第30話 公爵令嬢は噂に振り回されない?
王宮を出た馬車の中で、ロザリア様は珍しく静かだった。
交流会ではレオンハルト殿下とお話しできたし、以前から顔見知りだったミレーヌ様とも、今度お茶会を開く約束をしたという。それなのに、窓の外を眺める横顔は、どこか考え込んでいるように見えた。
「ロザリア様、疲れましたか?」
「……少しだけ。でも、楽しかったわ」
「それならよかったです!」
私が笑うと、ロザリア様は小さく頷いた。
「先生こそ、ずっと待っていて退屈だったのではなくて?」
「持っていった本も読めましたし、領地の学校についても少し考えられましたから、大丈夫ですよ」
「そう。……ところで、さっき言っていた気になることって何かしら?」
「ああ、それなんですけど……」
私は控えの間で起きた出来事を説明した。
見知らぬ侍女が訪ねてきて、ロザリア様について気になるやり取りがあったと告げたこと。けれど、詳しい話を聞く前に別の侍従が現れ、そのまま侍女が立ち去ってしまったこと。
ロザリア様は最後まで黙って聞いていたけれど、話し終えると眉を寄せた。
「……変な話ね」
「そうなんです。何か問題があったのかと思ったんですけど、担当の方は何も報告されていないとおっしゃっていて」
「その侍女は、誰に頼まれて来たのかしら?」
「それもわからないんです」
「……そう」
ロザリア様は腕を組んだ。
「先生を呼び出そうとしていたのかもしれないわ」
「えっ?」
「だって、先生がわたくしのことを心配するのは、誰でもわかるでしょう? 何かあったと言われれば、様子を見に来ると思ったのではなくて?」
私は思わず口を閉じた。
確かに、あのまま話を聞いていたら、交流会の会場へ行こうとしたかもしれない。
「……そういう可能性もありますね」
「まったく。先生はすぐに人を信じるんだから」
「うっ……」
反論できなかった。
けれど、ロザリア様はそこで小さく息を吐いた。
「……でも、わたくしも人のことは言えないわね」
「何かあったんですか?」
「ええ。今日、初めてお会いした伯爵令嬢に、少し気になることを言われたの」
ロザリア様はエレノア様との会話を話してくれた。
領地の学校について話したとき、公爵家が費用を出せばいいのではないかと言われたこと。そして、難しい話ばかりしているとレオンハルト殿下が退屈するかもしれない、と忠告されたこと。
「……わたくし、あのときは何も言い返せなかったの」
「そうだったんですね」
「でも、殿下は橋の模型について聞いてくださったし、学校のことにも興味を持ってくださったわ。だから、あの方の言うことが正しかったわけではないと思うの」
「はい」
「それなのに……」
ロザリア様は膝の上で手を握った。
「なんだか、負けたような気がして悔しいのよ」
私は少しだけ驚いた。
以前のロザリア様なら、相手の言葉に腹を立てて、すぐに言い返していたかもしれない。
けれど、今は自分の気持ちを整理しようとしている。
「ロザリア様、言い返さなかったことが負けになるとは限りませんよ」
「……そうかしら?」
「はい。もちろん、嫌なことを言われたら、嫌だと伝えてもいいと思います。でも、相手が何を考えているのかわからないときは、すぐに答えを出さなくてもいいんじゃないでしょうか」
「……また、わからないことはわからないままでいいって言うの?」
「ふふっ、そうですね」
私が笑うと、ロザリア様は少しだけ呆れた顔をした。
「先生は本当に、そればかりね」
「だって、わからないものを無理に決めつけると、間違えてしまうこともありますから」
「……そうね」
ロザリア様は窓の外へ目を向けた。
「ミレーヌ様も、似たようなことをおっしゃっていたわ」
「ミレーヌ様が?」
「ええ。殿下が何をお好みになるかは、殿下ご自身にしかわからないって」
ロザリア様は少しだけ微笑んだ。
「……今度のお茶会、楽しみだわ」
その表情を見て、私は嬉しくなった。
