第24話 報告書に書かれていないこと
「先生、さっきの帳簿をもう一度見せてもらえないかしら」
少年が廊下の向こうへ去ったあと、ロザリア様は集会所の扉を見つめたまま、そう言った。
「収穫量の記録ですか?」
「ええ。あの子の話だけでは、数字が合わなくなった理由まではわからないでしょう?」
「そうですね。村の方にお願いしてみましょうか」
私が頷くと、ロザリア様はすぐに立ち上がった。
「だったら、行きましょう」
「えっ、今からですか?」
「後回しにする理由があるの?」
「いえ、ありませんけど……公爵様たちはまだ会議中ですし、勝手に書類を調べるわけにはいきませんよ」
「……それくらい、わかっているわ」
ロザリア様は少しむっとした顔をしたけれど、すぐに近くに控えていた侍女へ声をかけた。
「村の記録について質問したいの。担当の方に取り次いでちょうだい」
「かしこまりました」
侍女が部屋を出ていくと、ロザリア様は再び椅子に腰を下ろし、手帳を開いた。
「先生、聞くことを整理するわよ」
「はい!」
私は隣に座り、ロザリア様が書き出した項目を覗き込んだ。
収穫量の集計方法、学校の運営費、教師が辞めた時期。それから、学校が閉鎖されるまでにどんな話し合いがあったのか。
項目を一つずつ確認していると、ロザリア様がふと手を止めた。
「……でも、どうして学校の先生が収穫量の計算まで手伝っていたのかしら」
「そこも聞いてみましょう。学校の先生の正式なお仕事だったのか、それとも個人的に協力していたのかで、事情が違いますから」
「そうね」
ロザリア様は頷き、手帳にもう一行書き加えた。
◇
しばらくして、集会所の一室に通された私たちの前に、二人の男性が現れた。
一人は先ほど畑を案内してくれた村長。もう一人は、領地の北部を担当しているという若い役人だった。
「お嬢様、お待たせいたしました」
「時間を取らせて悪いわね。いくつか確認したいことがあるの」
ロザリア様がそう告げると、二人は少し驚いた様子で顔を見合わせた。
「収穫量の記録について伺いたいの。こちらの資料では昨年の減少率が二割、別の報告書では一割程度になっているわ。どちらが正しいのかしら?」
役人は差し出された書類を確認し、すぐに答えた。
「どちらも誤りではございません。二割という数字は村全体の収穫量を比較したもの、一割という数字は耕作面積あたりの収穫量を比較したものでございます」
「……比較しているものが違うのね」
「はい。ただ、報告書にその説明が十分に記されていなかった点は、こちらの不備でございます」
ロザリア様は眉を寄せた。
「それでは、畑そのものの収穫量が一割減っただけなのに、村全体では二割も減ったということ?」
「おおむね、そのとおりです」
「残りの差は?」
役人は一瞬言葉に詰まり、村長へ視線を向けた。
村長は困ったように頭を下げる。
「……作付けをやめた畑が、増えているのでございます」
「作付けをやめた?」
「はい。働き手が足りず、すべての畑を耕せなくなっております」
私は思わず顔を上げた。
(なるほど。作物が育たなくなっただけじゃなくて、そもそも耕せていない土地があるんだ)
ロザリア様も同じことに気づいたらしく、手帳に何かを書き込んだ。
「それなら、収穫量を増やすには、農業技術の改善だけでは足りないわね」
「……仰るとおりでございます」
村長は深く頷いた。
「若い者の中には、仕事を求めて王都へ出ていく者もおります。残った者だけでは、以前と同じ面積を耕すのが難しくなっているのです」
「……そう」
ロザリア様は少し考え込んだあと、次の質問へ移った。
「では、学校についても教えてちょうだい。昨年から休止していると聞いたけれど、どうしてなの?」
村長の表情が曇った。
「……運営費が足りなくなったためでございます」
「学校の運営費は、どこから出ていたの?」
