の外では、穏やかな風が庭の木々を揺らしていた。
王宮での騒動は、ひとまず終わった。
けれど、ロザリア様の学びも、私の家庭教師としての日々も、まだまだ続いていく。
そして、私たちがこれから出会う人々や出来事が、どんな未来につながっていくのか。
今はまだ、誰にもわからないのだった。
◇
その日の夕方、ヴァレンシュタイン公爵邸に、王立学院から一通の封書が届いた。
宛名は、エリシア・ベルフォード。
差出人は、かつて私がお世話になったマーガレット先生だった。
封筒の中には、短い手紙が入っていた。
『エリシアさん。お元気でお過ごしでしょうか。先日、学院で地方教育に関する小さな研究会が開かれることになりました。あなたが以前から関心を持っていた分野でもありますので、もし都合が合えば、一度顔を出してみませんか』
私は思わず目を輝かせた。
「……地方教育の研究会!?」
それは、今の私たちにとって、まさに知りたいことが詰まっていそうな話だった。
ロザリア様と調べている村の学校についても、何か参考になる話が聞けるかもしれない。
「……行ってみたい!」
私は手紙をもう一度読み返し、さっそく返事を書くことにした。
王宮での騒動がようやく落ち着いたと思ったら、今度は新しい学びの機会がやってきた。
家庭教師としても、いつか大学で学びたいと願う一人の学生としても、この機会を大切にしたい。
(……どんなお話が聞けるんだろう)
私は期待に胸を膨らませながら、机に向かった。