ただ、控えの間を訪れた侍女のことは、まだ心に引っかかっていた。
◇
それから三日後の午後。
私はロザリア様と算術の授業をしていた。
「この問題は、前に解いたものと少し似ていますね」
「ええ。でも、今回は条件が一つ増えているわ」
「その通りです! そこに気づけたなら、あとは……」
そこまで話したところで、扉がノックされた。
「失礼いたします」
入ってきたのはセバスチャンさんだった。
「お嬢様、少々お時間をいただいてもよろしいでしょうか」
「何かしら?」
「公爵閣下がお呼びでございます」
ロザリア様は目を瞬かせた。
「お父様が?」
「はい。ベルフォード様にも、同席していただきたいとのことです」
「……私もですか?」
「左様でございます」
私はロザリア様と顔を見合わせた。
公爵様が授業の途中で二人を呼び出すなんて、珍しいことだ。
何かあったのだろうか。
「……わかったわ。すぐに行きます」
ロザリア様は静かに立ち上がった。
その表情には、わずかな緊張が浮かんでいた。
◇
公爵様の執務室へ入ると、机の上には数通の手紙が置かれていた。
「ロザリア、ベルフォード。座りなさい」
「はい、お父様」
「失礼いたします」
私たちは向かい合う椅子に腰を下ろした。
公爵様はしばらく二人を見つめたあと、一通の手紙を手に取った。
「先日の王宮交流会について、少し確認したいことがある」
「……交流会、ですか?」
ロザリア様の声がわずかに硬くなった。
「ロザリア。お前は交流会の席で、領地の学校について話したそうだな」
「……はい」
「どのような話をした?」
ロザリア様は少し考えたあと、正直に答えた。
「村の学校が閉じられていることと、再開する方法を考えていることをお話ししましたわ」
「それだけか?」
「……はい。まだ具体的な方法は決まっていないので、詳しい計画についてはお話ししておりません」
公爵様は静かに頷いた。
「では、公爵家が学校を閉じたことを批判するような発言は?」
「……えっ?」
ロザリア様は目を見開いた。
「そのようなこと、申しておりませんわ!」
思わず声が大きくなったことに気づき、彼女は慌てて口を閉じた。
「……失礼いたしました。でも、わたくしは……」
「落ち着きなさい。責めているわけではない」
公爵様は手紙を机に置いた。
「現在、一部の貴族の間で、お前が交流会の席で公爵家の領地運営を批判したという話が広まっている」
「……そんな」
ロザリア様の顔から血の気が引いた。
私も思わず息を呑んだ。
「それは、何かの間違いではありませんか?」
私が尋ねると、公爵様は頷いた。
「私もそう考えている。だが、実際に学校の話をしたことは事実なのだろう?」
「はい……」
「ならば、その会話がどのように伝わったのか、確かめる必要がある」
ロザリア様は膝の上で手を握りしめた。
「……お父様、わたくしは本当に、そのようなことは……」
「わかっている。だから、まず本人に確認しているのだ」
公爵様の声は静かだった。
けれど、その言葉に、ロザリア様は少しだけ表情を緩めた。
「……はい」
「誰と話したか、覚えているか?」
「ええ。エレノア・リーヴェルト伯爵令嬢と、ミレーヌ・ハーグレイヴ侯爵令嬢ですわ」
ロザリア様はそう答えたあと、はっとしたように顔を上げた。
「……まさか、エレノア様が?」
私は思わずロザリア様を見た。
彼女の声には、明らかな怒りが混じっていた。
「だって、あの方はわたくしに、公爵家が費用を出せばいいのではないかとおっしゃったのよ! それなのに、わたくしが批判したことになっているなんて……!」
「ロザリア」
公爵様が静かに名前を呼んだ。
「……はい」
「その伯爵令嬢が噂を流したという証拠はあるのか?」
ロザリア様は口を閉じた。
「……ありませんわ」
「ならば、今は決めつけるべきではない」
「……でも」
「気持ちはわかる。だが、相手を疑うことと、相手が実際に何かをしたことは別だ」
ロザリア様は俯いた。
