第25話 公爵令嬢は答えを急がない
翌朝、私たちは村の北側にある学校の跡地を訪れていた。
石造りの小さな建物は、周囲の家々と比べても特別立派というわけではなかったけれど、広い窓から光が差し込む造りになっていて、教室には十数人分の机が残されていた。
「……思っていたより、小さいのね」
ロザリア様が教室を見渡しながら呟いた。
「そうですね。でも、明るくて素敵な教室です」
「机の数も少ないわ。これで村の子どもたち全員が学べたの?」
「以前は年齢の違う子どもたちが、時間を分けて通っていたそうです」
案内役の村長が答えると、ロザリア様は興味深そうに振り返った。
「時間を分けて?」
「はい。年少の子どもは午前中、年長の子どもは午後という具合でございます。農作業を手伝う子もおりますので、毎日全員が集まるわけではありませんでした」
「……なるほど」
ロザリア様は手帳を取り出し、何かを書き込んだ。
私も教室の奥に残された黒板を眺めながら、以前の授業風景を想像してみる。
(時間を分けて教えていたんだ。複数の年齢の子どもを教える工夫は、もともとあったんだね)
前世で学んだ教育方法の中にも、似た考え方はあった。
けれど、ここではこの村なりの事情に合わせて、以前から試行錯誤が重ねられていたらしい。
私が何か新しい方法を持ち込む前に、まずはそれを知る必要がある。
「先生、こちらを見てちょうだい」
ロザリア様が指さしたのは、教室の隅に置かれた木箱だった。
中には使い込まれた教科書や、数字を書いた練習用の板が収められている。
「教材は残っているのね」
「はい。閉鎖するときに、また使えるよう保管しておいたそうです」
「だったら、教師さえ戻ってくれば……」
そこまで言いかけたロザリア様は、ふと口を閉じた。
「……いえ、それだけでは駄目なのよね」
「どうしてそう思ったんですか?」
「昨日、村長が言っていたでしょう。学校を続けるお金が足りなくなったって。教師が戻ってきても、報酬を払えなければ同じことになるわ」
「そうですね」
私は頷いた。
ロザリア様は少し悔しそうな顔をしたけれど、すぐに村長へ向き直った。
「以前の学校には、何人くらいの子どもが通っていたの?」
「年によって違いますが、二十人ほどでございます」
「今は?」
「学齢の子どもは二十七人おります。ただ、すでに働きに出ている年長の子もおりますので、全員が通えるかどうかは……」
村長は言葉を濁した。
ロザリア様が眉を寄せる。
「子どもが働いているの?」
「家の畑を手伝う程度でございます。ですが、人手の足りない家では、その手伝いがなければ仕事が回らないこともありまして」
私は思わず窓の外へ目を向けた。
昨日、集会所で出会った少年も、父親に頼まれて書類を運んでいた。
学校が閉まっているから手伝っているのか、それとも手伝わなければならないから学校に通えないのか。
その違いは、思っていた以上に大きい気がした。
◇
学校を出たあと、私たちは村長の案内で近くの農家を訪ねることになった。
公爵様は別の畑を視察しており、私たちには護衛と侍女が同行している。
訪ねたのは、村の外れにある小さな家だった。
庭先では、一人の女性が農具を洗っていた。三十代ほどだろうか。私たちの姿に気づくと、慌てて手を止めて頭を下げる。
「お嬢様、ようこそお越しくださいました」
「突然訪ねて悪いわね。少し話を聞かせてほしいの」
「は、はい。私でよろしければ……」
女性はマルタと名乗った。
夫と二人の子どもと暮らしているそうで、昨年から畑の収穫が落ち、家計が苦しくなっているという。
「学校が閉まってしまったことについても、伺っていいですか?」
私が尋ねると、マルタさんは少し困ったように笑った。
「もちろん、残念でしたよ。上の子は勉強が好きでしたし、下の子も通うのを楽しみにしていましたから」
「では、学校が再開されたら、お子さんたちを通わせたいですか?」
「……そうですね」
マルタさんはすぐには答えなかった。
その様子に、ロザリア様が不思議そうに首を傾げる。
「何か問題があるの?」
「いえ、問題というほどでは……」
「遠慮しなくていいわ。学校に通わせたくない理由があるなら、教えてちょうだい」
ロザリア様の言葉に、マルタさんは少し困った顔をした。
私は横からそっと声をかける。
「無理に答えなくても大丈夫ですよ。もし困っていることがあれば、私たちも知っておきたいんです」
