第31話 侯爵令嬢の小さな決断
ミレーヌ様からの手紙が届いて五日後、ヴァレンシュタイン公爵邸では、小さなお茶会が開かれることになった。
招待客はミレーヌ様ただ一人。もともとロザリア様が交流会で約束していたお茶会だったけれど、例の噂が広まってからというもの、少し違う意味を持つようになっていた。
「先生、このお花はどうかしら?」
「綺麗ですね! ドレスの色にも合っていますよ」
「そう。なら、これにするわ」
ロザリア様は鏡の前で髪飾りを確かめると、ようやく満足したように頷いた。
今日の彼女は淡い藤色のドレスを着ている。いつもなら身支度を終えるとすぐに私のところへ来るのに、今日は何度も鏡を見直していた。
「……ロザリア様、緊張していますか?」
「していないわ」
「そうですか?」
「……少しだけよ」
私は思わず笑ってしまった。
「大丈夫ですよ。ミレーヌ様は、以前からお知り合いなんでしょう?」
「ええ。でも、二人きりでお茶会をするのは初めてなの」
「そうなんですね」
「それに……」
ロザリア様は言葉を切り、机の上に置かれた手紙へ目を向けた。
そこには、ミレーヌ様から届いた例の一文がある。
『先日の交流会について、少しお伝えしたいことがございます』
あの言葉が、ずっと気になっているのだろう。
「……何をお話しになるのかしら」
「それは、直接聞いてみないとわかりませんね」
「……先生は本当に、すぐそう言うわね」
「だって、今の段階では何もわかりませんから」
私が笑うと、ロザリア様は小さくため息をついた。
「……そうね。勝手に決めつけるのは、よくないもの」
その言葉に、私は少しだけ嬉しくなった。
けれど、今日のお茶会がロザリア様にとって簡単なものではないことも、わかっていた。
◇
午後になると、ミレーヌ様を乗せた馬車が公爵邸へ到着した。
「ロザリア様、ごきげんよう」
「ミレーヌ様。ようこそいらっしゃいました」
二人は礼儀正しく挨拶を交わした。
ミレーヌ様は深い緑色の瞳をした、落ち着いた雰囲気の少女だった。今日のドレスは柔らかなクリーム色で、胸元には小さな花の刺繍が施されている。
「まあ、素敵な刺繍ですわね」
ロザリア様が目を留めると、ミレーヌ様は嬉しそうに微笑んだ。
「ありがとうございます。実は、少しだけ自分で手を加えましたの」
「ご自分で?」
「ええ。まだ上手とは言えませんけれど」
「そんなことありませんわ。とても綺麗ですもの」
ミレーヌ様は一瞬、驚いたように目を瞬かせた。
そして、少し照れたように微笑んだ。
「……ありがとうございます、ロザリア様」
私はその様子を少し離れた場所から見守っていた。
今日のお茶会では、私は給仕や案内をするわけではない。ロザリア様の家庭教師として、必要があれば助言する立場だ。
ただ、せっかくの機会なので、最初にご挨拶だけさせていただくことになっていた。
「ミレーヌ様、初めまして。ロザリア様の家庭教師を務めております、エリシア・ベルフォードと申します」
私が頭を下げると、ミレーヌ様は穏やかに微笑んだ。
「まあ、あなたがエリシア先生ですのね」
「はい!」
「ロザリア様から、少しお話を伺っておりますわ」
「えっ、そうなんですか?」
「ええ。とても熱心な先生でいらっしゃるとか」
私は思わずロザリア様を見た。
すると、彼女は少しだけ視線を逸らした。
「……余計なことは言っていなくてよ」
「えっ、何ですかその言い方!?」
私が慌てると、ミレーヌ様はくすりと笑った。
「ふふっ。お二人は、仲がよろしいのですね」
「そ、そうでしょうか?」
「……先生が少し騒がしいだけですわ」
「ロザリア様!?」
今度はミレーヌ様が声を上げて笑った。
その笑顔を見て、ロザリア様も少しだけ肩の力を抜いたようだった。
◇
お茶会が始まってしばらくは、穏やかな時間が流れた。
ロザリア様は約束していた橋の模型を持ってきて、ミレーヌ様に改良した部分を説明していた。
「こちらの支柱を増やしたことで、以前よりも重さを支えられるようになりましたの」
「まあ、本当に橋になっていますのね」
「もちろんですわ。まだ小さな模型ですけれど」
「すごいですわ。わたくしには、こういうものを作る発想がありませんもの」
ミレーヌ様は興味深そうに模型を覗き込んだ。
「でも、どうして橋を作ろうと思われたのですか?」
「……最初は、先生が出してくださった課題がきっかけでしたの」
ロザリア様は少し考えたあと、続けた。
「でも、作っているうちに、どうすればもっと丈夫になるのか気になってしまって」
「ふふっ、ロザリア様らしいですわね」
「……そうかしら?」
「ええ。昔から、一度決めたことは最後までやり遂げようとなさるでしょう?」
ロザリア様は少しだけ照れたように微笑んだ。