私はその横顔を見ながら、馬車の中での会話を思い出していた。
わからないことを、無理に決めつけない。
口で言うのは簡単だけれど、実際に自分が嫌な思いをしたとき、それを守るのは難しい。
「……お父様」
しばらくして、ロザリア様が小さく口を開いた。
「わたくし、悔しいですわ」
「……そうだろうな」
「何も悪いことを言っていないのに、どうしてそんな話になるのか……」
公爵様はしばらく娘を見つめていた。
「……だからこそ、言葉には気をつけなければならない」
「……はい」
「だが、何も話さなければよかったということでもない。大切なのは、何を話すべきか、誰にどのように伝えるべきかを考えることだ」
ロザリア様はゆっくりと顔を上げた。
「……わかりましたわ」
公爵様は小さく頷いた。
「この件はこちらでも確認する。お前は、今は普段どおりに過ごしなさい」
「……はい」
私たちは一礼し、執務室を後にした。
◇
廊下へ出ると、ロザリア様はしばらく黙って歩いていた。
私は何と声をかければいいのかわからず、その隣を歩いていた。
「……先生」
「はい?」
「わたくし、何か間違えたのかしら」
その声は、いつもより少し小さかった。
「……ロザリア様」
「学校の話なんて、しなければよかったのかもしれないわ」
私は思わず足を止めた。
「そんなことはありませんよ」
「でも、実際にこんなことになってしまったでしょう?」
「……はい。でも、ロザリア様が村で見たことや考えたことまで、間違いだったわけではありません」
ロザリア様は俯いたまま、何も答えなかった。
私は少し考えてから、続けた。
「ただ、私もまだ、どうすればよかったのかはわかりません。王宮での会話が、こんなふうに伝わることもあるなんて……」
「……先生にも、わからないの?」
「はい。残念ながら」
私が苦笑すると、ロザリア様は少しだけ顔を上げた。
「……頼りない先生ね」
「うっ……それは否定できません」
すると、ロザリア様は小さく笑った。
けれど、その笑顔はすぐに消えた。
「……わたくし、エレノア様を疑ってしまったわ」
「……そうですね」
「証拠もないのに」
「でも、そう思ってしまうのは自然なことだと思いますよ」
「……そうかしら」
「大切なのは、疑ったことよりも、そのあとどうするかじゃないでしょうか」
ロザリア様はしばらく考え込んでいた。
そして、静かに頷いた。
「……そうね」
そのとき、廊下の向こうからセバスチャンさんが歩いてきた。
「お嬢様」
「……何かしら?」
「ハーグレイヴ侯爵家より、お手紙が届いております」
ロザリア様は目を瞬かせた。
「ミレーヌ様から?」
「はい。お嬢様宛てでございます」
差し出された封筒には、見覚えのある家紋が押されていた。
ロザリア様は少し迷ったあと、丁寧に封を開いた。
中には、先日のお茶会の誘いに対する返事が書かれていた。
ぜひ伺いたいという言葉に、ロザリア様の表情が少し明るくなる。
けれど、最後の一文を読んだ瞬間、その手が止まった。
「……先生」
「はい?」
「これを、見てちょうだい」
私は差し出された手紙に目を落とした。
そこには、丁寧な文字でこう記されていた。
『なお、先日の交流会について、少しお伝えしたいことがございます。お会いした際に、お話しできれば幸いです』
私は思わずロザリア様と顔を見合わせた。
ミレーヌ様は、何かを知っているのだろうか。
それとも、別の話なのだろうか。
ロザリア様はしばらく手紙を見つめたあと、静かに封筒へ戻した。
「……先生」
「はい」
「わたくし、ミレーヌ様とお話ししてみたいわ」
その声には、先ほどまでの迷いとは違う、確かな意志が込められていた。
「……はい。私も、それがいいと思います」
私は微笑んだ。
噂がどこから生まれたのか、まだわからない。
けれど、今度こそ誰かの言葉だけで決めつけるのではなく、自分の目と耳で確かめたい。
ロザリア様の表情を見ながら、私はそう思った。