マルタさんは私たちを交互に見たあと、ゆっくり口を開いた。
「……学校には通わせたいんです。でも、今は上の子にも畑を手伝ってもらっていて」
「畑を?」
「はい。夫の腰が悪くなってしまって、以前のようには働けないんです。私一人では手が足りなくて……」
ロザリア様が口を開きかけた。
「でも、子どもが勉強しなければ……」
そこで言葉を止めたのは、マルタさんの手を見たからかもしれない。
指先は荒れ、爪の間には土が入り込んでいた。
「……そうね。今は、お手伝いが必要なのね」
ロザリア様が静かに言うと、マルタさんは驚いたように顔を上げた。
「はい。申し訳ありません」
「謝る必要はないわ。事情を聞いているだけだもの」
その言葉を聞いて、私は思わずロザリア様を見た。
以前の彼女なら、きっと「子どもは勉強するべきですわ」と言い切っていたと思う。
けれど、今は目の前の相手が置かれた状況を、ちゃんと考えようとしている。
「……もし学校が午前中だけだったら、通わせられるかしら?」
ロザリア様が尋ねると、マルタさんは少し考えた。
「季節によりますね。忙しい時期は難しいかもしれませんが、冬なら通わせられると思います」
「冬……」
「畑仕事が少ない時期なら、子どもたちも時間がありますから」
ロザリア様は手帳に何かを書き込んだ。
「わかったわ。教えてくれてありがとう」
「い、いえ。こちらこそ……」
マルタさんは何度も頭を下げた。
その様子を見ながら、私は胸の奥に小さな引っかかりを覚えた。
(学校を再開できたとしても、通える子と通えない子が出てくるんだ……)
教育の機会を作るだけでは足りない。
その機会を実際に利用できるかどうかも、考えなければならないのだ。
◇
昼過ぎ、私たちは村の集会所へ戻り、午前中に聞いた話を整理していた。
「……先生、学校の授業を冬だけにするのはどうかしら」
ロザリア様が手帳を見ながら提案した。
「冬だけ、ですか?」
「ええ。農作業が少ない時期なら、子どもたちも通いやすいでしょう? 教師への報酬も、一年中払うより少なくて済むわ」
「なるほど。確かに、一つの方法かもしれませんね」
私は頷いたあと、少し考えた。
「ただ、冬だけで必要な勉強をすべて終えられるかは、確認が必要ですね」
「……そうね」
「それから、冬の間だけ教えてくれる先生を見つけられるかどうかも」
「それも問題ね」
ロザリア様は唇を尖らせた。
「一つ考えると、また別の問題が出てくるわ」
「そうですね。でも、現実の問題って、そういうものなのかもしれません」
「……先生は、よく平気でいられるわね」
「えっ?」
「わからないことばかりなのに、楽しそうだもの」
私は思わず苦笑した。
「楽しいというより、興味深いんです。知らなかったことが少しずつわかっていくのって、嬉しくありませんか?」
「……わたくしは、わからないことが増えると落ち着かないわ」
「ふふっ、それもロザリア様らしいですね」
「笑い事ではなくてよ」
ロザリア様はむっとした顔をしたけれど、すぐに手帳へ視線を戻した。
「……でも、答えが出ないからといって、考えるのをやめるわけにはいかないものね」
「はい」
私はその言葉に頷いた。
すると、扉がノックされ、一人の役人が顔を覗かせた。
「お嬢様、公爵閣下がお呼びでございます」
「お父様が?」
「はい。本日の視察について、お話を伺いたいとのことです」
ロザリア様は手帳を閉じ、静かに立ち上がった。
「わかったわ。すぐに伺います」
私はその後に続きながら、少し緊張していた。
(いよいよ、報告の時間かな……)
公爵様がどんな判断を下すのかは、まだわからない。
けれど、ロザリア様がこの二日間で学んだことは、きっと無駄にはならないはずだ。
◇
集会所の広間には、公爵様と数人の役人が集まっていた。
私たちが入ると、公爵様は書類から顔を上げた。
「ロザリア。調査は終わったか?」
「はい、お父様」
「では、聞かせてもらおう。何が問題で、どうすればよいと考えた?」
ロザリア様は一度だけ深く息を吸い、手帳を開いた。
「……まず、収穫量が落ちている原因は一つではありませんでした。畑によって作物の育ち方が違うことに加えて、働き手が減り、耕せない土地が増えていることも関係しています」
「うむ」
「それから、学校が休止したことで、子どもたちが勉強できなくなっただけではなく、村の記録を整理する人も減ってしまいました」
公爵様は黙って聞いている。
