第32話 侯爵令嬢は噂を調べる
ハーグレイヴ侯爵家の朝は、いつも静かだった。
食堂には焼きたてのパンの香りが漂い、窓の向こうでは庭師たちが花壇の手入れを始めている。
けれど、その日のミレーヌは、目の前の朝食よりも昨夜書き留めた一枚の紙が気になっていた。
「ミレーヌ、今日は随分と考え込んでいるな」
父に声をかけられ、ミレーヌは慌てて顔を上げた。
「申し訳ありません、お父様」
「謝ることではない。例の件か?」
「……はい」
侯爵は小さく頷いた。
「整理してみて、何かわかったか?」
「まだ、はっきりしたことはわかりません。ただ……」
ミレーヌは少しだけ迷ったあと、口を開いた。
「わたくしが聞いた言葉と、噂になっている言葉には、違いがあるように思うのです」
「ほう」
「ロザリア様は、学校が閉じられていることをお話しになりました。でも、公爵家の対応を責めるようなことは、一度もおっしゃっていません」
「それは、お前が直接聞いたことだな?」
「はい」
「では、噂については?」
「……交流会の翌日、知り合いの令嬢から聞きました。ロザリア様が、公爵家は領地の子どもたちを顧みていないとおっしゃった、という話でした」
侯爵は少しだけ眉を寄せた。
「なるほど。ずいぶんと意味が変わっているな」
「はい。ですが、その方も直接聞いたわけではないそうです」
「……そうか」
侯爵はしばらく考えたあと、静かに言った。
「ミレーヌ。お前がすべきことは、誰かを疑うことではない。まずは、どこまでが確かな話なのかを見極めることだ」
「……はい」
「そして、わからないことは、わからないままにしておきなさい」
その言葉に、ミレーヌは少しだけ微笑んだ。
先日、ロザリアも似たようなことを言っていた。
以前の彼女なら、きっと自分の考えを曲げずに言い切っていただろう。
けれど、今は違う。
(……本当に、変わられましたわね)
ミレーヌは小さく息を吐き、朝食を再開した。
◇
その日の午後、ミレーヌは母に付き添って、親戚の屋敷で開かれる小さなお茶会に参加していた。
集まっているのは、いずれも顔見知りの貴族令嬢たちだった。
季節の花や新しいドレスの話で盛り上がる中、ミレーヌは一人の少女に声をかけた。
「セシル様、少しよろしいかしら?」
「まあ、ミレーヌ様。どうなさいました?」
セシル・オルディス子爵令嬢は、ミレーヌより一つ年下の少女だった。
王宮交流会には参加していなかったけれど、その翌日、例の噂をミレーヌに伝えてきた人物でもある。
「先日のお話について、少し伺いたいことがありますの」
「先日……?」
「ヴァレンシュタイン公爵令嬢のお話ですわ」
セシルは「ああ」と小さく頷いた。
「学校の件ですわね」
「ええ。あのお話、どなたから伺ったのか覚えていらっしゃる?」
セシルは少し考えた。
「確か、母から聞きましたの。母が知り合いの方とお話ししていたときに、そんな話題になったそうで」
「……お母様から?」
「ええ。王宮の交流会で、公爵令嬢が領地のことをずいぶん厳しくお話しになったとか」
ミレーヌは眉を寄せた。
「……厳しく?」
「はい。公爵家のやり方に問題があるのではないか、と」
それは、ミレーヌが実際に聞いたロザリアの言葉とは違っていた。
「……そうでしたのね」
ミレーヌは静かに頷いた。
「でも、どうしてそんなことを?」
セシルが不思議そうに尋ねる。
ミレーヌは少しだけ考えたあと、答えた。
「わたくしも交流会に参加しておりましたので、少し気になりましたの」
「まあ、そうでしたわね!」
セシルは目を丸くした。
「では、ロザリア様は本当にそのようなことをおっしゃったの?」
ミレーヌは一瞬、言葉に詰まった。
ここで否定すれば、セシルはきっと驚くだろう。
そして、その話がまた別の場所へ広がるかもしれない。
けれど、黙っていれば、間違った話がそのまま残ってしまう。
「……少なくとも、わたくしがお話を伺ったときには、そのようなことはおっしゃっていませんでしたわ」
ミレーヌは慎重に答えた。
「ロザリア様は、学校が閉じられていることを心配なさっていました。でも、公爵家を批判するようなお言葉はありませんでした」
「……まあ」
セシルは驚いたように目を瞬かせた。
「では、どこかでお話が変わってしまったのかしら」
「……その可能性はありますわね」
ミレーヌは小さく頷いた。
これ以上、誰かの名前を出すつもりはなかった。
けれど、少なくとも自分が直接聞いたことだけは、正確に伝えたかったのだ。
◇
一方、ヴァレンシュタイン公爵邸では、ロザリア様がいつになく難しい顔で机に向かっていた。
「……先生」
「はい?」
「この文章、どう思うかしら」
差し出された紙には、丁寧な文字で短い文章が書かれていた。
『わたくしは、父の領地運営を批判する意図で発言したものではございません』
「……ロザリア様、これは?」
「もし誰かに聞かれたときのために、考えてみたの」
私は少し驚いた。