「村の共同資金からでございます。各家から少しずつ負担していただき、足りない分は村の収入から補っておりました」
「公爵家からの補助はなかったの?」
その問いに答えたのは、若い役人だった。
「一定の補助はございます。ただし、教師の報酬や教材費のすべてを賄える額ではございません」
「……それなら、補助を増やすようお願いすればよかったのではなくて?」
ロザリア様が尋ねると、村長は少し言いにくそうに視線を落とした。
「お願いは、いたしました」
「……え?」
「昨年、学校の運営が難しくなった際に、補助の増額を申請しております。しかし、ほかの村でも同じような要望があり、すぐには対応できないとのことで……」
ロザリア様は黙り込んだ。
私は隣で、その表情をそっと窺った。
(ロザリア様にとっては、お願いすれば何とかなると思っていたことが、実際にはそう簡単じゃなかったんだろうな)
けれど、ここで私が答えを教えるわけにはいかない。
公爵様が求めているのは、ロザリア様自身が考えることなのだから。
◇
「……一つ、よろしいでしょうか」
私は二人へ声をかけた。
「はい、何でございましょう?」
「以前、学校の先生が収穫量の記録整理を手伝っていたと聞きました。それは、学校のお仕事だったのでしょうか?」
村長は少し驚いたあと、首を振った。
「いえ。正式な仕事ではございません。前の先生が、村の者に頼まれて手伝ってくださっていたのです」
「そうだったんですね」
「先生は計算が得意な方で、収穫量を比較するための表も作ってくださいました。おかげで、どの畑の収穫が悪いのか、以前はわかりやすかったのですが……」
村長は申し訳なさそうに続けた。
「学校が閉まってからは、村の者だけで記録をまとめております。数字を記録することはできますが、以前のように細かく整理する余裕がなくなってしまいまして」
「なるほど……」
私は小さく頷いた。
学校の先生がいなくなったことで、村の人たちは学ぶ機会だけでなく、暮らしを支えてくれていた協力者まで失ってしまったのだ。
「その先生は、今はどちらにいらっしゃるんですか?」
「隣の町で、商家の帳簿を扱う仕事に就いたと聞いております」
「そうなんですね……」
私は少し考え込んだ。
(もし学校を再開するなら、教師をどう確保するかも問題になるよね)
前世で教育について学んだとき、教師の人数が足りない地域では、複数の学年を一緒に教える方法があると習ったことを思い出した。
ただ、今の私には、それがこの村で実際にできるかどうか判断できない。
(子どもの人数も、教材の状況も、教師になれる人がいるのかもわからないし……)
私はその考えをいったん胸にしまい、まずは目の前の話に集中することにした。
◇
「……先生」
村長たちが部屋を出ていったあと、ロザリア様がぽつりと呟いた。
「わたくし、少し勘違いしていたかもしれないわ」
「勘違い、ですか?」
「ええ。最初は、収穫量が落ちたなら農業のやり方を変えればいいと思っていたの。でも、働く人が足りなければ、それだけではどうにもならないでしょう?」
「そうですね」
「それに、学校だって……お金が足りないなら補助を増やせばいいと思っていたけれど、ほかの村も困っているなら、全部のお願いを聞くわけにはいかないのね」
ロザリア様は手帳を見つめながら、少し悔しそうに唇を結んだ。
「……思っていたより、ずっと複雑だわ」
私はその言葉に頷いた。
「はい。でも、だからこそ、実際に来てみてよかったんだと思います」
「……そうね」
ロザリア様はしばらく黙っていたけれど、やがて顔を上げた。
「先生、わたくし、一つ気になることがあるの」
「何でしょう?」
「学校を再開できれば、村の人たちの負担も少しは減るのではなくて?」
「……どうでしょう。少なくとも、子どもたちが勉強できるようにはなりますね」
「それだけじゃないわ。前の先生が手伝っていたように、計算や記録の整理もできる人が増えれば、村の仕事も少しは楽になるでしょう?」
