第33話 伯爵令嬢は笑顔を失う
その日の授業は、予定より早く終わることになった。
「ロザリア様、午後の歴史の授業はここまでにしましょう」
「……どうして?」
「セバスチャンさんから、少し予定が変わるかもしれないと伺ったんです」
私がそう答えると、ロザリア様は不思議そうに首を傾げた。
その直後、扉がノックされた。
「失礼いたします」
入ってきたセバスチャンさんは、いつもと変わらない落ち着いた表情をしていた。
「お嬢様、ベルフォード様。公爵閣下がお呼びでございます」
「……また、お父様が?」
「はい。ハーグレイヴ侯爵閣下より、先日の件についてご連絡がございました」
ロザリア様は椅子から立ち上がった。
「……ミレーヌ様のお父様から?」
「左様でございます」
私はロザリア様と顔を見合わせた。
どうやら、噂の件に動きがあったらしい。
◇
公爵様の執務室には、見覚えのある手紙が数通並べられていた。
けれど、前回と違って、公爵様の表情は少し険しかった。
「ロザリア、ベルフォード。座りなさい」
「はい、お父様」
「失礼いたします」
私たちが席に着くと、公爵様は一通の手紙を手に取った。
「ハーグレイヴ侯爵から連絡があった。交流会でのお前の発言について、噂がどのように広まったか、ある程度わかったそうだ」
ロザリア様は息を呑んだ。
「……本当ですの?」
「ああ。少なくとも、噂が広がった経路の一つは確認できた」
公爵様は手紙を机に置いた。
「リーヴェルト伯爵夫人が、交流会の翌日に、複数の貴族へ学校の話を伝えていたらしい」
「……リーヴェルト伯爵夫人」
ロザリア様の声がわずかに硬くなった。
「エレノア様のお母様ですわね」
「そうだ」
私は思わず口を開いた。
「では、エレノア様が噂を……?」
「そこまではわからない」
公爵様は静かに首を振った。
「伯爵夫人が誰から何を聞いたのか、まだ確認できていない。ただ、夫人が話した内容には、お前が公爵家の対応を疑問視していたという解釈が含まれていたそうだ」
ロザリア様は膝の上で手を握りしめた。
「……わたくしは、そのようなことは申しておりません」
「わかっている」
公爵様は頷いた。
「ハーグレイヴ侯爵令嬢も、実際に聞いた話とは違うと証言している」
「……ミレーヌ様が?」
「ああ。侯爵を通じて、正確な発言内容を伝えてくれた」
ロザリア様は驚いたように目を見開いた。
そして、少しだけ俯いた。
「……そうだったの」
私はその横顔を見ながら、胸が温かくなるのを感じた。
ミレーヌ様は、自分の立場を考えながらも、できることをしてくれたのだ。
「それで、お父様」
ロザリア様が顔を上げた。
「これから、どうなさるのですか?」
「リーヴェルト伯爵には、私から確認を取る」
「……わたくしも、お話ししたいですわ」
公爵様は少しだけ眉を上げた。
「何?」
「エレノア様に、直接お話を伺いたいのです」
私は思わずロザリア様を見た。
彼女の表情は真剣だった。
「……なぜだ?」
公爵様が尋ねる。
「わたくしは、エレノア様が何かをご存じなのではないかと思っています。でも、証拠はありません」
「……それで?」
「ですから、決めつける前に、ご本人にお話を伺いたいのです」
公爵様はしばらく娘を見つめていた。
「……相手が否定したら、どうする?」
ロザリア様は少し考えた。
「……そのときは、無理に問い詰めません」
「なぜだ?」
「証拠もないのに責めても、何もわからないからですわ」
公爵様は小さく頷いた。
「……よろしい」
ロザリア様は目を瞬かせた。
「……では?」
「伯爵家との正式な話は私が進める。そのうえで、相手が了承するなら、令嬢同士で話す機会を設けよう」
「……ありがとうございます、お父様」
ロザリア様は深く頭を下げた。
その横顔には、以前のような感情任せの怒りではなく、自分で確かめたいという意志が浮かんでいた。
◇
一方、リーヴェルト伯爵家では、エレノアが母親の部屋へ呼ばれていた。
