第26話 公爵令嬢の小さな謝罪
領地視察から公爵邸へ戻った翌朝、私はいつもより少し早くロザリア様の部屋を訪れていた。
「おはようございます、ロザリア様!」
「……先生、朝から元気ね」
「ふふっ、昨日はゆっくり休めましたから!」
「わたくしはまだ少し疲れているわ。あんなに長く馬車に乗ったのは初めてだもの」
ロザリア様はそう言いながら、机の上に置かれた手帳を閉じた。どうやら、朝から領地視察の記録を読み返していたらしい。
「それ、昨日の手帳ですか?」
「ええ。忘れないうちに整理しておこうと思って」
「偉いですね!」
「……当然のことよ」
そう答えるロザリア様の耳が、ほんの少し赤くなった。
私は微笑みながら、今日の授業に使う教材を取り出す。
公爵様からの試験は、ひとまず終わった。家庭教師としての仕事を続けられることにもなり、私はようやく肩の力を抜けた気がしている。
けれど、ロザリア様にとっては、あの二日間が何かの終わりではなく、新しい学びの始まりになったようだった。
授業を始めようとしたところで、扉が静かにノックされた。
「失礼いたします。お嬢様、お茶をお持ちいたしました」
入ってきたのは、以前ロザリア様に厳しく叱られていた若い侍女だった。
名前はアンナさん。私が家庭教師として公爵邸に来たばかりの頃、ロザリア様から花瓶の置き方について叱責を受けていた人だ。
アンナさんは慣れた手つきで茶器を並べ始めたけれど、ロザリア様の前にカップを置くときだけ、わずかに動きが慎重になった。
「……アンナ」
「は、はい!」
突然名前を呼ばれ、アンナさんの肩が跳ねた。
「その……少し、話があるの」
「……何か不手際がございましたでしょうか?」
アンナさんはすぐに頭を下げた。
その反応を見て、ロザリア様は一瞬だけ言葉に詰まった。
「……そうではないわ」
「では……?」
ロザリア様は私をちらりと見た。私は何も言わず、小さく頷いた。
すると、ロザリア様は膝の上で両手を握りしめ、ゆっくり口を開いた。
「……以前、あなたを厳しく叱ったことがあったでしょう」
「……はい」
「花瓶の置き方が違うとか、準備が遅いとか……そういうことで」
アンナさんは不安そうに顔を上げた。
「申し訳ございません。今後は気をつけますので……」
「違うの!」
ロザリア様が思わず声を大きくすると、アンナさんはびくっと身を縮めた。
それに気づいたロザリア様は、慌てて口を閉じる。
「……ごめんなさい。怒っているわけではないの」
部屋に短い沈黙が落ちた。
ロザリア様は一度だけ深く息を吸い、改めてアンナさんを見た。
「わたくし、あなたの事情も聞かずに、一方的に叱っていたわ」
「……お嬢様?」
「もちろん、仕事をきちんとしてもらうことは大切よ。でも、だからといって、あんな言い方をする必要はなかったと思うの」
ロザリア様は少しだけ視線を落とした。
「……だから、謝りたかったの。ごめんなさい」
アンナさんは驚いたように目を見開いた。私も思わず息を呑む。
ロザリア様が自分から謝る姿を見るのは、初めてだった。
「……とんでもございません!」
アンナさんは慌てて頭を下げた。
「お嬢様が謝られるようなことでは……」
「……そう言わないでちょうだい」
ロザリア様は小さく首を振った。
「わたくしが悪かったと思ったから、謝っているのよ」
アンナさんは困ったように口を開きかけたけれど、すぐには言葉が出てこないようだった。
しばらくして、ようやく小さな声で答える。
「……ありがとうございます、お嬢様」
その表情はまだ緊張していたけれど、先ほどよりも少しだけ柔らかくなっていた。
◇
アンナさんが部屋を出ていくと、ロザリア様は大きく息を吐き、椅子の背にもたれかかった。
「……疲れたわ」
「ふふっ、お疲れさまでした」
「笑い事ではなくてよ。あんなに緊張するとは思わなかったもの」
「でも、ちゃんと伝えられましたね」
「……ええ」
ロザリア様は少し恥ずかしそうに視線を逸らした。
「先生、わたくし、領地で少し考えたの」
「何をですか?」
「村の人たちの話を聞いて、わたくしが当たり前だと思っていたことが、誰にとっても当たり前とは限らないとわかったわ」
私は静かに頷いた。
「……だから、アンナにも、何か事情があったのかもしれないと思ったの」
「そうですね」
「でも……」
ロザリア様は少しだけ眉を寄せた。
「謝ったからといって、すぐに今までどおりになるわけではないのね」
私はその言葉に、少し驚いた。
「どうしてそう思ったんですか?」
「アンナ、まだ怖がっていたもの」
ロザリア様はカップを見つめながら続けた。
「わたくしが名前を呼んだだけで、あんなに驚いて……」
私はすぐには答えられなかった。これまで何度も叱られてきたアンナさんにとって、ロザリア様の言葉は簡単には忘れられないものだったのだろう。
「……そうですね。時間はかかるかもしれません」
「……そう」
「でも、今日のことは大切な一歩だったと思います」
ロザリア様は少し考えたあと、小さく頷いた。
「……これからは、気をつけるわ」
「はい」
「ただし、仕事の間違いまで見逃すつもりはなくてよ」
「もちろんです。でも、伝え方は考えましょうね」
「……わかっているわ」
ロザリア様は少しむっとした顔をしたけれど、その声には以前のような刺々しさはなかった。
私は教材を開きながら、胸の奥が温かくなるのを感じていた。
(……本当に、少しずつ変わってきているんだな)
