第34話 家庭教師は答えを教えない
リーヴェルト伯爵家の馬車が公爵邸を出ていったあとも、ロザリア様は応接室の窓辺に立っていた。
私は少し離れたところで、彼女の様子を見守っていた。
「……先生」
「はい」
「わたくし、エレノア様にあんなことを言うつもりではなかったの」
「……あんなこと、ですか?」
「傷ついた、なんて」
ロザリア様は窓の外を見つめたまま続けた。
「本当は、もっと堂々とお話しするつもりだったわ。噂が間違いだとわかっているのなら、きちんと訂正していただきたいって」
「そうだったんですね」
「でも、あの方が泣き出してしまったら……何だか、言いたいことが変わってしまったの」
私は少し考えた。
「ロザリア様は、エレノア様を許したんですか?」
「……わからないわ」
彼女はすぐに答えなかった。
「謝ってくださったのは嬉しかった。でも、あの方がわたくしに言ったことまで、なかったことにはならないでしょう?」
「はい」
「それに、あの方のお母様が広めた噂は、まだ残っているのよね」
「……そうですね」
ロザリア様は振り返った。
「先生なら、どうする?」
私は思わず口を開きかけた。
誤解を解くには、こうして、ああして。
頭の中には、いくつかの案が浮かんでいた。
けれど、そのどれもが、ロザリア様の代わりに私が決めることになってしまう。
「……そうですね」
私は少しだけ考えてから、微笑んだ。
「まずは、ロザリア様がどうしたいのか、聞いてもいいですか?」
「……わたくしが?」
「はい。噂を訂正してもらうこと以外にも、何か気になっていることはありますか?」
ロザリア様は少しだけ眉を寄せた。
「……エレノア様のことかしら」
「はい」
「……あの方は、わたくしが殿下とお話ししていたのが悔しかったとおっしゃったわ」
「そうでしたね」
「でも、殿下が誰とお話しするかなんて、わたくしが決められることではないでしょう?」
「その通りですね」
「……それなのに、どうしてわたくしが嫌なことを言われなくてはいけないのかしら」
ロザリア様は少しだけ唇を尖らせた。
その表情が、年相応の十一歳らしくて、私は思わず微笑んでしまった。
「……先生、何がおかしいの?」
「いえ、ロザリア様もそういう顔をするんだなと思って」
「……失礼ね!」
「あはは、ごめんなさい!」
ロザリア様は頬を膨らませた。
けれど、すぐに小さく息を吐いた。
「……でも、先生」
「はい?」
「わたくし、エレノア様が少し羨ましかったのかもしれないわ」
「……えっ?」
「だって、あの方は自分の気持ちを、あんなふうに言えたでしょう?」
私は少し驚いた。
「……そうですね」
「わたくしは、悔しいとか、寂しいとか、そういうことを人前で言うのが苦手なの」
ロザリア様は視線を落とした。
「……だから、少しだけ羨ましかったのかもしれないわ」
私は静かに頷いた。
「……ロザリア様」
「何?」
「今、ちゃんと言えていますよ」
ロザリア様は目を瞬かせた。
「……えっ?」
「悔しいことも、羨ましいことも。私には、ちゃんと話してくださっています」
ロザリア様は少しだけ頬を赤くした。
「……先生には、言いやすいだけよ」
「それでも、嬉しいです」
私が笑うと、ロザリア様は小さく顔を背けた。
「……まったく、先生は」
その声は、少しだけ柔らかかった。
◇
翌日の授業では、私は少し変わった課題を用意した。
「ロザリア様、今日は文章の授業をしましょう!」
「……文章?」
「はい。こちらをご覧ください」
私は机の上に三枚の紙を並べた。
それぞれには、同じ出来事について、少しずつ違う文章が書かれている。
一枚目には『村の学校が閉じられている』。
二枚目には『村の学校が閉じられており、公爵令嬢は再開の方法を考えている』。
三枚目には『公爵令嬢は、学校を閉じた公爵家の対応に不満を持っている』。
ロザリア様は三枚目を見た瞬間、眉を寄せた。
「……これ、例の噂ではなくて?」
「はい。似たような内容にしてみました」
「……嫌な課題ね」
「うっ……それはすみません」
私は苦笑した。
「でも、少し考えてみてほしいんです。どの文章が事実で、どこからが解釈なのか」
ロザリア様はしばらく紙を見つめた。
「……一枚目は事実ね」
「はい」
「二枚目も、わたくしが実際に話したことだわ」
「そうですね」
「でも、三枚目は違う。わたくしはそんなことを言っていないもの」
私は頷いた。
「では、三枚目の文章を書いた人は、必ず嘘をつこうとしていたと思いますか?」
ロザリア様は少し考えた。
「……そうとは限らないわね」
「どうしてですか?」
「一枚目と二枚目の話を聞いて、勝手にそう思い込んだのかもしれないから」
「その通りです」
私は少しだけ微笑んだ。
「もちろん、わざと意味を変える人もいると思います。でも、聞いた人が自分の考えを混ぜてしまうこともあるんですよね」
ロザリア様は小さく頷いた。
「……なるほど」
「だから、何かを伝えるときは、事実と自分の考えを分けることが大切なんです」
「……先生」
「はい?」
「それなら、わたくしも少し考えてみたいことがあるわ」
ロザリア様は新しい紙を取り出した。
そして、ゆっくりと文章を書き始めた。
『わたくしは、領地の学校が閉じられていることを知り、再開する方法について考えております。まだ具体的な方法は決まっておりませんが、今後も学び続けたいと思っております』
書き終えると、ロザリア様は私を見た。
「……これなら、どうかしら?」