「なるほど。自分の言葉で説明しようとしているんですね」
「ええ。でも……」
ロザリア様は少しだけ眉を寄せた。
「これでは、まるでわたくしが何か悪いことをしたみたいではなくて?」
私は文章を読み返した。
確かに、誤解を解こうとしているのに、少し言い訳のようにも聞こえるかもしれない。
「……そうですね。最初から否定するよりも、実際に何を話したのかを説明した方がいいかもしれません」
「……何を話したか?」
「はい。例えば、学校が閉じられていることを知って、再開する方法を考えていると話した、とか」
ロザリア様は少し考えた。
「……それなら、事実だけを伝えられるわね」
「はい。もちろん、どんな場面で説明するかによっても変わると思いますけど」
「……なるほど」
ロザリア様は新しい紙を取り出した。
そして、ゆっくりと文章を書き始めた。
『領地を訪れた際、村の学校が閉じられていることを知りました。わたくしは、その学校を再開する方法について考えております』
書き終えると、ロザリア様は私を見た。
「……これなら、どうかしら?」
「いいと思います! ロザリア様が実際に考えていることが、きちんと伝わりますね」
「……そう」
ロザリア様は少しだけ微笑んだ。
けれど、すぐに真剣な表情へ戻った。
「でも、先生」
「はい?」
「もし、わたくしの言葉をまた別の意味に取られたら、どうすればいいのかしら」
私は少し考えた。
正直に言えば、私にも答えはわからなかった。
どれほど気をつけて話しても、誤解されることはある。
まして、貴族社会の複雑な人間関係については、私よりロザリア様の方が詳しい部分もあるだろう。
「……全部を防ぐのは、難しいかもしれませんね」
「……そうよね」
「でも、だからといって、何も話さなくなるのは違うと思います。大切なことは、必要な相手に、できるだけ正確に伝えることじゃないでしょうか」
ロザリア様はしばらく黙っていた。
そして、小さく頷いた。
「……わかったわ」
私はその表情を見ながら、少しだけ安心した。
けれど、今回の噂がどこから生まれたのか、まだわかっていない。
そして、それがただの誤解なのか、誰かの意図によるものなのかも。
◇
数日後、ハーグレイヴ侯爵家に一通の手紙が届いた。
差出人は、オルディス子爵夫人だった。
ミレーヌの母に宛てた、次のお茶会についての返事である。
けれど、その末尾には、少し気になる一文が添えられていた。
『先日の王宮交流会のお話につきましては、リーヴェルト伯爵夫人より伺いました。どうやら、さまざまなお考えがあるようでございますね』
ミレーヌは母からその一文を見せてもらい、思わず息を呑んだ。
「……リーヴェルト伯爵夫人?」
それは、エレノアの母親だった。
ミレーヌはしばらく手紙を見つめていた。
エレノアは、交流会でロザリアと直接話していた。
そして、その母親が、交流会の翌日には学校の話を別の貴族へ伝えていたという。
もちろん、それだけでエレノアが噂を流したとは言えない。
母親がどこから話を聞いたのかも、まだわからない。
けれど、少なくとも一つ、噂が広まった道筋が見えてきた。
(……どうしましょう)
ミレーヌは小さく息を吐いた。
リーヴェルト伯爵家は、王宮とも付き合いのある家だ。
不用意に名前を出せば、思わぬ問題になるかもしれない。
けれど、ロザリアは今も、身に覚えのない噂に悩んでいる。
ミレーヌはしばらく考えたあと、手紙を丁寧に畳んだ。
「……お父様に、ご相談しなくては」
彼女は静かに立ち上がった。
自分一人で何かを決めるには、まだ知らないことが多すぎる。
けれど、何もしないままでいるつもりもなかった。
◇
その夜、リーヴェルト伯爵家の食堂では、エレノアが母親と向かい合っていた。
「エレノア」
「はい、お母様」
「先日の交流会では、ヴァレンシュタイン公爵令嬢とお話ししたそうね」
「……はい」
「どのようなお話を?」
エレノアは少しだけ視線を落とした。
「……領地の学校について、お話しされていましたわ」
「そう」
伯爵夫人は静かに頷いた。
「公爵家のご令嬢が、領地の問題を口にされるなんて、少し珍しいことね」
「……そうですわね」
エレノアは小さく答えた。
母親はしばらく娘を見つめていたが、やがて穏やかに微笑んだ。
「あなたも、もっと殿下とお話しできる機会を作らなくてはね」
「……はい」
「ヴァレンシュタイン公爵家ばかりが、特別扱いされるわけではないのですから」
エレノアは何も答えなかった。
ただ、膝の上でそっと手を握りしめた。
交流会で、レオンハルト殿下がロザリアに微笑みかけていた姿を思い出す。
自分も、あの場にいた。
けれど、殿下はロザリアの橋の模型について、楽しそうに話していた。
(……わたくしだって)
エレノアは唇を噛んだ。
けれど、その思いを言葉にすることはなかった。
母親の前では、いつも通りの笑顔を浮かべているしかなかったのだ。