私は思わず目を見開いた。
「……なるほど」
ロザリア様は真剣な表情で続けた。
「でも、学校を再開するにはお金が必要で、そのお金が足りない原因は収穫量が落ちていることなのよね」
「はい」
「だったら、先に農業の問題を解決しないといけないのかしら……」
ロザリア様は再び考え込んだ。
私はその横顔を見つめながら、そっと口を開いた。
「ロザリア様。必ずしも、どちらかを先に解決しなければいけないとは限らないと思います」
「……どういうこと?」
「例えば、学校を以前とまったく同じ形で再開するのではなく、今の村でも続けられる方法を考えることはできるかもしれません」
「今の村でも続けられる方法……?」
「はい。ただ、私もまだ具体的なことはわかりません。子どもたちの人数や、教えられる人がいるのかを確認しないと」
ロザリア様は少し考えたあと、頷いた。
「……そうね。だったら、まずはそこを調べましょう」
「はい!」
私たちは手帳を開き、新しく確認する項目を書き加えた。
◇
夕方、公爵様たちの会議が終わり、私たちは再び集会所の広間へ集まった。
公爵様は役人からの報告を聞き終えると、私とロザリア様へ視線を向けた。
「ロザリア。今日の視察はどうだった?」
突然の問いかけに、ロザリア様は一瞬だけ背筋を伸ばした。
「……はい。とても勉強になりました」
「ほう。何を学んだ?」
ロザリア様は手帳を開き、少し緊張した様子で答え始めた。
「収穫量が落ちている原因は、作物の育ち方だけではありませんでした。働き手が減って、耕せない畑が増えていることも関係しているそうです」
「うむ」
「それから、学校が休止していることも、村の暮らしに影響していると知りました」
公爵様の眉がわずかに動いた。
「学校?」
「はい。以前は学校の先生が村の記録整理を手伝っていたそうですが、学校が閉まってからは、それも難しくなっているそうです」
ロザリア様はそこで一度言葉を区切り、続けた。
「……まだ、どうすればいいのかはわかりません。でも、もう少し詳しく調べたいと思っています」
公爵様はしばらく娘を見つめていた。
「……そうか」
短く答えたあと、私へ視線を向ける。
「ベルフォード嬢。君はどう考える?」
「……はい」
私は少し緊張しながらも、正直に答えた。
「現時点では、私にも解決策はわかりません。ただ、ロザリア様がご自分で問題に気づき、調べたいと考えてくださったことは、とても大切だと思っています」
公爵様は黙って私の言葉を聞いていた。
「私は、ロザリア様に正しい答えを覚えていただくだけではなく、わからないことを確かめ、必要な人の話を聞いて判断できるようになっていただきたいんです」
少しの沈黙が流れた。
やがて、公爵様は机の上の書類を閉じた。
「……なるほど」
その表情からは、何を考えているのか読み取れない。
「では、明日も調査を続けなさい」
「……えっ?」
思わず顔を上げると、公爵様は淡々と続けた。
「明日は、学校の跡地と周辺の村を視察する予定だ。君たちも同行するといい」
「は、はい!」
「ただし、明日の調査を終えたら、ロザリアには今回の視察で考えたことをまとめてもらう」
公爵様はロザリア様を見た。
「完璧な答えを求めているわけではない。だが、自分の考えを持って報告しなさい」
「……はい、お父様」
ロザリア様は真剣な表情で頷いた。
私はその隣で、そっと息を吐いた。
(よかった……。少なくとも、もう一日調べる時間をいただけた)
けれど、公爵様の課題が終わったわけではない。
明日の調査で、ロザリア様が何を見つけ、何を考えるのか。
そして、私が家庭教師としてどこまで支えられるのか。
その結果によっては、これからの授業が大きく変わることになるかもしれない。
私はロザリア様の手帳に書き込まれた質問事項を見つめながら、明日のことを考えていた。