「エレノア、こちらへいらっしゃい」
「……はい、お母様」
伯爵夫人は手紙を机に置いた。
「ヴァレンシュタイン公爵家から、問い合わせがあったそうよ」
エレノアは思わず顔を上げた。
「……公爵家から?」
「ええ。先日の交流会での発言について、確認したいことがあるそうなの」
伯爵夫人は穏やかに微笑んでいた。
けれど、その目は笑っていなかった。
「あなた、ロザリア様と学校のお話をしたのでしょう?」
「……はい」
「どんなことをおっしゃっていたの?」
エレノアは少しだけ迷った。
「……領地の学校が閉じられていて、再開する方法を考えていると……」
「それだけ?」
「……はい」
伯爵夫人はしばらく娘を見つめた。
「……そう」
そして、小さくため息をついた。
「困ったわね」
「……お母様?」
「わたくしは、あなたから聞いたお話を、少し詳しく伝えただけなのに」
エレノアは息を呑んだ。
「……詳しく?」
「ええ。公爵令嬢が、領地の学校が閉じられていることを問題視しているとお話ししたのよ」
エレノアは顔を青くした。
「……でも、それは……」
「何かしら?」
伯爵夫人が静かに尋ねる。
エレノアは言葉を詰まらせた。
母親は続けた。
「あなたも、もう少し考えてお話ししなければいけないわね。王宮での会話は、ただのおしゃべりではないのだから」
「……はい」
エレノアは俯いた。
けれど、胸の奥では別の感情が渦巻いていた。
(……わたくしは、そんなつもりでは)
確かに、ロザリアのことを面白く思っていなかった。
殿下が彼女にばかり話しかけるのが悔しくて、母親に少し不満をこぼしたのも事実だった。
けれど、それがこんな大きな話になるなんて、思ってもいなかった。
「……お母様」
「何?」
「わたくし、ロザリア様にお話ししたいことがございます」
伯爵夫人は眉を上げた。
「……何を?」
「……直接、お話ししてみたいのです」
母親はしばらく娘を見つめていた。
そして、静かに微笑んだ。
「……そう。なら、失礼のないようになさい」
エレノアは小さく頷いた。
けれど、その手は膝の上で震えていた。
◇
数日後、ヴァレンシュタイン公爵邸に、リーヴェルト伯爵家の馬車が到着した。
伯爵夫妻は公爵との面会のために訪れ、エレノアも同行していた。
ロザリア様とエレノア様の会話は、別室で行われることになった。
私は家庭教師として同席することを許されていたけれど、基本的には二人の話を見守るつもりだった。
「……ごきげんよう、ロザリア様」
「ごきげんよう、エレノア様」
二人は礼儀正しく挨拶を交わした。
けれど、その空気はどこか張り詰めていた。
お茶が運ばれ、使用人が下がると、ロザリア様が静かに口を開いた。
「……エレノア様。今日は、お話ししたいことがございます」
「……はい」
「先日の交流会で、わたくしが領地の学校についてお話ししたことを、覚えていらっしゃる?」
「……ええ」
「そのことについて、少し噂が広まっているようなの」
エレノア様は視線を落とした。
「……存じております」
ロザリア様は少しだけ息を呑んだ。
「……そう」
そして、静かに続けた。
「わたくしは、公爵家の領地運営を批判したつもりはありません。学校が閉じられていることを知り、どうすれば再開できるか考えているとお話ししただけですわ」
「……はい」
「エレノア様は、あのときの会話を、どのように覚えていらっしゃる?」
エレノア様はしばらく黙っていた。
そして、小さく答えた。
「……ロザリア様が、学校のことを心配していらっしゃると……」
「……そう」
ロザリア様は頷いた。
「では、公爵家を批判したとは、思われなかったのね?」
「……はい」
エレノア様の声は震えていた。
私はその様子を見ながら、胸の奥が少しざわついた。
どうやら、エレノア様も何かを抱えているらしい。
「……エレノア様」
ロザリア様が静かに名前を呼んだ。
「もし、何かご存じなら、教えていただけないかしら」
エレノア様は顔を上げた。