「わたくしは、学校を再開するべきだと思います」
その言葉に、役人の一人がわずかに顔を上げた。
「ただし、以前と同じ形では難しいかもしれません。村にはお金が足りませんし、子どもたちも農作業を手伝っているからです」
「では、どうする?」
公爵様が尋ねた。
ロザリア様は少し緊張した様子で答えた。
「……農作業が少ない時期に授業を行う方法を考えました。ですが、教師を確保できるかどうかもわかりませんし、短い期間で十分に学べるかも、まだ調べる必要があります」
「つまり、具体的な解決策は出ていないということか」
公爵様の声は厳しかった。
ロザリア様の指が、手帳の端をぎゅっと握る。
「……はい」
私は思わず口を開きかけた。
けれど、ロザリア様は自分で顔を上げた。
「ですが、お父様。わたくしは、今すぐ答えを出すべきではないと思います」
公爵様の眉が動いた。
「ほう?」
「村の人たちが何に困っているのか、まだ十分にわかっていません。学校を再開しても、通えない子どもがいるかもしれませんし、教師への報酬をどうするかも決まっていません」
ロザリア様は少し言葉を探しながら続けた。
「ですから、まずは村の人たちと、学校をどう続けられるか話し合う必要があると思います」
広間に静かな沈黙が落ちた。
公爵様はしばらく娘を見つめていたが、やがて口を開いた。
「……以前のお前なら、どう答えただろうな」
「……え?」
「学校が必要だと思えば、すぐに再開させるよう命じたのではないか?」
ロザリア様は少し驚いた顔をしたあと、視線を落とした。
「……そうかもしれません」
「では、なぜ今回はそうしない?」
その問いに、ロザリア様はゆっくり顔を上げた。
「……わたくしが必要だと思うことと、村の人たちが実際にできることは、同じではないからです」
私は思わず息を呑んだ。
ロザリア様は少し緊張したまま、それでもはっきりと続けた。
「わたくしは、まだ領地のことをよく知りません。だから、もっと学んでから判断したいのです」
公爵様は何も言わなかった。
長い沈黙のあと、ようやく口を開いた。
「……わかった」
その声は、先ほどよりも少し柔らかく聞こえた。
「ロザリア。今回の報告は、十分に意味のあるものだった」
「……本当ですか?」
「ああ。解決策を急がず、必要な情報を集めようとする姿勢は悪くない」
ロザリア様の表情が、わずかに明るくなった。
けれど、公爵様はそこで私へ視線を向けた。
「ベルフォード嬢」
「は、はい!」
「君の教育方針についても、考えを改める必要がありそうだ」
私は緊張したまま、公爵様の次の言葉を待った。
「……少なくとも、娘が自分で考えるようになったことは認めよう」
「……ありがとうございます!」
思わず頭を下げると、公爵様は小さく頷いた。
「ただし、今回の調査で見つかった問題は、まだ何一つ解決していない。それを忘れてはならない」
「はい」
「ロザリアもだ」
「……はい、お父様」
ロザリア様は真剣な表情で頷いた。
私はその横顔を見ながら、胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。
(……よかった。本当によかった)
今回の視察で、ロザリア様は完璧な答えを出したわけではない。
けれど、自分の知らないことを認め、人の話を聞き、簡単に結論を出さずに考えることができた。
それは、私が家庭教師として何より大切にしたかったことだった。
広間を出ると、ロザリア様は少しだけ肩の力を抜いた。
「……先生」
「はい?」
「わたくし、まだまだ知らないことが多いのね」
「私もですよ」
「……先生も?」
「はい。今日だって、たくさん勉強させてもらいましたから」
ロザリア様は少し驚いたように私を見たあと、小さく笑った。
「……だったら、これからも一緒に勉強するしかないわね」
「はい! もちろんです!」
私が勢いよく頷くと、ロザリア様はいつものように呆れた顔をした。
「……本当に、先生は元気ね」
「えへへ。褒め言葉として受け取っておきます!」
「褒めたつもりではなくてよ」
そう言いながらも、ロザリア様の口元には小さな笑みが浮かんでいた。
私はその笑顔を見つめながら、改めて思った。
家庭教師として、私にできることはまだ限られている。
けれど、この子が自分の力で考え、少しずつ成長していく姿を、これからも見守っていきたい。
そう思えることが、今の私にとって何より嬉しかった。