「いいですね! ロザリア様が実際に考えていることが、きちんと伝わります」
「……そう」
ロザリア様は少しだけ微笑んだ。
「でも、先生」
「はい?」
「わたくし、これを誰かに見せたいわ」
私は目を瞬かせた。
「……誰かに、ですか?」
「ええ。お父様に」
その言葉に、私は少し驚いた。
「……公爵様に?」
「はい。わたくしが何を考えているのか、きちんとお伝えしたいの」
私は思わず笑顔になった。
「それは、いいと思います!」
ロザリア様は小さく頷いた。
「……先生、少しだけ付き合ってちょうだい」
「もちろんです!」
私は嬉しくなって、思わず大きく頷いた。
◇
その日の夕方、ロザリア様は公爵様の執務室を訪れた。
私は家庭教師として同席を許されていたけれど、今回はできるだけ口を挟まないつもりだった。
「……お父様」
「どうした、ロザリア」
「少し、お話ししたいことがございます」
公爵様は書類から顔を上げた。
「……何だ?」
ロザリア様は少しだけ緊張した様子で、一枚の紙を差し出した。
「先日の交流会で、わたくしが何をお話ししたのか、改めて整理いたしました」
公爵様は紙を受け取り、静かに目を通した。
「……なるほど」
ロザリア様は続けた。
「わたくしは、領地の学校が閉じられていることを知り、再開する方法について考えております。でも、まだ具体的な方法は決まっておりません」
「……そうだな」
「ですから、これからも勉強して、少しずつ考えていきたいのです」
公爵様はしばらく娘を見つめた。
「……それを、私に伝えたかったのか?」
「はい」
ロザリア様は静かに頷いた。
「わたくしの考えが、間違って伝わってしまったことは残念です。でも、だからといって、学校のことを考えるのをやめたくはありません」
その言葉に、公爵様は少しだけ目を細めた。
「……そうか」
そして、静かに頷いた。
「よろしい。ならば、続けなさい」
「……はい!」
ロザリア様の表情が明るくなった。
けれど、公爵様はすぐに続けた。
「ただし、考えるだけでは足りない。実際に何が必要なのか、数字と事情を確かめることだ」
「……はい」
「学校を再開するには、費用だけでなく、教える者や通う子どもたちの事情も考えねばならない」
「……わかっております」
ロザリア様は真剣な表情で頷いた。
「……先生と一緒に、もう少し調べてみますわ」
公爵様は小さく頷いた。
「……期待している」
その言葉に、ロザリア様は少しだけ頬を赤くした。
私はその様子を見ながら、胸の奥が温かくなるのを感じた。
ロザリア様は、誰かに褒められるためだけではなく、自分が知りたいと思ったことを学ぼうとしている。
それは、家庭教師として、とても嬉しいことだった。
◇
執務室を出たあと、ロザリア様は廊下で小さく息を吐いた。
「……緊張したわ」
「お疲れさまでした!」
「……先生、わたくし、変なことを言わなかったかしら」
「大丈夫ですよ。ちゃんと伝わっていたと思います」
私が笑うと、ロザリア様は少しだけ安心したように微笑んだ。
「……そう」
そして、少しだけ考えたあと、続けた。
「……先生」
「はい?」
「わたくし、学校のことをもっと調べたいわ」
「もちろんです!」
「でも、今度は数字だけではなく、実際に通っていた子どもたちのお話も聞いてみたいの」
私は思わず目を見開いた。
「……それ、すごくいいと思います!」
ロザリア様は少しだけ得意げに微笑んだ。
「でしょう?」
「はい! 学校を再開するなら、通う人たちが何を必要としているのか知ることも大切ですから」
「……そうよね」
ロザリア様は小さく頷いた。
「今度、領地へ行く機会があったら、先生も一緒に来てちょうだい」
「もちろんです!」
私は嬉しくなって、思わず大きく頷いた。
けれど、その瞬間、ロザリア様が少しだけ眉を寄せた。
「……ただし、先生」
「はい?」
「今度こそ、迷子にならないでちょうだいね」
「えっ!?」
私は思わず声を上げた。
「だ、大丈夫ですよ! 前回だって、そんなに迷ってませんし!」
「……先生」
「はい?」
「前回、厩舎へ行こうとして、なぜか厨房に着いたのは誰だったかしら?」
「……それは」
「それに、村の集会所へ向かう途中で、反対側の畑に出たのは?」
「……うっ」
私は言葉に詰まった。
ロザリア様は小さくため息をついた。
「……まったく。先生には、わたくしがついていないと駄目ね」
「そ、そんなことありませんよ!」
「ふふっ、どうかしら?」
ロザリア様は楽しそうに笑った。
私もつられて笑ってしまった。
噂の問題は、まだ完全には終わっていない。
けれど、ロザリア様は少しずつ、自分の考えを持って行動できるようになっている。
その姿を見ていると、私ももっと頑張らなくてはと思うのだった。
◇
その頃、リーヴェルト伯爵家では、伯爵夫人が机に向かっていた。
目の前には、数通の手紙が並んでいる。
どれも、先日の交流会での発言について、正確な内容を伝えるためのものだった。
「……まったく、面倒なことになったわね」
伯爵夫人は小さく呟いた。
けれど、手紙を書く手を止めることはなかった。
ヴァレンシュタイン公爵家との関係を悪化させるわけにはいかない。
それに、今回の件がこれ以上広まれば、リーヴェルト伯爵家の評判にも関わる。
「……エレノアにも、もう少し気をつけさせなくては」
伯爵夫人は小さく息を吐いた。
そして、最後の手紙を書き終えると、封を閉じた。
今回の噂は、ようやく収束へ向かおうとしていた。