その瞳には、涙が浮かんでいた。
「……わたくし……」
そして、震える声で続けた。
「……お母様に、少しだけお話ししたんです」
ロザリア様は息を呑んだ。
「……お母様に?」
「はい。交流会で、ロザリア様が学校のお話をなさっていたことと……殿下が、とても楽しそうにお話しされていたことを」
エレノア様は俯いた。
「……わたくし、少し悔しかったんです」
その言葉に、ロザリア様は驚いたように目を見開いた。
「……悔しかった?」
「はい。わたくしも殿下とお話ししたかったのに、うまくできなくて……」
エレノア様は唇を噛んだ。
「だから、お母様に、ロザリア様は難しい話ばかりなさると申し上げました」
ロザリア様は何も言わなかった。
エレノア様は続けた。
「でも、学校のことがこんな噂になるなんて、思っていなかったんです」
涙が一粒、膝の上に落ちた。
「……ごめんなさい」
部屋は静まり返った。
ロザリア様はしばらくエレノア様を見つめていた。
そして、ゆっくりと口を開いた。
「……エレノア様」
「……はい」
「わたくし、あのときのあなたの言葉に、少し傷つきましたわ」
エレノア様は顔を上げた。
「……えっ?」
「殿下が退屈なさるかもしれないと言われて、わたくしは何も言い返せませんでした。でも、本当は……とても悔しかったの」
エレノア様は何も答えなかった。
「……それに、今回の噂も、わたくしにとっては大きな問題でしたわ」
「……はい」
「だから、簡単に気にしないとは言えません」
ロザリア様の声は静かだった。
けれど、はっきりとしていた。
「でも、あなたが直接お話ししてくださったことは、嬉しく思います」
エレノア様は驚いたように目を見開いた。
「……ロザリア様」
「わたくしも、まだわからないことばかりですもの」
ロザリア様は小さく息を吐いた。
「……だから、これからどうするかを考えたいですわ」
エレノア様はしばらく黙っていた。
そして、ゆっくりと頷いた。
「……はい」
私はその様子を見ながら、胸の奥が温かくなるのを感じた。
ロザリア様は、怒りを押し殺しているわけではない。
傷ついたことをきちんと伝えたうえで、相手の話も聞こうとしている。
それは、以前の彼女には難しかったことだ。
けれど、今のロザリア様なら、少しずつできるようになっている。
◇
その頃、公爵の執務室では、ヴァレンシュタイン公爵とリーヴェルト伯爵が向かい合っていた。
「……伯爵。今回の件について、説明をお願いしたい」
公爵の声は静かだった。
けれど、その言葉には重みがあった。
リーヴェルト伯爵は深く頭を下げた。
「……申し訳ございません、公爵閣下」
「謝罪よりも、まず事実を確認したい」
「……はい」
伯爵は少しだけ顔を上げた。
「妻が、娘から聞いた交流会の話を、他家の方々へ伝えたことは事実でございます」
「その際、私の領地運営について批判的な内容を含めたのか?」
「……そのように受け取られる表現があったようです」
公爵は静かに頷いた。
「……なるほど」
伯爵は続けた。
「ただ、妻に悪意があったかどうかについては……」
「悪意の有無だけが問題ではない」
公爵は静かに遮った。
「事実と異なる話が広まったことが問題なのだ」
伯爵は口を閉じた。
「……おっしゃる通りでございます」
公爵はしばらく考えたあと、続けた。
「私が求めるのは、関係者への正確な説明だ。娘が何を話したのか、事実に基づいて訂正していただきたい」
「……承知いたしました」
伯爵は深く頭を下げた。
公爵は小さく頷いた。
「では、そのように」
話し合いは、それで終わった。
けれど、公爵は伯爵が退出したあとも、しばらく机の上の手紙を見つめていた。
今回の件は、単なる子ども同士の行き違いではない。
王宮での些細な会話が、家同士の関係にまで影響する。
その事実を、娘は今回初めて身をもって知ったのだろう。
「……まだ十一歳か」
公爵は小さく呟いた。
そして、静かに書類を閉じた。