「……そう言っていただけると、嬉しいですわ」
私はその会話を聞きながら、そっと席を外した。
二人だけで話した方がいいこともあるだろう。
何より、今日のお茶会はロザリア様が自分で開いたものだ。私がずっと隣にいる必要はない。
部屋を出る前に振り返ると、ロザリア様はミレーヌ様に何かを尋ね、二人で楽しそうに笑っていた。
(……よかった)
私は静かに扉を閉めた。
◇
しばらくして、ミレーヌはカップを置いた。
「……ロザリア様」
「何かしら?」
「先日のお手紙に書いたことなのですけれど」
ロザリアの表情が、わずかに引き締まった。
「……ええ」
ミレーヌは少しだけ視線を落とした。
「交流会のあと、ある方から気になるお話を聞きましたの」
「……どのようなお話?」
「ロザリア様が、公爵家の領地運営について不満をおっしゃっていた、というものですわ」
ロザリアは息を呑んだ。
「……やっぱり、その噂が」
「ご存じでしたのね」
「ええ。お父様から聞きましたわ」
ロザリアは膝の上で手を握った。
「でも、わたくしはそんなこと、申しておりません」
「……ええ」
ミレーヌは静かに頷いた。
「わたくしも、そう思っております」
ロザリアは驚いたように顔を上げた。
「……本当?」
「はい。あの場で、わたくしもお話を伺っていましたもの」
その言葉に、ロザリアの表情が少しだけ和らいだ。
「……ありがとう、ミレーヌ様」
けれど、ミレーヌはすぐに続けた。
「ただ……申し訳ありません。わたくし、噂を流した方が誰なのかは存じませんの」
「……そう」
「わたくしが聞いたのも、別の方からですし、その方も誰から聞いたのかは、はっきりおっしゃいませんでした」
ロザリアは少しだけ俯いた。
やはり、簡単にはわからないらしい。
「……エレノア様かもしれないと思ったの」
思わず口にすると、ミレーヌは目を瞬かせた。
「エレノア様、ですか?」
「ええ。あの方は、わたくしに公爵家が費用を出せばいいのではないかとおっしゃったわ。それなのに、わたくしが批判したことになっているなんて……」
ロザリアはそこで言葉を切った。
そして、小さく首を振った。
「……でも、証拠はないのよね」
ミレーヌは静かに頷いた。
「ええ。わたくしも、今の段階では何とも申し上げられません」
ロザリアは深く息を吐いた。
「……悔しいわ」
「……そうですわね」
「何も悪いことを言っていないのに、こんなふうに思われるなんて」
ミレーヌはしばらく黙っていた。
そして、少しだけ迷ったあと、口を開いた。
「……ロザリア様」
「何かしら?」
「わたくし、ひとつだけお伝えしたいことがございます」
ロザリアは顔を上げた。
「……ええ」
「わたくしの父は、ヴァレンシュタイン公爵家との関係を大切にしております」
「……そうでしょうね」
「ですから、わたくしも幼い頃から、ロザリア様とは良い関係を築くようにと言われてまいりました」
ロザリアは少しだけ目を見開いた。
ミレーヌは静かに続けた。
「正直に申し上げますと、今までは、そうした家の事情もあってお付き合いしていた部分がございます」
「……そう」
ロザリアは少しだけ視線を落とした。
貴族の付き合いに家の事情が関わることは、彼女も理解している。
けれど、面と向かって言われると、やはり少し寂しい気持ちになった。
「……でも」
ミレーヌはそこで、少しだけ微笑んだ。
「今日、ロザリア様とお話ししていて、以前よりもずっと楽しいと感じましたの」
「……えっ?」
「橋の模型のお話も、領地のお話も。わたくしが知らないことばかりで、とても興味深かったですわ」
ロザリアは驚いたようにミレーヌを見つめた。
「……本当に?」
「ええ。だから、これからは家の事情だけではなく、わたくし自身の気持ちでも、ロザリア様とお付き合いしていけたらと思っています」
ミレーヌは少しだけ照れたように笑った。
「……急にこんなことを申し上げて、驚かせてしまいましたわね」
ロザリアはしばらく何も言えなかった。
そして、ゆっくりと微笑んだ。
「……ありがとう、ミレーヌ様」
その声は、いつもより少し柔らかかった。
「わたくしも、今日のお茶会はとても楽しいですわ」
「……嬉しいです」
二人は顔を見合わせ、小さく笑った。
けれど、ミレーヌはすぐに表情を引き締めた。
「……ただ、ひとつだけ」
「何かしら?」
「今回の噂について、わたくしが表立って何かを申し上げることは、今のところ難しいと思います」
ロザリアは静かに頷いた。
「……わかっていますわ」
「申し訳ありません」
「謝らないでちょうだい。ミレーヌ様にも、侯爵家の立場があるのでしょう?」
ミレーヌは少し驚いたように目を瞬かせた。
以前のロザリアなら、きっと不満そうな顔をしただろう。
けれど、今の彼女は違った。