ゲームの中で、ロザリア様がどんなふうに使用人たちと接していたのか、私は詳しく覚えていない。
けれど、今の彼女なら、きっと違う未来を選べるはずだ。そう信じたいと思った。
◇
午後の授業が終わる頃、セバスチャンさんが部屋を訪れた。
「お嬢様、少々よろしいでしょうか」
「何かしら?」
「王宮より、お手紙が届いております」
そう言って差し出されたのは、金色の紋章が押された封筒だった。
ロザリア様はそれを見た瞬間、背筋を伸ばした。
「……王宮から?」
「はい。第二王子レオンハルト殿下より、お嬢様宛てにございます」
「レオンハルト殿下から!?」
ロザリア様は思わず声を上げたあと、慌てて咳払いをした。
「……そう。では、いただくわ」
封筒を受け取る手が、ほんの少し震えている。
私は隣で見守りながら、そっと微笑んだ。
(ふふっ、やっぱり嬉しいんだね)
ロザリア様は慎重に封を切り、中の手紙を読み始めた。
けれど、読み進めるうちに、その表情が少しずつ変わっていく。
「……先生」
「はい?」
「これ……」
ロザリア様は手紙を差し出した。
そこには、王宮で開かれる小規模な交流会への招待が記されていた。
参加するのは、王族と、将来の王宮を支えることになる貴族の子どもたち。そして、ロザリア様には、レオンハルト殿下の招待客として出席してほしいという内容だった。
「わあ……! すごいですね、ロザリア様!」
「……ええ。でも……」
ロザリア様は少し緊張したように手紙を見つめた。
「今度は、ただの交流会ではないみたいだわ」
「どういうことですか?」
「王族と貴族の子どもたちが集まるということは、将来の人間関係にも関わるでしょう?」
私は思わず頷いた。確かに、前回の交流会よりも、少し正式な意味合いが強そうだ。
「……先生」
「はい?」
「今回も、一緒に来てくれるわよね?」
「ええっ!? わ、私もですか!?」
思わず大きな声を出してしまい、私は慌てて口元を押さえた。
「だ、だって、私には招待状が届いていませんよ? 王宮の交流会に、勝手についていくわけには……」
すると、ロザリア様はきょとんとした顔をした。
「何を言っているの? 先生はわたくしの家庭教師でしょう?」
「そ、それはそうですけど……」
「前回だって、一緒に来てくれたではないの」
「前回は、公爵様と奥様から同行するように言われていましたから! 今回はレオンハルト殿下からロザリア様へのご招待ですし……」
私が困っていると、ロザリア様は少し不満そうに唇を尖らせた。
「……先生は、わたくしと一緒に行きたくないの?」
「ち、違います! そういうわけじゃありません!」
「だったら、問題ないでしょう?」
「いやいや、問題はありますよ!?」
私は思わず両手を振った。
王宮の交流会なんて、貴族の中でも限られた人しか参加できないはずだ。ましてや、私はただの男爵令嬢で、ロザリア様の家庭教師という立場にすぎない。
(そもそも、私が行っていい場所なのかな……?)
そんなことを考えていると、セバスチャンさんが静かに口を開いた。
「お嬢様、今回のご招待は、あくまでお嬢様ご本人へのものでございます。ベルフォード様の同行につきましては、王宮側へ確認が必要かと存じます」
「……そうなの?」
「はい。必要であれば、こちらから問い合わせをいたします」
ロザリア様は少し考えたあと、すぐに頷いた。
「では、お願いするわ」
「かしこまりました」
セバスチャンさんが一礼して部屋を出ていくと、ロザリア様は私をじっと見つめた。
「……先生」
「は、はい?」
「もし同行が認められたら、来てくれるわよね?」
その声は、いつもより少しだけ控えめだった。
私は思わず微笑み、頷いた。
「もちろんです! 許可がいただけるなら、喜んでお供しますよ!」
「……そう」
ロザリア様はほっとしたように息を吐いたあと、すぐにいつもの表情に戻った。
「だったら、今のうちに準備をしておかなくてはね」
「えっ、もうですか? まだお返事もいただいていませんよ?」
「許可が出てから慌てるより、先に準備をしておいた方がいいでしょう?」
「そ、それはそうですけど……」
「先生は前回、王宮の廊下で迷ったのでしょう? 今度は事前に建物の配置を確認しておくべきだわ」
「うっ……! そこまで準備が必要ですか!?」
「必要に決まっているでしょう」
ロザリア様は当然のように答えると、机の引き出しから紙を取り出した。
「まずは、前回どこで迷ったのか教えてちょうだい」
「ええっ!? い、今ですか!?」
「ええ。道順を確認するには、そこからでしょう?」
私は思わず頭を抱えた。
(……まだ同行できるかも決まっていないのに!)
けれど、真剣な顔で紙を広げるロザリア様を見ていると、なんだかおかしくなってくる。
王宮からどんな返事が届くのかは、まだわからない。
それでも、ロザリア様の中では、私が一緒に行くことはもう決まっているらしい。
「……先生、聞いているの?」
「あっ、はい! 聞いてます!」
「では、前回はどちらの廊下を通ったの?」
「ええと……右に曲がって、それから左だったような……」
「……先生」
「す、すみません! 正直、あんまり覚えていません!」
ロザリア様は深いため息をついた。
「……やっぱり、準備が必要ね」
私は苦笑しながら、差し出された紙を受け取った。
どうやら王宮からの返事を待つ間も、退屈する暇はなさそうだった。