「……それでも、今日こうしてお話ししてくださっただけで、嬉しいですわ」
その言葉に、ミレーヌは胸の奥が少し温かくなるのを感じた。
「……ありがとうございます、ロザリア様」
二人は静かに微笑み合った。
それはまだ、親友と呼べるほど深い関係ではなかった。
けれど、以前よりも確かに、少しだけ距離が縮まった瞬間だった。
◇
お茶会が終わり、ミレーヌ様を見送ったあと、私はロザリア様の部屋を訪ねた。
「ロザリア様、お疲れさまでした!」
「……先生」
ロザリア様は少しだけ疲れた顔をしていたけれど、どこか満足そうだった。
「どうでした? お茶会は楽しかったですか?」
「ええ。とても」
ロザリア様は小さく微笑んだ。
「ミレーヌ様と、いろいろなお話ができたわ」
「それはよかったです!」
「……それに、例の噂についても、少しお話ししたの」
私は思わず表情を引き締めた。
「……何かわかったんですか?」
「いいえ。誰が噂を流したのかは、まだわからないわ」
「……そうですか」
「でも、ミレーヌ様は、わたくしがそんなことを言っていないとわかってくださっていたの」
ロザリア様は少しだけ嬉しそうに微笑んだ。
「……それだけでも、少し安心したわ」
私は静かに頷いた。
「はい。よかったですね」
ロザリア様は窓の外へ目を向けた。
「……先生」
「はい?」
「わたくし、今まで友達というものを、あまり考えたことがなかったわ」
その言葉に、私は少し驚いた。
「……そうなんですか?」
「ええ。お茶会で会う方々は、みんな家の事情でお付き合いしているのだと思っていたもの」
ロザリア様は少しだけ考えたあと、続けた。
「でも、ミレーヌ様は、これからはご自分の気持ちでもお付き合いしたいとおっしゃってくださったの」
「……それは、嬉しいですね」
「ええ」
ロザリア様は小さく頷いた。
「……わたくしも、そう思ったわ」
私は思わず笑顔になった。
ロザリア様が、誰かと友達になりたいと思っている。
それは、家庭教師になったばかりの頃には、想像できなかったことだった。
「きっと、これからもっと仲良くなれますよ!」
「……そうかしら?」
「はい!」
私が力強く頷くと、ロザリア様は少しだけ照れたように笑った。
「……先生は、いつもそうやって簡単に言うわね」
「えっ、そうですか?」
「ええ。でも……」
ロザリア様はそこで言葉を切り、少しだけ微笑んだ。
「……今日は、信じてみてもいいかもしれないわ」
私は嬉しくなって、思わず笑ってしまった。
◇
その夜、ハーグレイヴ侯爵家では、ミレーヌが父の書斎を訪れていた。
「……お父様」
「どうした、ミレーヌ」
「本日、ヴァレンシュタイン公爵邸へ伺ってまいりました」
「ああ。ロザリア嬢のお茶会だったな」
「はい」
侯爵は書類から顔を上げた。
「どうだった?」
「……とても楽しい時間でした」
「そうか。それは何よりだ」
ミレーヌは少しだけ迷ったあと、続けた。
「……お父様、ひとつお伺いしてもよろしいでしょうか」
「何だ?」
「先日の王宮交流会について、ロザリア様に関する噂が広まっていると聞きました」
侯爵の表情が、わずかに変わった。
「……その話か」
「はい。わたくしも、その場におりましたので……」
ミレーヌはそこで言葉を切った。
侯爵はしばらく娘を見つめたあと、静かに口を開いた。
「ミレーヌ。お前は、その噂についてどう思う?」
「……事実とは違うと思います」
「なぜだ?」
「わたくしが、実際にロザリア様のお話を聞いていたからです」
侯爵は小さく頷いた。
「……なるほど」
ミレーヌは少しだけ緊張しながら、続けた。
「……お父様。わたくしは、どうすればよいのでしょうか」
侯爵はすぐには答えなかった。
そして、机の上の書類を静かに閉じた。
「……ミレーヌ」
「はい」
「貴族の世界では、正しいことを知っているだけでは、十分ではない」
ミレーヌは息を呑んだ。
「……はい」
「だが、知っていることを黙っているのが、常に正しいわけでもない」
侯爵は静かに娘を見つめた。
「お前が何を見て、何を聞いたのか。まずは、それを正確に整理しなさい」
「……整理、ですか?」
「ああ。誰が何を言ったのか、自分が直接聞いたことと、人づてに聞いたことを分けるのだ」
ミレーヌは少し考えたあと、静かに頷いた。
「……わかりました」
「そのうえで、必要なら私に相談しなさい」
「……はい」
ミレーヌは深く頭を下げた。
部屋を出ると、彼女は小さく息を吐いた。
ロザリアのことを、もっと知りたいと思った。
できることなら、力になりたいとも思う。
けれど、自分一人の気持ちだけで動けるわけではない。
(……まずは、わたくしにできることから)
ミレーヌは静かに決意し、自室へと戻っていった。




